48話

「成葉様は、傘士としての腕は良くとも、女性の扱い方に関してはまるでなっていませんのね」


 淡白な口調で小秋が言った。心の痛痒すらも感じさせない、他人事のような言葉遣いで。成葉は胸を削がれるような思いに駆られた。

 窓辺からの雨音が、吸血鬼と傘士の間を独特な沈黙に浸した。昼間だが部屋は暗い。陽光は厚い雨雲に閉ざされ、室内は電気がつけられていないためだ。二人の心情を写し取ったような空間がそこにはあった。

 雨の静寂に嫌気がさしたのか、小秋は手を伸ばし、最も近くにある本棚から本を取り出した。彼女はその本を開くと、目を紙面に落とす。

 それからずっと小秋は本を読んだ。限られた昼休みの時間を気にもとめない素振りで、黙々と。

 日頃から読書を好んで嗜む小秋だが、机を挟んで誰かと向かい合っている際、何分も本に意識を傾けるような真似はしない。相手に対する礼儀を欠く行為だからだ。血液と義足を介した交流を一年以上も重ね、心を許した成葉が相手であってもそうだ。今の小秋のその行動は、彼女が非常に不機嫌である証拠に他ならなかった。


「私が小秋さん以外の誰かと会うのが嫌なのですか」


 成葉が発した。

 小秋は驚いたように眉を上げる。


「……お仕事なら気にしません。それよりも、成葉様はわたくしのこと、そこまで心の狭い人間だと思われていたのでしょうか?」

「違います──今の状況で小秋さんの機嫌がよろしくないのは、私の言動が直接の原因だと思いましたので。七月の頭にも、似たようなことがありましたし……」


 それは津吹が帰国した日のことだ。彼と、宇田との個別の密会が開かれ、小秋を放置する形になってしまったのも、小秋がブランデル社の社員監視機構を使って、成葉の外出行動を把握していると判明したのも同日の出来事だった。

 小秋は機嫌を直したらしく、微笑ともとれない、ほんの僅かな笑みを返す。


「分かっていらっしゃるのなら結構ですわ」

「では、やっぱり……私の行動記録に不審な点があるのが気に入らないのですか」

「わたくしを差し置いてどこかに行かれるのでしたら、事前に一言ぐらい伝えていただきたいのです──そう考えるのは、いけないことでしょうか?」

「傘士にも最低限のプライベートはあります」


 少し黙ってから、小秋は本に視線を戻した。ぺらりと紙が擦れる音が耳に入った。その音がやけに頼りなく聞こえたのは気のせいだろうか。小秋は、本しか頼れない非力な文学少女のように、手元の本へ俯いていた。


「本日は……本当に、わたくしが立ち入れない、貴方の個人的なご用があったんですの?」

「そう受け取ってもらえると、私は助かります」

「あら、そうでしたのね……」


 ぱたりと本が閉じられる。小秋は今にも泣きそうな顔を隠すように背けた。


「裏切られた気分ですわ」

「小秋さん?」

「わたくしなら貴方を助けられますわ。成葉様にはわたくしが必要なはずなのです……それなのに、こうも受け入れてくださらないのは何故ですの?」

「何をおっしゃっているのですか」


 そう返事した成葉だったが、小秋が言わんとしていることは汲み取れた。それについて言及すると、本格的に小秋との仲がこじれてしまうように思えて、自分の口からは切り出せなかったのだが。傘士と吸血鬼という契約関係にあり、読書友達でもある小秋を失うことが恐ろしかったのである。

