第9章 少年の足

49話

 “あなたをこんなにお愛ししていなかったら、他に恋人をこしらえて、生き血を吸い尽くす決心もできるのですが、あなたという方を知りそめてからは誰も彼も嫌でたまらないのです……”


 ──ゴーチエ『死霊の恋』



 “あなたの心が傷ついていれば、わたくしの心もいっしょに血の出る思いがするのよ”


 ──レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』



 “血を飲んで誤りなき真実をお話するから、どうか穴の傍らを離れ、鋭利の剣を引いて下さらぬか”


 ──ホメロス『オデュッセイア』



 日毎に寒さが増している。

 年末を目前に控えて、成葉はこれまで以上に小秋の屋敷へと足繁く通うようになっていた。

 現状、定期輸血と義足の点検で訪れるよりも、本を探すため──そして小秋の吸血欲に付き合うための訪問頻度の方が高い。

 それは次第に収拾がつかなくなっていた。休日は当然のこと、平日も運よく早く帰宅できた日は、成葉は迷わず屋敷へ向かっていたのである。青年の頭の中は、義足と血液を除けば、吸血鬼となぞなぞのことでいっぱいだった。

 なぞなぞを解く。必死に本探しに明け暮れるほど、小秋は今までよりも更に深い親しさと笑顔を惜しみなく振りまいてくれた。小秋の笑みが嬉しくて、成葉は彼女の期待に応えようとした。なぞなぞの出典元の書籍を辿る途方もない仕事を諦めようとはせず、むしろ熱中していった。時には夜遅くまで屋敷に残ることもあった。流石に屋敷で朝を迎える真似はしなかったが、寮での休息や睡眠時間を削るのは日常茶飯事となった。


「なぁ、おい。お前もういい加減にしとけよ」

「すみませんっ」


 そんな日々を過ごしているうちに、ついに仕事の態度を課長から咎められた。

 とある平日の昼間、事件が起きた。原因は成葉のスケジュール管理のミスだった。

 名のある傘士になってきた成葉は、新規の客から直々に指名された案件が入っていたのだが、こともあろうに彼は先方とのスケジュールを忘れてしまっていたのだ。納品間近にあって、義足はソケット部の採型作業しか済んでいなかった。同時に他の予定も押していたが、名指しされた案件を断るわけにもいかなかった。結局、そちらの客を優先するしか道はなく、成葉が制作中だった別の客の義足は、手の空いていた傘士に譲ることになった。双方の客にこれらの事情は一切伝えずに。結果的には、どちらの客の義足も無事に納品が完了した。しかしその後、本件に関して強いクレームが来た。事前連絡もなく途中で制作スタッフが入れ替わったことに、不信感や嫌悪感を抱いた客からのものだった。運の悪いことに、この客と成葉を指名していた客は知人同士であり、制作担当のスタッフの急な変更や、案件に対して優先度をつけられたと確かめ合い、大いに憤ったようだった。本件はブランデル社の東京本社にも通達されると、同社のグループ内ではちょっとした騒動になった。記者会見とまではいかないにしろ、上の立場の人間が二人の客へ謝罪を行う形になった。

 運の悪いことは重なるもので、これは品質強化期間として本社側から各支社への監査が徹底されている期間での出来事だった。成葉一人の不注意による失態で、愛知支社の評価には少なからず傷がついたのである。

 身近な傘士は庇ってくれたり、気にしない素振りをしてくれたものの、社内を歩けば、別の課の人間たちからは後ろ指を指されて噂話のタネにされる日がしばらく続いた。

 これは入社以来、仕事はそつなくこなし、失敗らしい失敗をしてこなかった青年の心には耐え難いものだった。津吹は何も言ってこなかったが、それが成葉には余計に苦しかった。

 その後は大きな失敗こそなかったが、成葉は細かなミスを立て続けに起こした。会社では課長に小言を突かれるようになっていた。

 調子が悪いんじゃないか、と仲間たちから心配されるのが辛くて、せっかくの彼らのフォローを素直に受け入れられず、徐々に成葉は孤立していった。

 奇妙なことに成葉はそこまで気に病まなかった。自分の置かれた状況に暗雲が立ち込めても、たとえ仲間たちから軽蔑されたとしても。気づいた時には既に遅かったからだ。もはや青年には雨の下の屋敷で待つ吸血鬼と、彼女から与えられる言葉と嬌笑しか価値のあるものが残っていなかったのである。


 年は明け、仕事で忙しい時期が静まり出した頃。日曜日に休日を取得できた成葉は、小秋の元に行くと、彼女と向かい合って座り、各々たくさんの本を読んだ。

 洋風建築の屋敷の一階の奥にある、畳が敷き詰められた広い和室。

 第二の客間として設けられたそうだが、こちらで小秋が一人暮らしするようになってからというもの、元の面影はなくなった。二階の小秋の自室に入り切らなかった本の仮置き場になり、こたつを置くなどの改良が加えられて、完全に冬場の読書家向けの娯楽室と化していたのだ。

