51話
小秋の屋敷に頻繁に出入りするようになってからは、夕立のような速さで月日が流れた。
季節は春。小秋は高校三年生になり、いよいよ進路を巡って実家に戻る回数が増えた。それに伴って、屋敷を留守にすることも多くなり、これまで通りの本探しと吸血、ささやかな茶会をする機会は減った。寂しさはあったが、小秋に無用な心配はかけられない、と成葉は疎かにしていた傘士の仕事に再び精を出すようになった。だが、青年の胸中には、吸血鬼からのなぞなぞが変わらず確かな存在感を放っていた。
四月頭のある時、午後の仕事が一区切りついて小休憩していた成葉は課長に呼び出された。リハビリ施設で開かれる会合に同席してほしい、とのことだった。
ブランデル社から車で施設へ移動する道中、外はまばらに雨が降っていた。車載ラジオからは県内各地の天気予報が告げられている。助手席に座る成葉は、隣にいる、丸々とガルガンチュアのように太った中年男を見た。車は彼の私物で、足元には物やゴミが散らかっている。
「課長、今からの会合は本当に私でいいんですか?適任の傘士は他にいくらでもいるかと思いますが」
「暇そうにしてただろ?あとドイツ語の読み書きができて、海外製品にも詳しい傘士を送れって連絡があったからな」
課長の話によると、今回の会合はドイツ製品の採用についてのものらしい。昨年にドイツから帰国した津吹は、向こうで試験的に運用され始めた義肢製品の一部をこちらでも取り入れようとしており、手始めに製品について現場の技術者同士が意見交換する場を設けたようだった。技術者はブランデル社の数名の傘士と、業務提携するリハビリ施設の理学療法士をはじめとする医療スタッフたちだ。
義肢の作成に使用する製品の変更自体はよくある。その度にこうして検討し合うわけではないが、試験的な部品は念のために行うことになっている。
成葉は車内に転がっていた、しわくちゃの義手のカタログを拾った。課長の仕事用の資料だった。ページをめくると、頭が痛くなるほど難解な言語がぎっしり並んでいる。
「結局、義肢と言えばドイツになるんですね」
「あそこは俺たちとは実績が違うよ」
かの国は第一次世界大戦の敗戦後、多数の身体障害者を抱えた過去がある。その需要を満たすように、義肢の技術が目覚しく向上したのだ。瘴雨以前から義肢にかけては世界最高水準の技術大国であることは誰も否定できない。世界中で瘴雨が降り始めた後も、同国は自動車産業の他に義肢の部品製造で国家の経済を支えている。
「ヨーロッパでは瘴雨が比較的少ないというじゃないですか。日本の降水量は、通常雨も──向こうの二倍近くもあります。雨の中を移動する身としては、正直彼らが羨ましい限りですよ」
「ここは雨の国だからなぁ……」
ハンドルを切りながら、課長はため息を吐いた。バックミラーには疲れた様子の中年男のたるんだ頬が映り込む。血色が悪い。
「でも、そのおかげでわれわれ配血企業も儲かるってものだ」
「海外の配血企業はあまり大きくないと耳に挟みましたが、そうなのですか?」
「俺も実際に見たことはないけど、そうだとはよく聞くな。日本ほど物流網が発達している国は多くないし、雨も少ないから……納得はつく」
リハビリ施設に近づくも、施設の地下駐車場へ続く道は混雑していた。思うように車が進まなくなった課長は、皮肉交じりに笑った。
「雨天の移動に車はうってつけという訳だ。それで自動車産業頼りの日本経済はバブル崩壊後も輸出でカバーできたから大して落ちぶれなかった。雨さまさまだよ、ホント」
「みたいですね」
成葉は苦笑を返した。
「瘴雨なんてさっさと止めばいいものを……俺たちが仕事に困らないぐらい、適度に」
課長は手を挙げて、バックミラーにぶら下がる何かを指で弄んだ。白い布で作られた、手足のない人形みたいな不気味な物だった。
「課長?それ、なんですか。どこかのお土産のキーホルダー?」
「そうか、お前らの世代だともう知らないんだな……。こいつはな、てるてる坊主だ。晴れるように祈っとく人形みたいなものだよ」