 今の関係を壊したくない──そんな使い古されたフレーズが、成葉の頭に浮かんだ。

 テーブルには小秋が読んでいた、古い背表紙の本が無造作に置かれていた。シェイクスピアの『マクベス』だ。


「わたくしは吸血鬼ですわ。そして旅人に問題を投げかけるスフィンクスなのです……。わたくし、猫は好きではございません」


 小秋は椅子から立ち上がった。こつり、と彼女の義足の音が木目の床で波となる。


「それなのに、貴方は“足を濡らさず魚を取りたがる猫のように生きて行こうとおっしゃるのですね”──。ねぇ、マクベス?」


 マクベスの夫人の台詞を引用してみせる小秋の頬には、空知らぬ雨が伝っていた。



「今日は泊まっていってください」


 小秋がそう提案してきたのは、午後六時を回った時だった。雨の勢いは多少だがかげり、辺りは薄闇に沈んでいる。

 屋敷の二階にある小秋の自室で、なぞなぞの出典元になった希覯書を探す作業に没頭していた成葉だったが、吸血鬼からの突然の申し出に苦笑する。


「丁重にお断りします」

「会社の寮には門限なんてありました?」

「そういう問題ではありません……お嬢さんしかいらっしゃらないこのお屋敷に、私のように男が寝泊まりするのは常識的に考えて駄目だということです」

「わたくしがまた機嫌を損ねてもよろしいのですね」


 小秋は冗談半分と言いたげに微笑んだ。成葉もつられて似たように笑った。


「困りますね。しかし流石に泊まるというのは……」

「ご遠慮することはありませんよ。貴方の身体はたくさんの血を失った後なのです。本探しでお疲れのことでしょうし、今日は安静にした方がよろしいと思いますわ」


 小秋は、ちょんと成葉の首に指先で触れた。青年の首には止血のための包帯が巻かれていた。

 津吹家の墓参りの一件をめぐる、静かな言い争いは数時間前に終わっていた。結局、成葉は全てを小秋に話すことはしなかった。

 それでも、涙を流す小秋を放って帰るほど成葉は不義理な人間ではなかった。小秋の涙は、元を辿れば彼自身にあったからだ。屋敷に一人寂しく住む小秋に笑顔でいてほしいと願い、無理に義足を与えた過去がある成葉にすれば、小秋が悲しむ姿は見ていられなかった。学校側には体調不良だと申告し、午後のオンライン授業を休むまでに塞ぎ込んでしまった少女の容態が、傘士として不安だった──という職業上の建前も、屋敷に留まる成葉の決心を手伝った。

 落ち込む小秋を慰めようと、成葉は、調整の必要のない義足を点検し、慣れない台所を借りて紅茶を淹れ直し、小秋の好きな本の話を振ったりした。そうしているうちに日が傾き始め、小秋に笑顔が戻ってきた。もう帰っても大丈夫だろう──成葉がそう安堵しかけていると、首に激痛が走った。小秋に噛みつかれたのだ。暗黙の挨拶もない、不意な、断る退路を見せないようなむさぼる吸血だった。これまでで一番長い吸血だった。八つ当たりにも、復讐にもとれるほど、強い力で噛まれて血を吸われた。しかし成葉は何も文句は言わなかった。ただ少女を抱いて、その小さな背中を優しく撫で続けた。

 成葉は壁掛け時計を見た。小秋の手当を受け、本の捜索作業に着手した時から二時間ほど経過している。


「お気遣いには感謝しますが、あれぐらい血を抜いたぐらいで貧血には襲われません」

「お待ちくださいませ」


 成葉は身支度にとりかかったが、すぐに小秋が腕に絡んできた。小秋は華奢ながらも肉付きの良い、しなやかな女性の身体だった。腕に絡まれるというのは、全身で引き留められることだと青年は知った。


「泊まっていかれなくとも、せめてお夕飯だけでも……ご一緒に。それすらも駄目なのでしょうか?」

「そういうことでしたら」


 なんだか言いくるめられた感が否めなかったが、成葉は小秋に付き合うことにした。

 屋敷のリビングルームには、一人住まいには不要にも思えるほど大きな長方形のテーブルがある。アンティーク調の造りだ。空の蝋燭ろうそく立てや花瓶があるので、リビングの雰囲気は西洋のそれが漂っている。

 夕飯はシチューだった。成葉が本を探している間に作っていたらしい。薄切りのフランスパンと共にいただく小秋特性のシチューは美味しかった。食後、デザートに、と小秋は切り分けたタルトを小皿に載せて出してきた。既視感のあるタルトだった。


