54話

 屋敷を出た成葉は、社用車を会社の車庫に戻すと、徒歩で墓地へ向かった。会社を出たのは午後四時を少し回ったところだ。ブランデル社から墓地までは徒歩だと二時間以上はかかる。しかも今は雨勢が強まってきているときた。

 天候に構わず成葉は歩いた。自分の足で向かうと心に決めた。山奥の道を練り歩く修行僧や、ラクダと共に砂漠をゆく旅人のようにひっそりと。孤独に。ただ、ひとつの身体で。

 その長い道中に、小秋が示した例のなぞなぞを考えることにしたのである。そうしようと決めた理由は単純だった。会社へ車を戻す際に、小秋の屋敷の天井に彫られていたモンテーニュの言葉が蘇ってきたからだ──“わたしの思考は、もし座らせておくと眠ってしまう。わたしの精神は、もし足がそれを揺り動かさないと進んでいかない”。寮の自室で物思いにふけるのも悪くはないが、小秋の屋敷を飛び出してきた手前、そんな気分にもなれなかったのだ。

 成葉はひたすら思考を巡らせ、共に足を動かした。

 普段使う花屋に立ち寄ったが、雨のせいか早くも店は閉まっていた。今買っても、花びらが雨で散ってしまうだろう──と言い聞かせて手ぶらで移動を再開する。

 三十分ほど黙々と歩いていると、茶色の濁流で満ちた川が見えてきた。その上にかかった橋を渡る。渡る時、成葉は「私は人間だ」とぼそりと発した。吸血鬼は川や流れる水の上を通れない、という小秋から教えてもらった古い伝承に対するあてつけに近いものだった。

 歩みを止めない。

 すれ違う車は配血企業の車か、物資運搬の大型トラックのみ。外を歩いている人は誰もいない。雨は通常のものだったが、雨量は凄まじかった。途中、何度も気象観測課から『外回り中の全社員へ』と警告が入った。報せによると雨量は一時間あたり二十ミリを軽々と越えているらしい。

 成葉は意識的に屋根の下ではない、外の空間を歩いた。会社を出る前、念のために着用した装備を信頼していたのだ。対台風用に保管されている重装備の耐雨外套である。だから雨の荒々しさを承知の上で、焦ることもなく目的地へ進み続けた。

 いつの間にか無線端末の電源を切った。小秋のなぞなぞに、自分自身の問題に、ただ向かい合ってみたかったのだ。容赦のない雨の中にあっては、この傘士の青年を邪魔する者は誰もいなかった。

 なぞなぞを考えていると不意に、成葉の胸の奥で津吹の姿が浮かんだ。妻の死後、雨下を延々と彷徨い歩くという津吹の後ろ姿が。

 彼は一体、どうして雨の中を歩くのだろうか。何のために──。

 

 見慣れた道に差しかかる。毎年墓地まで、社用車で行く際によく使う道路だ。残り半分といったところか、と息を整える。水たまりに足を取られたので流石に疲れた。成葉は歩道の隅で立ち止まる。付近にある廃墟の剥がれかけたトタン屋根には、気持ちよく雨が弾けていた。

 フードから顔の前を覆う透明の防護シールド越しに、空を仰ぐ。灰色の空。色のない雨粒たちは、ぼつぼつぼつ、と厚い外套をつついてくる。成葉はフードを脱いだ。通常雨はひどいが、瘴雨は周囲一帯にまったく降っていない。

 雨で顔が濡れる。雨に打たれる。今の雨が瘴雨であれば、もう成葉は吸血鬼になっていてもおかしくはないほど、雨を浴びた。降りしきる雨に沈んだ。

 再び歩き出しながら、成葉は辺りを見渡す。雨に浸る町外れには、かつて多くの人が住んでいた住居の成れの果てが軒を連ねていた。瘴雨以後のバブル崩壊時に一斉に放棄された街並みだ。

 なんて人間は弱いのだろう、と顔をしかめた。瘴雨の混乱の結果がここにはあった。世界中にもこれと似た景色が広がっていると思うだけで人の弱さを実感した。冷戦時代に降り始めた瘴雨は、人々の心の繋がりを断絶し、各々を孤立させた。

