55話

「奥様は本日もお綺麗ですね」


 まばらな雨音が滴る昼下がり。薄暗い室内にあるのは、二人分の椅子と小さなテーブル、本棚とそこに収められた本、宙を舞う微かな埃だけだった。

 吸血鬼の女が持参してきたサンドイッチをもらって食べながら、少年は隣に座る彼女を見上げた。彼女は何も言わずに微笑んでいる。白髪の垂れる横顔は月のように壮麗だった。


「どうしてこんなにお美しいんでしょうか……奥様は」


 少年は吸血鬼の頭からつま先まで、順に見た。

 次の瞬間、指の感触が少年の右頬に走った。細く、指の腹は柔らかだった。吸血鬼が少年の片頬を人差し指でつついたのだ。吸血鬼はその姿勢のまま、少年の顔を覗き込む。秋の海──彼女の青い双眸はどこまでも優しかった。


「貴方は年に似合わずお口が達者ですから、ちょっと困りものですね……。女性を口説くのはあと十年ほど先にしてくださいね?」

「今はまだダメですか」

「はい──」


 吸血鬼の指が離れる。


「貴方はまだ子どもですもの」

「だって……十年は長いです」

「ふふふ。案外そうでもありませんのよ、十年なんて。それに貴方は立派な男性になって、わたくしを口説きたいのでしょう?むしろ短いぐらいですわ」

「その間に、僕は立派になれるんでしょうか」

「貴方のがんばり次第ですね」

「不安しかありません……」

「弱気にならないことです。わたくしは応援していますから」


 にこやかに笑って、吸血鬼は少年の頭を撫でた。彼女は椅子に軽く座り直す。彼女の義足が雨の日の鈍重な光を反射して、少年の瞳に映った。


「綺麗……」

「あら、この足がですか?」


 ロングドレスの裾を若干持ち上げて、吸血鬼は少年に義足の膝下を見せた。緩やかにカーブしたふくらはぎは繊維強化プラスチック製だが、丹念に磨きあげられた表面は光沢を帯びており、本物の足の輪郭を有していた。なまめかしい、女の足。

 少年は息を呑んで吸血鬼の足を眺めたが、慌てて目を逸らす。


「ごめんなさい。奥様にとっては嫌なことかもしれないのに……」

「気にしなくても大丈夫ですわ。わたくしは足を無くしたとは思っておりませんもの」

「……僕はその義足が、好きなんです」

「あら、そうでしたのね」


 吸血鬼の微笑みが一段と深まる。


「実はこの義足、あの人がわたくしにプレゼントしてくれた物なのですよ」


 あの人──。

 少年は胸が苦しくなった。


「奥様、いつか僕も傘士になったら……そういった義足を作れますか」

「ええ、きっと作れますわ。ただその前に、他にも色んな勉強が必要になりますけどね」

「どんな勉強をすれば?」

「そうですね……。まずは外国語でしょう──義肢の部品には、海の外から運ばれてくるものもありますの。言葉を話せなくても、読み書きは出来るようになると良いかもしれません」

「どこの国の言葉を覚えればいいんですか?」


 吸血鬼は少し考えると、さきほどの人差し指を挙げた。順に、中指と薬指も続かせる。


「ドイツ語ですね。それに英語と、フランス語。どこの言語圏にも義肢に強い国が揃っています。文学作品も同様ですから、学んで損はありません」

「分かりました。僕、がんばってみます」

「うふふ……」

「奥様?」


 意気込んで努力すると宣言した少年を横目に、吸血鬼が急に少女のような笑みをこぼした。


「わたくしの娘は傘士にはならないでしょうけど──わたくしとあの人に似るのですから、きっと多くの言葉と本に触れ合うようになりますわ。その時は、勉強を積んだ貴方とも良いお友達になれるかもしれません」

