46話

 小秋のヒントを元にしても、成葉には例のなぞなぞの答えが皆目見当もつかなかった。

 謎解きは一向に進まないまま、気がつけば梅雨と夏が明けた。季節は入れ替わり、今度は秋が深くなる。吸血鬼が増えるシーズン。そこに整合性をつけるかのように、日本では秋の台風にのって雨が降る毎日だった。


「でよぉ……お前さん、結局、例のお客さんとはどうなった?」


 配血企業は今年も下半期の繁忙期に突入し、成葉は日曜の出勤を余儀なくされていた。

 同日、新規の客を対応する外回りを終えた成葉は、ぐったりと疲れながらも立ち食いそば屋で遅い昼食にありついていた。その最中、厨房内にいる店主から訊ねられた。

 カウンター席にいる高田は箸を止めると、店主の声に続くように成葉を見た。彼も休日出勤の帰りだ。

 二人からの視線に、成葉は咳き込みそうになる。青年はひとまず口内のそばを咀嚼した。


「まだ契約は続いてますよ。担当は私で」


 淡白にそれだけ答えたが、店主と高田にはどう受け取られているのだろうか、と成葉は萎縮しかけた。

 店主が厨房からぬっと頭を出す。


「じゃあよ、あのおかしななぞなぞの方はどうだい」

「……解けていません」

「ははは!なーんだ、まぁだ悩んでたのかよ成葉」


 高田はグラスの冷水を飲み干すと、闊達かつたつとした様子で笑った。隣からばしばしと肩を叩かれる。成葉は隠すこともなく眉根を寄せた。思いっきり仏頂面してみせる。


「なんだとは何だ。だったら高田には分かるのか?」

「知らんよ。でもさ、少なくともつまんねぇ答えだってことはなんとなく分かるぜ」

「根拠は?」

「別にないけど」

「つまらない回答をここまで出し惜しみするとは思えない。それに、お客様からこのなぞなぞを問われて、もうすぐ一年になるんだぞ」

「そいつは傑作だな。向こうの客もさぞお前の真面目っぷりに笑い転げてるんじゃないの、この一年」

「お客様、な」


 高田は、よく出来た性格の人物ではないが、今日はいつにも増してやたらと気が大きいようだ。尊大な言動が目立った。


「成葉、悪いな。こんな馬鹿は気にすんな。こいつひどく浮かれているもんでよ。今だけは許してやれ」


 店主は高田の方を見てから、ふん、と鼻で嘲笑した。

 浮かれているとはなんだろう──。成葉は、隣にいる同僚の配達員の肩を掴んだ。


「お前、最近いい事でもあったのか?」

「よく聞いてくれたな。実はさ、俺……結婚するんだよ!」

「聞いて損した。相手は宇田だろ」

「あれ、もっと驚いてくれてもいいんじゃないか?」

「いつかお前らはすると思っていたから特には……おめでとう」


 数秒言葉が詰まったが、成葉は負けじと発して、せせら笑った。それは彼の精一杯の意地だった。

 決まり悪そうに、高田は顔をくしゃくしゃにすると、嬉しそうに目をつぶった。


「なんだよー。そう言われるとちょっとフクザツだなぁ。嬉しいのは嬉しいんだけど、なぁ?こうも周知の事実だと意外性が……なんて言うかサプライズ感がなかったなぁって」


 惚気話というのはこういうことを指すのだろうか、と成葉はどこか冷ややかな気持ちで、高田を横目に見た。幸せそうな、自分と同い年の青年の顔がそこにはあった。その時、ほんの一瞬だけ、この同僚を鏡にして見つめたいと成葉は切に思った。高田は普通の青年だった。


「で、いつ結婚するんだ?今年か」

「予定としては再来年ぐらいには。俺とあいつの親が金出してくれるっていうから、式も小さいのだけど挙げるつもり。当日、成葉も来てくれるか?」

「行けないだろうな。どうせ仕事があるよ」

「相変わらずつれねぇなぁお前は」


 不満そうにしたものの、高田はすぐに幸せそうな顔でにやにやと笑った。

 その後も高田が会話の中心になって、交際相手の宇田との思い出話を披露していたが、彼の制服のポケットに入っている携帯端末の着信音が店内に響いた。その音に呼ばれた彼は居てもたってもいられないといった調子で、丼の残りを早々に食べた。丼を厨房の方へ返し、そそくさと立ち上がる。どうせフードを被るのにも関わらず、手鏡を片手に髪型を整えている。鏡を覗いて見ると青年特有の笑顔が映っていた。宇田とこれからまた遊びに出かけるのだろう。