 小秋の言葉がふつふつと耳に響いてきたように感じた。人は昔から弱かった。些細な出来事で生存と安心を脅かされてきた。その弱さを反映した──言わば人の心の生き写しが、吸血鬼という魔物だったのだ。

 吸血鬼は鏡に映らない。それは吸血鬼自体がそもそも現実に存在しない、フィクションであることのみを示唆するのではない。敵だと思っていたものに目を凝らせば、それは自分自身に過ぎないというお話なのだ。吸血鬼は戒めとして機能する伝説なのである。同様に、吸血鬼が川を渡れない理由もそこにある。それは以前の小秋からの説明で理解していた。あの時は水族館の帰り道だった。二人で雨の中、駐車場に停めた車に向かう時に、小秋に教えてもらったことだった。

 当時の小秋の笑顔が思い浮かぶ。その次に、津吹の低い声が届いた気がした。

 しばらく前に、津吹はドストエフスキーの言葉を引いて、人間は恩知らずの二本足の動物だと言った。何か似た言葉を読んだ記憶があった、と成葉は腕を組んで考える。ぼんやりと頭にかかる霧を払うように、雨に頭を晒し、強く歩いた。

 そうこうしていると、急に視界が広がった。開けたコンクリート造りの土地──目指していた墓地があった。そちらにある低い階段を一歩ずつ、滑らないように歩いていると、はっとして成葉は顔を上げた。


 ──シェイクスピア?


「“衣をまとわぬ人間は、こんなあわれな、裸の二本足の動物なのだ”」


 遠い昔に暗記していたが、つい今までに引っ張り出す場面がなかったその言葉。遠方の廃墟の群れに視線を戻してから、成葉はその言葉を繰り返す。シェイクスピアの『リア王』の一節だ。

 成葉は自嘲気味に笑った。外套に身を固め、安全に雨に濡れる自分のことを言われているように思えたのだ。


「……二本足の動物」


 そう呟いて、成葉の中で急速に答えが構築されていった。周りは薄闇に落ちていたが、日が落ちる前から二本足の自分がここまで歩いてきた。の自分が……。

 もしかして。その考えが加速度的に膨らんでいく。

 去年、小秋はあるヒントを言った。雨の降るこの世界全体がそうだと。人間を吸血鬼に変えてしまう恐ろしい雨が降る、この世界だと。

 ポリドリは言った。ヒントは名前にあると。傘士という名称に謎は隠されていると。


『お客様が自分の力で自由に歩くことができれば、その杖をお使いになることもなくなりますよ』


 小秋に義足の契約をしてもらう最初期の段階にて、拒む彼女に投げかけた傘士としての言葉が再生された。

 雨の日に見た、てるてる坊主。

 制作部屋に並ぶプラスチックの手足。

 あし。足。自立する植物たちの絵。客と白鷺は立ったが見事。

 スキーで転ぶ同僚。産まれたての小鹿のような初心者たちと、すいすいと滑る上級者たち。

 義足をつけて、リハビリ施設で歩き始めた小秋の練習姿。

 日傘を差す小秋。相合傘だと言って、腕を組んできた彼女の恥ずかしそうな微笑。

 義足のない状態で差し出された両足。柔らかな膝枕。


 ──あのなぞなぞの答えは……。


 成葉は帰ることにした。

 津吹家の墓前までは行かず、墓地全体に一礼だけして踵を返したのだ。吸血鬼が眠る墓に手を合わせるつもりだったが、なぞなぞの答えらしきものが出た途端、そちらを思考する方が重要な用事に思えたのだ。どのみち吸血鬼が好んでいたツツジの花はないので、今はそれが良いだろうと彼は思った。

 それに、寮の自室に戻ってどうしても確認したいものがあった。なぞなぞの最終検証のために。

 帰り道も徒歩だった。日が落ちて、月と夜の世界になっても、雨はしつこく降っている。

 暗くなると、道路を走っていた業者たちの車もいなくなった。等間隔に光る街灯だけが成葉を導く。茫漠とした時間と孤独があった。足が青年を揺り動かし、夜と雨が彼を包んでいる。

