52話

「何って……とぼけなくてもいいじゃないか。だって、君には解かないといけない問題があるんだろ」


 ポリドリは成葉へ向き直った。


「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものとは何か……たしかこんな問題だったね」

「……何故、ポリドリ先生がそれを知っているんですか?」


 自分の声が震えているのが分かった。成葉は後ずさりするように主治医の男から距離をとる。

 ポリドリが答える前に、成葉は勘づいた。なぞなぞを教えたのは津吹だろう、と。あの問題は元を辿れば、小秋が誕生日プレゼントにもらった一冊の文庫本に由来しているからだ。しかし、津吹が何故そのような真似をしたのかは不明だ。これと関係があるのかは知る由もないが、空港にて津吹とポリドリが出会い、何かしら短な会話をしていたと成葉は思い出す。


「津吹支社長から?」


 先を促すように成葉が言うと、ポリドリは満足したように頷いた。


「彼との契約があるんで、成葉くんにはこの件について口にできないんだがね。ただ、君と僕の仲だ。個人的なヒントをあげようじゃないか──これだよ」


 ポリドリは右手の人差し指をわざとらしく挙げると、それで白衣に付いている自分のネームプレートを指差す。


「はい?」

「だから、これだ」

「……名前が何だって言うんですか」

「そう、名前だよ。呼び名」

「それが……このなぞなぞを解くヒントで?」

「うん、そいつがキーだ。君たちにまつわる名前が」

「一体何を……」


 ちらりと、心にズレが生じる。

 愛称ではない──本名。そのものについて思惟すると、途端に凄まじい吐き気が込み上げてきた。どこからともなく浴びせられた怒号で、鼓膜が地響きのように揺れた気がした。怒号。男の罵声……。

 成葉は目を伏せる。


「私の名前は……足とは無関係ですよ」

「面白いジョークだ。君の立場でそれを言うのか。まったく面白い奴だね」

「どういう意味です、それ?」

「いずれ分かるさ。しかし、今僕が言った名前とは成葉くんのそれじゃない。君やあの課長さんのことさ」

「もしかして……傘士のことですか?」

「僕から言えるのはこれまでだよ。話は終わりだ。早く帰るんだな。雨、またひどくなるらしい」


 ポリドリは成葉の質問には聞く耳を持たず、コツン、と窓を軽く叩いた。会議室を後にしていく主治医の背中を見送って、成葉は「傘士」と独り呟いた。



『傘とは、雨や太陽光を防ぐために使う道具である。配血企業に所属する義肢装具士を指すスラングとして一般にも定着しつつある「傘士」というものがあるので度々誤解されるが、傘とは近年進化が目覚しい耐雨外套のことではない。あくまで手に持つステッキ状の雨具を指す。

 雨量の多い日本では、昔から傘が発達していた。伝統的な製法で作られた和傘は世界的にも高い評価を獲得しており、技術と芸術の双方の界隈から有名だった。しかしこれも、瘴雨が降る前までの話であり──』


 本を閉じる。

 リハビリ施設での会合から数日後。小秋の屋敷──二階の彼女の自室。そちらで埋もれた本から、成葉は傘にまつわる記述がある書物を見つけた。この程度の内容なら彼も知っていたので大きな発見ではなかったが。浅くため息を吐く。部屋の扉が開く音がした。


「成葉様、謎解きの方はいかがでしょうか?」


 紅茶とスコーンを載せた盆を手に、小秋が部屋に入ってくる。ふわりとスコーンのバターの匂いがする。


「何か引っかかるものが出てきましたよ。手がかりになるのかは分かりませんが……前よりは、前進した感じです」

「それは良かったですね──そろそろ一区切りつけて、休憩されてはどうでしょう?」


 時計を見ると、本棚と対面してから数時間も経っていた。


「すみません……連日、小秋さんの所にお邪魔してしまって」


 成葉は軽く頭を下げた。この部屋にいる時、二人で使うテーブル席に場所を移した。

 青年の前に紅茶とスコーンを出しながら、小秋はくすりと小さく笑う。


「気にされなくても大丈夫ですよ」

「でも……かれこれ一年以上も経ってしまいましたよ。小秋さんもよく飽きませんね」

「貴方が来てくださるんですもの、不満なんて何もございませんわ」


 小秋はきっぱりと言った。芯のある、通った女性の声だった。彼女の長い睫毛が数回、静かにお辞儀する。青い双眸は成葉を捉えて離そうとしない。

 小秋の言葉には気負った反応はせずに、成葉はさりげなくスコーンを一口食べた。


「ん、これとっても美味しいですね」

「ありがとうございます。成葉様に喜んでいただけて嬉しいですわ。そちらのスコーン、今朝の自信作なんです」

「前に食べたものより美味しくなっている気がします。作り方を変えたのですか?」

「作り方はそう変わっていませんの。料理もお菓子作りも肝心なのは愛情ですよ」

「なんだか私風情にはもったないものを頂戴してしまったようで心苦しいです」

「そんなことはありません。貴方が喜んでくださるのなら、わたくしはいくらでも愛情を込めたものをふるまって差しあげますわ。もちろんこれからも」

「これからも、ですか。そうですね……」


 紅茶でスコーンを腹へ流す。くどくないバターの香りと、茶の穏やかな温かさが心地いい。


「そうです──これからずっと。ずっとです」


 小秋も紅茶を口にしてから言った。彼女の声には、子どもの背をそっと押す母親のような慈しみがあった。

 成葉はそれを嬉しく思った。だが同時に、彼女の声からは、際限のない呪縛に似た底知れないものも感じた。

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