 二月、まだ冬は深い。こたつの布団の中で、もぞもぞと小秋の足が動く。


「成葉様の足……とても温かいですね」


 若干の恥じらいが混じった声で、それでいて遠慮なく小秋は言った。布団で隠されたテーブルの下で、彼女の言葉は真の意味を持っている。

 椅子ではなく床に座る小秋は、成葉の寮の部屋を訪れた時のように無防備な雰囲気だった。

 小秋は、ちょいちょいと爪先を伸ばすと、成葉の足に触れた。小秋の爪先は細い。すらりとした足全体には張りがあり、きめ細かく若い肌だと感じさせる。温かいこたつの中でも汗はひとつもかいておらず、小秋の足は器用に動き続けた。彼女の足はさらさらと春風に吹かれる艶麗繊巧えんれいせんこうな反物のようだった。


「足、くっつけすぎですよ」

「嫌でしたら、わたくしから離れてくださいな」


 こたつは狭くはないが、場所を変えたところで小秋の足から逃れられるスペースはない。嫌ならこたつから出ろということだろう。


「意地悪な吸血鬼ですね」


 成葉はその場に留まった。するとまた、小秋の足が妖しくまさぐってきた。


「小秋さん、くすぐったいですから……」

「貴方は弱いんですのね……うふふ、可愛い人。悔しかったらやり返してくださっても結構ですのに」


 盗み見するように、成葉はこたつの側で転がる小秋の義足を視界に入れた。

 義足の膝間接の制御ユニットは電子製品の塊だ。暖房器具の熱に晒すのは適さないので、小秋は左足を外している。


「それよりも──貴方は右足と左足、どちらが好みですの?」

「え?いえ……右と左で特に変わりはないかと思いますけど」

「そうでしょうか?ではわたくしがもしも右足を欠いていたとしたら、どうでしょう?」

「どうって……やはり変わりは、ありませんが」


 嘘をついた。成葉はそうと分かっていながらも、小秋に首を振ってみせる。

 数秒の静寂の後、小秋は優雅な微笑を浮かべた。


「“女神がわたしの足を取られたのだ、以前から母親のようにオデュッセウスに付き添って助けてやられる女神がな”──。成葉様、正直におっしゃって?右足と左足、どちらがお好きですの?」

「なんですか、その質問。だってそれは……」

「成葉?あまり逃げることばかり考えないでください」


 小秋の青い瞳がじっといさめてきた。

 その目つきは、成葉の記憶の奥底に生きる吸血鬼の女のものだった。


「わたくし、正直な人が好きですわ。でも嘘つきは嫌いです。成葉はもちろん前者ですよね?……答えをおっしゃって?」

「……私は」


 小秋は無言で首を微かにかしげ、微笑のまま成葉を捉えている。呼吸を整えると、成葉は意を決して口を開く。


「恥ずかしながら……私はその、義足ではなく、本物の足という意味では……右足が好きです」

「あら、やっぱりそうでしたのね!」


 ぱっと明るく笑う小秋は、足を引っ込めると、こたつから出てきた。ぎこちなく身体を床の上でずらし、彼女は成葉に近寄る。

 後ろに回られ、成葉は小秋から抱きしめられた。小秋からゆっくりと頭を撫でられるのが心地よかった。


「よく言えましたね。正直な貴方にはご褒美を差しあげますわ」

「ご褒美、とは何です?」

「こっちにおいでください」


 小秋が離れた。

 体をねじって振り向くと、小秋が少し引いたところにいた。足を崩した形の座り方をして、視線を成葉に投げていた。彼女は自身の太腿を手で何度か小さく叩く。青年を誘っているようだった。


「最近、貴方は随分とお疲れのようでしたから……ね?」


 ぽんぽん、と腿を叩いていた小秋の手が止まった。世間を知らない無垢な手の下には、処女地に積もった雪のような少女の生足が不揃いでそこにあった。

 少女の足は成葉の目に焼きついた。

 なんて美しいんだろう──。見とれてしまい、成葉は愕然とした。吸血鬼の前で、自分の足が動かなくなっていると悟ったのである。


「どうか……わたくしのこれを枕にして、一眠りしてください」


 成葉が返事を出来ずにいると、小秋は座った姿勢のまま、身体の位置を少しずつ前へとずらしていく。揃っていない足は不自由だったが、小秋の所作は美しかった。

 ふと成葉は、かつてこの国にあった“立てば芍薬座れば牡丹”という言い回しを思い出した。既に規制されている言葉だが、小秋の本で読んだことがあった。綺麗な女性を花に例えたものだが、あれの本質は「足」にあったのだ。

 美しい女性は洗練された足の佇まいから生まれるのではない。美しい足そのものが女性だったのだ──。たった今、膝枕を誘う吸血鬼の少女を前にして、成葉はそう確信した。

 下半身はこたつの中で、腹ばいに近い体勢の成葉の元に着くと、小秋は彼を仰向けにし、その頭を自身の腿へと載せた。


「おやすみなさい、成葉」


 頭をまた優しく撫でられた。

 こたつで温まった身体と、そこに蓄積した疲れ。そして小秋の足の柔らかい感触に突き動かされ、成葉はとろとろと眠りに落ちていった。

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