「おやっさん、ごちそうさん!悪いけど成葉、俺もう行くわ。じゃあなっ」


 外套姿の高田が慌ただしく店を去ったのを見送ってから、成葉と店主は目を合わせて苦笑した。高田も今日は休日出勤の後だろうに、体力と活気だけは全身から溢れている。明るい未来と伴侶を持った青年の姿が印象的だったのだ。


「若いっていいな」

「まったくです」

「馬鹿言っちゃいけねぇ、お前さんもまだ若いだろ」

「でも私はあんな風にはなれません。極端な話、どこまでも他人事にしか思えないので」

「……無駄な質問かと思うけどよ、お前さん、女は?」

「いません。作るつもりもありません」


 献血のリスクになります、と成葉は加えた。店主は怪訝そうに腕を組んだ。


「お前さんの女性恐怖症もとい潔癖症も早く治るといいんだがねぇ」

「そういうのじゃありませんよ」


 こちらがどう足掻いても周りからは曖昧な病名で単純に片付けられるのか、と成葉は苛立ったが、愛想笑いで返した。


「だがなぁ、何事も経験だろ。それによ、なにも配血企業に勤めているからって、女を抱けないルールがあるわけじゃないんだよな?献血を妨げるような病気をもらってくるなって会社が過度に脅しているだけで……結婚してる傘士だって近頃は多いそうじゃねぇか」

「そうらしいですけど……どのみち僕は──いえ、私は誰も好きにはなれません」


 沈黙が店内に伝わった。他に客は誰もおらず、屋根を打つ雨音がしとしとと室内に垂れてきただけだった。


「お前さん……本当にそれでいいのか」


 店主は低く唸るように訊いた。

 麺の残っている丼に割り箸を置くと、成葉は厨房には背を向けて、耐雨外套を羽織り始める。


「構いません。私には仕事だけあれば充分です。支社長のお役に立てるよう尽力するだけです……」

「ふん。その割には、あのなぞなぞのお客さんにだけは肩入れしてるじゃねぇか。女に興味はないんじゃなかったのか?」


 外套装備のマント部を固定する器具を持っていた、成葉の指が止まった。図星をつかれていたのだ。


「お節介かもしれねぇけどよ、あんまりそう人間ってモンを嫌うんじゃないぞ」

「人間を嫌う?傘士の私がですか?」

「俺にはそう見えてる。ずっと前からな」


 立ち尽くす成葉を見かねて、店主は厨房から出てきた。厨房と店内を繋ぐ扉の鏡に、店主の薄くなってきた後頭部が映る。

 底の擦り切れた靴でコンクリート造りの床を歩き、店主は壁にかけられた一枚の絵を外した。それを成葉にずい、と出し示す。美術の道を志して店主と喧嘩した挙句、東京に出ていったという彼の息子が送ってきたものだ。淡いタッチで描かれた、そばの実の畑の風景画。

 壁にかかっていた時は分からなかったが、近くでよく見てみると、絵にはそばの実だけではなく、様々な種類の草たちが生い茂っていた。


あしだ」


 店主は柔らかい声で成葉に語りかけた。


「足?」


 聞き返した直後、成葉はそっちの「あし」ではないことにすぐに気づいたが、店主が頷いたため訂正は入れなかった。


「そうだ……葦だよ。周りからの手入れがなけりゃ、ひどく脆い代物だ。人間も同じなんだ。一人じゃ生きてけない。お高くとまって、孤立した奴で生き残った奴はいねぇよ。お前さんも客商売してるんなら、分かるだろ?」

「……はい」


 葦。足──。


 何か煌めくものが頭の中を過ぎていった気がして、成葉は顔を上げた。店主は青年のその心情の揺れ動きまでには流石に注意が向かなかったらしく、高田とよく似た笑顔で喋りだした。

 店主は円を描くように、腹を大袈裟にさする。


せがれがな、東京の女とできちまってね。今、三ヶ月目らしいんだ。この前電話で奴が話してきた。俺、父親になるんだ……ってな」

「お子さんが……」


 おめでとうございます、良かったですね、というありふれた営業の定型文が喉から出てこなかった。義足を購買する吸血鬼の客たちには、あれだけ容易に吐き出せる賞賛の言葉が、今の成葉にはとても耐え難いものに思われた。

 高田と宇田、それに店主。彼らと自分とでは、埋められないほどの深い境界線が出来たと成葉は確信した。否、初めから絶対的なその溝はあったのかもしれない。

 これまで自分はなんとか見て見ぬふりをしていたが、今になって虚空に足をとられただけか──。成葉は自嘲した。

 ずきりと胸の奥が痛んだ。

 出血のない痛みは、幻肢痛となって彼を襲ったのだった。

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