「僕は奥様とお友達になりたいのに」


 突っぱねた言い方で少年は顔を背けた。吸血鬼は絶えず笑みを浮かべている。


「拗ねないでくださいな」

「すねてなんかいません」

「ふふふ……たまに頑固なんですから。いいですか?拗ねるのは男の子の仕事ではないのですよ。それはわたくしたち女の生業ですわ」

「でも──」


 言い淀んだ少年は、細い両腕の中に閉じ込められた。吸血鬼が少年を優しく抱きしめたのだ。


「分かりました?」


 甘い香りがする女性の身体が少年を締めつけた。厳かな旋律を奏でる美声に、少年は従順に頷くことしかできなかった。女の前では、少年は仔犬だった。


「良い子ですね」


 吸血鬼が耳元で囁いた。吐息がかかってくる。


「わたくしがいなくなって、あの人も今以上に仕事に打ち込むようになってしまったら……もう、貴方しかいないのです。あの子の支えになってあげられるのは……」


 吸血鬼は静かに少年から身体を離し、椅子を引いて立った。背の高い彼女に見下ろされた少年は動けなかった。


「これから先、あの子の近くにいてあげてくださいね。わたくしたちのあの子の傍に……。一生のお願いですから」



 長い夢が終わって目が覚めると、全身が寒気と熱と倦怠感に襲われた。

 ブランデル社の自室。ベッドの上。成葉は身体を起こそうとしたが、上半身すら言うことを聞いてくれなかった。片腕と首だけを動かす。目覚まし時計は午前三時を示している。体調がすこぶる悪かった。酷い風邪をひいて、熱を出したようだった。

 ため息ひとつにも疲れる中で、記憶を遡る。

 墓参りを断念したあの後、辛うじて帰ってきたが、シャワーを浴びる体力もタオルで身体を拭く体力もとっくに尽きていた。だが、なるべく早く本で確認したい文章があった。なぞなぞの答えを確信するために、どうしてもそれを早く読みたかった。本棚から目的の本を取ってベッドに腰掛け、何度もページをめくり──それが最後の記憶だった。

 この状態で仕事は無理だろう。出勤時間までに治るとも思えなかった。ベッド上を探ると携帯端末があったので、ぼやける視界と震える指に苦戦しながら、体調不良で休むと会社へメールを送った。


 次に目が覚めたのはその日の夕方だった。

 今度は夢を見なかったと成葉は残念に思った。切実に。

 全身を満たしていた高熱がやや下がり、身体は若干回復したが、自力で立ち上がるのも無理そうだった。仰向けの姿勢で天井を眺める。成葉はその時、違和感を抱いた。額が濡れている。きつく絞った何か冷たいタオルか布のような物が額に載せられていた。視界の隅にも前回目覚めた時にはなかった光がある。夕方で暗くなっているのに、玄関の方が明るいのだ。

 ベッド上で這うように身体の位置を動かす。玄関の方の近くには小さな台所がある。明るいのはそちらの電気がついていたからだった。消し忘れていたのだろうかと思ったが、つけた覚えはない。