「本で読んだことはありましたが……実物を見るのは初めてです」
「昔は誰でも作ってたしどこでも見かけたんだが、最近は色々とうるさい世の中だ。晴れるように祈るのは瘴雨患者への配慮が足りないだのなんなのって騒がれてからは、忘れられたんだろうな」
手足のない、胴体と頭だけの人形。成葉はそれを眺めた。てるてる坊主を握る課長の太い指が、人形の手足の代わりのようにも思えて、成葉は目が離せなかった。
*
会合は多人数が参加する予定だったが、今回は都合の合わない人間が重なったので四名だけの場になった。ブランデル社からは義肢装具士課の課長と成葉、リハビリ施設側からは医者の中年男と理学療法士の宇田が出席した。中年男は小秋の主治医──ポリドリだった。
問題のドイツ製品の実物とカタログを囲うようにして、四人は実際に客へ提供する義肢にこれを使えるかどうか、性能面、費用面などの様々な観点から検討した。他の出席者の意見も汲み取らなければならないので、今回は細かな確認を相互にするだけで終わりになった。
「成葉。悪いんだが俺は今日これで直帰するから、お前も勝手に帰ってくれ」
分かりました、と成葉が返事するよりも早く、課長は施設の会議室を出ていった。
主治医の男──ポリドリがにやりと笑う。
「気を悪くしないでくれ成葉くん。実はあの人、息子さんが少し前からここでリハビリ中でね。ちょうど今もいるんじゃないかな……だから会いに行ったのかも」
「……息子さんが?じゃあもしかして──」
「瘴雨を浴びたわけじゃないよ。冬に家族で行ったスキーで足を骨折したんだそうだ」
「事情は呑み込めましたが……この施設は瘴雨患者専門では?」
「うん。だけど、津吹さんのツテで入ってきたんだよ。息子さんが完全に歩けるようになるまで、信頼できるスタッフについていてほしかったみたいでね」
成葉は腑に落ちた。数ヶ月前から小秋の屋敷に入り浸るようになって、仕事でつまらないミスを連発してしまったのは事実だが、それにしては課長に怒られ過ぎた感じがあった。課長がやけに神経質になっていたのは、息子の怪我の件が絡んでいたようだ。
──息子が怪我をしたのは、そうも心が乱れる事態なのだろうか?
退室した課長の背中を探すように、成葉は出入口の両扉に首を向けた。
「なによ成葉、聞いてなかったの?職場の上司のことなのに」
出席不足で余ったペットボトルの緑茶を口にしながら、宇田が不思議そうに訊いた。
「お互い、仕事の話しかしませんから」
「男ってやっぱその辺冷たいよね」
「嫌ってるわけではありませんよ。必要性を感じないだけです」
ポリドリがいる手前、成葉は几帳面な口調で応えた。宇田はそれが可笑しかったのか、へらへらと口元を緩ませる。
「やっぱり冷たいよ。その点、私みたいに女だと自分の家族や友達のことを喋らずにはいられないもん」
「それはそうかもしれないね。だって宇田くん、ここのところ彼氏さんのことばかり話してるから……」
ポリドリが呆れたように言った。男のその辟易とした雰囲気は感じなかったのか、無視したのかは知る由もないが、宇田は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は成葉には無縁のもので、彼は心の中で鎖が鈍くちぎれたような痛みが走った。思わず俯いてしまった傘士の青年には構わず、宇田とポリドリは話を続ける。
「結婚したら、二人の苗字はどうなるんだい?宇田くんが高田くんになるのか」
「そうなります。式も挙げますから、よければ先生も来てくださいよ」
「もちろん僕も行くけど、一体何年後?」
「同棲してお互い本当に不満がないって確認できたらなので……どうでしょう、でも二年か三年後ぐらいにはって、あいつも言ってくれたんです」
「はは、それはいいね。しかしねぇ、気をつけるんだぞ。男の言う数年後は十年後って可能性もあるからねぇ。僕も女房と結婚する時、そこで大喧嘩になった」
「え、そうなんですか?私、三十までには結婚したいから、十年後とか言われたらすごく困りますけど──」