「これは……」


 成葉が目配せすると、小秋は頬を赤く染めた。いちごのソースぐらいに。


「お夕飯といって付き合わせてしまって……ごめんなさい。本当はこっちが目的だったんですの。その……わたくし、今年の誕生日は実家の方に行くことになってしまったので──当日、残念ながら成葉様にお会いする時間が作れそうにないのです」


 あ、と成葉は声が出そうになった。三日後の十一月二日は小秋の誕生日だ。本日の墓参りが最優先事項だったので、成葉はすっかりそのことを忘れていた。

 タルトケーキは、名古屋の商業ビルにあるケーキ屋のものだ。そのケーキ屋は昨年の小秋の誕生日に、彼女と共に出向いた店である。


「どこかのタイミングで、二人っきりでお祝いしていただきたくて」

「そういうことだったんですね。では、小秋さん。少し早いですが……十七歳のお誕生日、おめでとうございます」


 成葉は小さく頭を下げ、拍手で祝った。


「ありがとうございます。成葉様にお祝いされて……わたくし大変幸せですわ」

「そう言ってくださると私も嬉しいです。じゃあいただきましょうか」

「そうしましょう。タルトはまだ余りもありますから、ご遠慮なくたくさん召し上がってください」


 フォークを握ろうとした手を収めて、成葉は部屋の電気のスイッチを目で探す。


「どうしたんですの、成葉様?」

「せっかくですから──ロウソクでも立てて電気を消した方がちゃんと誕生日のお祝いらしくなるかな、と思いまして」

「まあ、お気遣いありがとうございます。成葉様は本当にお優しいんですのね」


 小秋は微苦笑した。


「去年はお店でしたし、予約もしていなかったらお祝いらしいものが出来なかったじゃないですか。小秋さん、ロウソクってありますか?」

「お気持ちだけで良いのですよ。気にされなくとも大丈夫ですわ。実を言うとわたくし……あの炎が昔から苦手なんですの」

「あのって、ロウソクのが?」

「はい」


 小秋は、リビングテーブル上にある空の蝋燭立てを指さした。見るからに長らく使われた痕跡がなかった。


「何か嫌な記憶でもあったのですか」

「いいえ、特には──タルトケーキは少々固いですからね。それに細いロウソクは上手く刺さらないかもしれません」


 言い終えてから、小秋がにこりと口角を上げた。蝋燭の炎が苦手な説明が不十分だ、とでも言いたげな成葉の顔を見たからだろう。


「……ルーマニアの吸血鬼には、ロウソクの炎が苦手という伝承がありますの」

「それでいつしか、小秋さんも苦手意識を?」

「たったそれだけの話になってしまいますけれど、そうですわ」


 成葉は、いちごタルトを見下ろした。じゅくじゅくとしたいちごの果肉がたくさん載せられている固いタルト生地のケーキ。たしかに蝋燭を刺すには面倒な種類だし、刺したところで不格好だろう。

 小秋は過去に言っていた。父親と母親に連れられて、よくこのタルトを食べていた──と。


「……小秋さん」

「なんでしょうか?」

「いつから吸血鬼になったんですか」

「え?あらあら、変な質問をされますのね」


 花のように笑う小秋だったが、彼女の周りの空気は凍りついていた。


「いつと訊かれましても……去年の梅雨ですわ。出かけている時に、瘴雨を浴びてしまったのです。それで左足が壊死してしまって、お父様に義足と血液の手配を頼んだのです。でも、お父様は貴方をわたくしの専属の傘士に指名されて──」


 小秋は決まりきった説明をした。成葉が小秋の担当になるまでの経緯だ。


「私はそんなことを聞きたいんじゃありません。本当のことを知りたいんです」


 成葉は静かにかぶりを振った。

 小秋は、ひと口だけいちごタルトを食べた。小秋の双眸には、ここには無いはずの蝋燭の炎に照らされたような熱い何かが揺れていた。


「わたくしも嘘偽りなく貴方に全てをお伝えできる日を待ち望んでおりますわ。ですから早く……あのなぞなぞを解いてください」

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