 成葉は台所で床に伸びる二本の足を見つけて動揺した。その足が彼の方に向く。


「あら。お目覚めになられたのですね、成葉様。お体の具合はどうですか?」


 慈愛のこもった声を投げられる。足は片方が義足だった。夢で見た、あの銀色の足──。

 成葉は荒らげた声を上げそうになった。


「……小秋さん」


 がらがらの声で、なんとか精一杯彼女を呼んだ。


「はい?」

「どうして……ここに」

「お父様から教えられたのです。貴方が風邪で会社の方を休まれていると」


 顔を出して覗いてくる小秋は、普段の白いロングドレス姿だった。静かな笑顔だったが、そこには毛色の違う愉しそうな含みがある。


「わたくしとても心配でしたの。ですから貴方を看病するために来たのですよ。勝手に上がった挙句、許しもなく台所まで借りてしまって……申し訳ありません」

「……どう、して。ここに……」


 熱のせいで頭も舌も回らず、成葉は同じ質問を出した。ぼうっと蒸されるような体から放熱するように重い咳をし、もう一度口を開く。


「どうしてここに……入れたんです。鍵は……鍵は、かけたはず」

「……お父様にお願いしました。会社の寮ですもの、スペアはすぐに用意していただけましたわ」


 小秋はどこからともなく鍵を取り出した。


「チェーンロックの類をかけていらっしゃなかったので上がらせていただきましたの」


 成葉は、昨夜の記憶を掘り起こす。なぞなぞの検証に気を取られていたので、玄関は通常の鍵しかかけていなかった。


「……これさえあれば、いつでも成葉様にお会いできますね」


 数秒の静寂が部屋を包む。

 しとしとと、雨音が蠢く生物のような響きとなって流れてきた。

 風邪で苦しくて何も言えないのか、畏怖から黙っているのか──それすら自分で分からないほど成葉は弱っていた。彼を見下ろしながら、小秋は崩したように微笑んだ。


「うふふ……なんて。ご心配なく。貴方の看病が無事に済みましたら、きちんと返却いたしますよ」

「いつから、こちらに」


 小秋は一旦、台所の方に引っ込み、また戻ってきた。小秋はタオルを手にし、湯気の上がる土鍋を持っている。それをテーブルに置いてから、成葉の方に目をやった。


「どうだったでしょう?お昼頃からだったと思いますが」

「学校は……授業はどうしたの、です」

「この部屋で受けていました。成葉様の具合を看ながら。オンライン授業の強みです、こういう事態でも出席ができるのは」


 小秋に支えられて、成葉は上半身を起こした。

 テーブルには土鍋と小皿とスプーン、コップがひとつずつ。他には小秋のノートパソコンがあった。どうやら成葉が寝ている間は、それを使っていたようだ。


「話をされるのも辛いのでしょう?聞きたいことは後に全てお答えして差し上げますから、まずはご飯にしましょうか。ね?しっかり食べないと、お体に触りますもの……」


 いそいそと土鍋の蓋を開け、小皿に粥を取り分けるなど手際よく準備し、小秋は成葉の傍らに座った。成葉はあぐらをかくのが辛くて、重い足を床に放った。ベッド脇にある本棚の側面に左肩を預ける。

 ベッド上で、二人が腰掛けている形になった。成葉の右足に、小秋の義足が触れていた。


「お腹、空いています?」


 成葉は力なく頷いた。

 それはどこかで見た光景だった気がした。ベッドで白い髪と青い瞳を持った女と並んで座る、雨の部屋──。

 小秋は仄かに頬を赤らめ、目を輝かせる。


「作っておいて正解でしたね。と言っても、簡単なお粥ですけれど……はい、あーん」


 スプーンを向けられた。小秋が食べさせようとしているのだ。成葉は片手を挙げて、制止させる。


「自分で……」

「ですが……成葉様、大変辛そうにされていますから。大丈夫ですのよ?具合が悪い時ぐらい、普段より甘えていただいても──」

「いいですから、自分で……食べます」


 咳をこらえて、成葉は手を伸ばした。小秋の手にある小皿を取ろうとしたが、彼女はスプーンを持つ方の手と共にそれをかわした。

 小秋は不満そうに眉を寄せた。


「“自分自身満身創痍で、それで他人の傷を癒そうというのか”。成葉様は足を無くした人々を助ける傘士でいらっしゃるのでしょう?貴方が病人でどうするのですか。強がらず、今はわたくしの看病を受けてくださいませ」


 口調は柔らかく、それでいて厳しかった。

 小秋は改めて粥のスプーンを成葉へ向けた。


「……“病人はあれもこれもできないこれもだめだから、喜ばせるのは大変でしょう”……」


 成葉は軽口を叩いた。小秋の引用に対し、同じ著者の引用で返したのだ。

 スプーンが僅かに揺れた。小秋は嬉しさと困惑と僅かな怒りが混ざり、表情に困っている。


「もう、成葉様ったら……看病とはそういうものです。わたくしにだってそれぐらいは分かりますわ」


 小秋は、今度こそスプーンを迷いなく成葉の口の方へやった。


「たとえそれがどれだけ大変であったとしても、弱い人には寄り添ってあげなくてはいけませんわ。さあ──いい加減、観念してくださいね」


 粥の味がした。


「お口に合いました?」


 風邪のせいなのか、時折味が分からなくなったものの、粥は美味しかった。小秋らしく楚々とした雑味のない米の香りが口いっぱいに広がる。

 食欲を取り戻した成葉は咀嚼し、小秋の方を見る。営業時の愛想笑いではない、本物の笑顔で小秋に頭を下げた。


「美味しいです」

「……成葉様?」

「何ですか?」

「まだ……ご気分が悪いのですか?わたくし、貴方に無理に食べさせてしまって……すみません」


 みるみるうちに小秋の顔が青ざめていった。どういうことなのか、成葉は読み取れずに混乱した。本物の笑顔を振りまいたはずだったのに──。


「どうしたんですか小秋さん。お粥、美味しかったですよ、本当です。嘘じゃ……」

「それなら、どうしてそんなに泣いているんですの?」


 いつの間にか成葉の頬に伝っていたのは、雨ではない水だった。

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