「ポリドリ先生」
その名前を発した途端に、二人の視線が成葉に注がれた。彼が発した名前の意味が分かるのと、分からない様子のアイコンタクトそれぞれが奇妙に交錯する。
話が終わらないと悟った成葉が、二人の会話を断ち切る形でその名を呼んだのだった。怪訝な重みを帯びた語調に、室内は通り雨の最中にあるような空気になった。
「……どうしたんだ、成葉くん。そうかしこまって」
宇田と話していた時とは打って変わって、ポリドリは仕事の顔つきになった。
「ポリドリ?ねぇ……成葉、なにそれ?」
首をかしげる宇田には目も向けず、成葉は窓辺に立った。雨に濡れたガラス窓からは、灰色のビル群が見渡せる。
「これでも先生の立場も分かっているつもりです──。だから一点だけで構いません。お訊ねしたいことがあります。小秋さんは、いつから吸血鬼になったんでしょうか?」
「吸血鬼……か。久しぶりに耳にしたよ。随分と古風な言葉を知っているね。流石は津吹夫妻の申し子と言ったところかな?」
「ちょ、ちょっと!成葉、あんた何話してんのっ?」
話についてこれない様子だった宇田だったが、吸血鬼というのが瘴雨患者を意味するのだと理解したようで、成葉に食ってかかった。
ポリドリには聞こえないよう成葉を部屋の隅に連れていき、低く耳打ちする。
「小秋ちゃんのことを探っていたのは私もだし、あんたの気持ちは分かるけど、なにも先生に直接聞くことないじゃないっ。私の悪行、全部バレたらどうすんのよ?」
「宇田を巻き込むつもりはない。これは私と小秋さんの問題で、元々お前には関係のない話だからな」
「だからってあんたさぁ……」
「小秋さんのリハビリで違和感を覚えてくれたこと、それを私に伝えてくれたことには感謝してる。宇田がお喋りで助かった」
「褒めてるつもりなの、それ」
「一応」
「ばっかみたい。高田ならもっと上手くやるわよ。じゃあ何──よくわかんないけど、あんたの中で先生を問いただせる証拠ができて、私の出番はもうなくなったわけ?」
成葉は無言で首肯した。宇田はため息を吐く。
「ならもう私は何もしないわ。けどね、それなら……小秋ちゃんはあんたに任せたわよ。わかった?あの子のことを泣かせたら……ただじゃすまないからね」
「分かってる」
かつかつと足音を大きくして、宇田は課長と同じように両開きの扉から退室した。扉が閉まるなり、ポリドリが椅子から細い身体を上げて立った。
「今日は僕も、もうこれといった仕事がなくてね。成葉くん、話はこの辺の店で食事でもしながら──」
「ここで結構です。すぐ済みますから」
「おじさんとの飯は嫌かい?」
「前までは平気だったんですけどね。あのお嬢様と食事するようになる前は」
「そうか。君も吸血鬼に魅力されてしまった哀れな獲物ということか。わがままな青年だな、君も」
軽口を言い合って、成葉とポリドリは見合った。
「で、成葉くん。その僕の呼び名をどこで?といっても津吹さんに決まってるか」
「はい」
「お嬢様が吸血鬼化された時期についても津吹さんから聞いたのかい?それともお嬢様本人から?」
「それについては触れないでいただけると助かります」
「なるほど。では他に内通者がいたわけだ。例えば宇田くんとか」
成葉の背中には冷や汗が垂れたが、ポリドリは笑っている。
「ははは、彼女は本当にお喋りだねぇ……。ま、知ったことじゃないけどね。なにせ僕はポリドリだ。バイロンの権威を借りて文壇を席巻した詐欺師みたいな人間なんだから、騙す方が騙されても文句は言えない」
ポリドリは窓に手を当てた。彼の手の熱で、輪郭をなぞるように白い手形がじわりと浮かぶ。成葉の横に、白衣姿の男が窓に映る。
「津吹さんも酷い人だ。僕のニックネームにそんな悪意を込めたんだからな。だけど、それは君に対してもだったね。そうだろう……成葉くん?」
「何のお話で?」
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