 謎解きと遊歩に夢中で気がつかなかったが、外套越しにもすっかり身体が雨で冷えていた。無線端末の電源を入れて気象情報を聞いてみると、雨量は更に強くなり、人が外を出歩くことすらままならないレベルに達していた。フードを被り直しても、一度雨を浴びて本格的に冷えてしまうと元の体温には戻らない。春先なのに奥歯がガタガタと鳴った。

 暗い雨雲に隠れ、微かに覗く月を見上げる。

 太陽のように暖かな光を送ってくれ、と言わんばかりに怪訝な表情で、成葉は不毛な大地の惑星にじっと視線を送った。灰色のはずの惑星は薄らと黄色く光り、人を惑わす。古来より月は狂気の元とされてきたそうである。月と言えば、やはりあの夏目漱石だろうか。厳密には彼の言葉ではないが、“月が綺麗ですね”というフレーズが浮かぶ。否、そうではない──。

 気を取り直すつもりで、成葉は空咳をした。だが、それは本物の咳になっていた。誰もいない、無駄なく耐雨性を高めて整備された道に鈍い咳が伝わった。

 解きかけていた問題から展開して、小秋の過去の発言の整合性に改めて気づく。

 小秋はなぞなぞを出した時、自らはスフィンクスだと言った。旅人に足の問題を投げかけ、自らは四本足の動物の下半身を持つスフィンクスだと。そして問題を解けない旅人を食べてしまうのだと言って、連日のように成葉の血を吸ったのだ。

 青年は月から目を離す。首元が汗で熱く湿った。問題を解けない日々の中、小秋は旅人を食べるスフィンクスを演じてきた。その小秋の甘い息遣いを思い出し、頬が火照ったものの、雨の冷気で助けられた。また、小秋はこうも言った。スフィンクスはオルトロスという犬から生まれたのだから、決して猫ではなく犬なのだと。そこから派生して、犬と吸血鬼は関係が深いとも言っていた。西洋では犬や狼は遥か昔から吸血鬼とは最も縁のある動物で、吸血鬼が犬や狼を従わせることもあれば、対立することもあるそうだ。

 たしかに、吸血鬼から華々しい伝説の数々が削られ、社会的弱者である身体障害者になった現代にあってもそれは変わりないと言えるだろう。訓練された介助犬は、日夜至る所で足の欠けた吸血鬼を助けているし、他人との交流を持ちづらい吸血鬼の心を支える愛玩動物として寄り添っているのだから。小秋に連れられて見た犬の像が瞼の裏に浮かんだ。名古屋栄にあった盲導犬の銅像だ。一本の足を失ってまで飼い主を守り、讃えられた犬……。

 それに犬は、牙と唾液によって狂犬病という魔を運んでくる。瘴雨患者という現代版吸血鬼は違うが、昔の吸血鬼作品に出てくる名だたる吸血鬼たちは、その大半が噛む行為によって相手の人間を吸血鬼に変えた。牙と唾液が吸血鬼化する要因であるのが主なのだ。

 そういう観点から、犬と吸血鬼には無視できない相関関係があるように思えてならなかった。

 加えてもうひとつ、犬には吸血鬼と共通点がある。水だ。彼らは水に弱いのだ。非常に水を嫌う性質から逃れられない。それなのに、重力によって地球の水の運命を支配している──水の惑星たる月を見るなり、荒れ狂って狼男なんかに変身したりする。

 ブラム・ストーカーの『吸血鬼』では、かのドラキュラ伯爵は太陽光も平気だった。太陽光によって吸血鬼が死滅する、というメジャーな誤解は後年の映画の後付けが原因だった。しかし多くの古典吸血鬼作品では、吸血鬼のメインな活躍の場は月明かりのある夜ばかりだ。地球の水を操る月に照らされて、犬と吸血鬼は大いに人間界を暗躍するのである。これは非常に面白い矛盾ではないだろうか。


 成葉の頭には、そんな風に吸血鬼をめぐる様々な考えが浮かんでは消えていった。

 相変わらず身体は冷えたが、青年は家路を急いだ。今すぐにでも確認したい本があった。本文は大体記憶していたが、現物の文章を読んで、自分の考えをまとめたかった。

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