50話
雨音が耳に流れてくる部屋。そこには吸血鬼の女と、一人の少年がいた。二人は仲良く椅子を並べて読書に
何時間そうしていたのだろう。日が傾き出し、少年はあくびをした。彼が読むアンデルセンの『人魚姫』の絵本は、低学年向けではなく、高学年向けのものだった。日本語訳の文章は原文に近く、文字数も多い。絵本というよりは児童向け文学書だ。当時の少年には難しい所もあったが、その都度、隣に座る吸血鬼が分かりやすい助言をくれた。
本を最後まで読み終えると、少年は隣にいる吸血鬼の足を見た。
窓から零れる雨天特有の鈍い光に照らされて、彼女の左足──銀色の義足が美しく煌めく。まじまじとそちらを見つめていたが、その足が雨音に紛れて動いた。
「あら……?わたくしの足がどうかしました?」
吸血鬼が少年の方を向いて、そう訊ねた。大聖堂に響き渡り、聞く者全てを敬虔な心情にさせるような声だった。
「いえ、僕はなにもっ」
少年は目を泳がしながらも取り繕った。吸血鬼は、彼の年相応な姿を眺めて静かに微笑む。
「読み終わったみたいですね?面白かったですか、『人魚姫』は」
「はい。だけど……ちょっと悲しいお話でした。最後、人魚姫は死んでしまったんです」
「それで良いのです。名作は、その大半が悲劇ですわ。悲しくても、そこに人々の心を掴む何か大切なものがあるのですよ」
悲劇は名作、という言葉を少年が聞いたのはそれが初めてだった。
「なにより、足に迷う者は最終的には皆……死すべき運命にあるのですから」
椅子に座っている吸血鬼は自分の本を開いたまま、青い瞳を窓に向けた。窓ガラスは水滴がまばらにつき、ステンドガラスのように外からの光を独特に変化させている。
「奥様、それってどういうことですか」
「今はまだ分からなくても大丈夫ですよ。決して焦ってはいけません」
「……わかりました」
「それにしても久しぶりですね。こうしてここで貴方と本を読むのは……。わたくしが見ない間に、より一層、本に親しくなってくれたようで感激しました」
「全部、奥様のおかげです」
「ありがとう。でも、次はいつになるのでしょうね……」
吸血鬼は寂しげな苦笑を浮かべた。少年は俯きそうになったが、椅子から跳ねるように立ち上がった。
「いつでも。いつだって、僕は大丈夫です。奥様と本を読むの、本当に好きなんです」
「ふふふ、嬉しい。ええ、わたくしもですよ。雨と貴方のおかげで……今日もとても読書が捗りましたから」
「奥様はさっきまで、何を読まれてたんですか?」
「モンテーニュの『エセー』ですよ」
吸血鬼は手にしていた本を小さく挙げてみせた。古い紙の匂いが少年の顔にまで届いた。
「もんてーにゅ?」
「フランス貴族の思想家で……中年になってからは自分の屋敷に閉じこもって、本を読む生活を送った方です。わたくし、残りの人生はこの方みたいに過ごしたいと思っていますの」
「本を読む毎日かぁ……いいなぁ、楽しそうです」
「そうでしょう、そうでしょう?」
吸血鬼はにこにことした様子で何度も頷いた。上品ながらも、その少女のような屈託のなさは、少年から見ても綺麗だった。
「ですからわたくし、手始めに彼の真似をしてみますわ」
「モノマネ?それってどんなのですか?」
「内緒ですわ。いつか、貴方に教える時が来ると思いますから……お楽しみに」
吸血鬼は愉しげに天井を見上げた。変なの、と少年は思いながらも、吸血鬼の整った横顔を見つめた。仄かに朱が差す彼女の白い頬は、甘い香りを放っているようだった。
気を遣わない沈黙がくる。
雨音が自分たちを外から閉ざす感覚が、少年の心の内で強くなっていった。そこで彼はつい、「あの」と声を振り絞った。
「はい?」
吸血鬼は視線を下げた。互いに目が合う。秋の海、平穏な凪──彼女の両目が少年の心を握りしめる。
「どうしても、僕ではダメなんですか」
「何のお話ですの?」
「奥様の傘士は、僕じゃダメで──」
少年の声を拒むように、放送を告げるチャイムが鳴った。続いて女性スタッフの声。それは吸血鬼に迎えが来たことを伝える内容だった。
吸血鬼は何事もなかったように、腰を上げる。彼女は声色を変えずに「さっきの話ですけど」と切り出す。
「今はまだ、貴方は何者でもありませんわ。未来もあります──わたくしよりももっと好きになるべき相手がきっとどこかに居ると思いますよ。貴方はその方を探してください」
「奥様よりも好きな人なんて、どこにもいません」
「男性としては素敵な台詞ですね……他人の奥さんを好きになるのは、ちょっぴりいただけませんが」
意地になって断言する少年を数秒見下ろしてから、吸血鬼はくすくすと可笑しそうに笑った。
少年は悔しくて泣きそうになった。いつもと同じく彼女からまるで相手にされていないと思ったのだ。だがその矢先、吸血鬼はしゃがんで、少年と目線の高さを合わせてきた。彼女の滑らかな唇と、海を写したような眼が接近すると、少年は息を殺すように呑んだ。
「鈍感ですのね。ほら、少し前に、貴方をお絵描きに誘った女の子がいたではありませんか」
「いましたっけ?」
きょとんとする少年に、吸血鬼は呆れたようにわざとらしく眉を寄せた。
「今から話すことはここだけの秘密の話にしてくださいね……?あの子、去年の夏ぐらいから貴方のことが気になってるんですのよ」
「僕はその子のこと、気になってませんけど」
「きっぱりものを言うのは素敵な心構えですね。ですが、相手に伝えるのなら当人へ直接言うべきです」
「そんなの嫌ですよ……。僕の友達が言ってましたもん。女子を泣かせると、男子同士で喧嘩した時よりも先生にきつく叱られるって」
「当然ですわ」
さも平然に言ってのける吸血鬼に、少年はむっとした。
「不公平じゃないですか」
「そうではありませんわ。女の子は男の子よりもずっと他人を恨みますし、自分にされたことをいつまでも覚えている生き物なのですよ。だからどんな事があっても、女の子を怒らせてはいけないのですよ」
少年を諭すように、吸血鬼がそう告げた。彼女は手にする本のページをめくり、目的の文章を発見したらしく手を止める。
「“女性から受ける被害で、嫉妬ほど悪質なものはない。嫉妬とは、女性の気質のうちでもっとも危険なもの”……」
「嫉妬?」
「分かりましたか?これからは女の子の扱いにだけは絶対に気をつけてくださいね、成葉」
*
長い夢から覚めて、意識が現実に戻される。視界に広がる和室の天井には何もない。
成葉が深い眠りから目覚めると、外は闇に眠っている気配がした。その予想は的中しており、壁掛け時計は二十二時半の時刻を指している。
膝枕をしていたはずの小秋はいなくなっていた。何となく、自分が起きた理由が彼女の足がなくなったからだと成葉は感じた。小秋はどこに行ったのだろう。成葉は一階のリビングルームを起点に、各部屋に声をかけていった。
数分ほどそうしているうちに、バスルームの方から物音がしていると気づく。雨音だと思っていたが、実はシャワーの音だったようだ。小秋が使っている様子だった。脱衣場の外からであっても声をかけるのは
室内の一人掛けのソファに目をやると、小秋の義足が立てかけられていた。近いのでここに置いたのだろう。
風呂上がりは義足との接合部が蒸れるので、しばらくは体温が落ち着くのを待つ人が多い。講習でその情報は知っていたが、何年も傘士をやっていて、風呂上がりの客と接する機会は成葉にとっては初めてだった。そう意識すると、成葉はむず痒くなってきた。男が女を待っている現在の状況に。
一言、メールを入れて早く帰った方が良いのでは──。
「……あら、成葉様。お目覚めになられていたのですね」
青年が独りで戸惑っていると、バスルームから出てきた小秋が声をかけてきた。
成葉は空咳をした。緊張で立ち上がり、他人行儀に会釈する。
「つい先ほど起きました。小秋さんがいなくなっていましたので、屋敷中探してましたよ」
小秋は少し笑ってから「すみません」と楽しそうに謝った。
「シャワーを浴びてくると一言お声かけしようと思ったのですが、あんまり成葉様が気持ちよさそうに眠っていましたから……」
「いえ、おかげさまですっきりしました」
小秋は義足を手にし、ソファに座った。彼女の格好は、普段通りの仕立ての良いロングドレスだ。風呂上がりにしては不自然だった。室内であるし今は夜なのだから、肌を極力隠すためのドレスは意味がない。もしかしたら、屋敷に来た客人たる成葉に失礼のないよう気を遣っているのかもしれない。
足の欠けた小秋は、義足を抱え直す。淑女らしく恥じらいに染まった頬は、横に向いた。
「わたくしの膝枕は……どうでした?」
成葉も同じように目を逸らした。話題を変えようとしたが、小秋はきっと許さないだろう。仕方なく成葉は言葉を探す。
「とても良かったです。安心できたと言いますか、そんな感じです」
「これまでの膝枕で一番でした?」
頭痛がした。逡巡を挟んだ後、成葉は頷いた。
「……もちろんですよ」
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