45話

 午後三時を過ぎた頃、二人は水族館を離れて、名古屋の中心街に向かった。道中の移動は車だ。義足の定期点検を兼ねた遠出という報告をブランデル社に入れてあるので、外回りの社用車を使っている。

 信号で止まる。成葉は、配血企業の制服姿の足元を見た。次いで、小秋の横顔も。だが彼女に声はかけられそうになかった。

 純真そうな吸血鬼の少女が、会社の社員監視機構を用いて、今日まで一人の傘士──あろうことか担当の行動を把握していた事実が、成葉は今更になって怖くなってきた。特に制服姿で出歩いた際の行動が小秋に筒抜けとなっていたのは、非常にまずかった。過去一年、自身が訪れた場所を振り返ってみると、小秋の逆鱗に触れてしまうものが一箇所あったのだ。しかし去年がそうであったように今年も──そして今後も、毎年その場所には、決まった日にちに必ず傘士の姿で赴かなければならない事情がある。それは成葉にとって、たとえ小秋に心底軽蔑されたとしても、空けることのできない重要な用事だった。


 ──まさかそこまで計算づくで?


 会社の監視機構を介して貴方を見ていた、という小秋側からの予想外の告白。てっきりあの時の会話の流れから、小秋は正直に悪事を白状したとばかり考えていたが、案外そうではないのかもしれない。身近で見聞きしてきたように、小秋は相当に頭の回る少女だ。

 実際、小秋の口からは監視を止める、などの申し出はなかった。

 成葉は、乾いた自身の下唇を舐めた。


 ──私が今年もに向かうと知っていて、小秋さんはあえて「見ている」と伝えたのだろうか?


 助手席に座っている小秋は、サイドガラスから雨の降る都市を眺めている。この時刻の陽光の角度のためか、紫外線をカットする特殊な加工を施したガラスのせいなのか、車窓には小秋の顔は映らず、運転席側からは彼女の表情は読めなかった。

 信号が青に切り替わったので、成葉は強めにアクセルを踏んだ。彼には一層、小秋という吸血鬼の心が掴めなくなってきていた。自分の胸に巣食う悶々とした不安が、例のなぞなぞの答えひとつで消え去ってくれるのかどうかは、本日の雲行きと同じくらい怪しかった。

 車を走らせ続けると、名古屋のさかえの方に出てきた。瘴雨以後、耐雨性の高い都市建設計画を掲げた愛知県と国が共同で資金を抽出して整備した名古屋の中心地だ。

 雨天とはいえ、流石にこの辺は自家用車やタクシーが多い。近場の地下駐車場に車を停めてから、成葉と小秋は耐雨外套を羽織って地上に出た。雨に打たれる外に。

 道中の談笑の末、小秋の希望により、二人で雨に沈む街を散歩するよう決まっていた。外套を装備したとしても客を雨に晒すのに成葉は抵抗があった。だが、水族館での『人魚姫』のやり取りを小秋の中から薄れさせたい一心で、彼女の提案を呑んだ。

 ぽつぽつと雨に打たれる外套。自分の装備も含め、小秋のそれをもう一度見直し、成葉は隣に立つ吸血鬼へ手を伸ばした。足元は排水性の高いアスファルト舗装のおかげで水溜まりはないが、晴天時よりは格段に滑りやすい。


「小秋さん、散歩中は手を繋ぎましょう。雨で通行人が少ないとはいえ……色々と物騒ですので」


 小秋はこくりと頷く。


「そうしましょう」


 小秋は会釈し、右手を差し出す。

 耐雨グローブの上からでも女の手だと分かるほど、小さな彼女の手を握る。成葉はもう一方の手で片耳にはめたイヤホンをぐっと入れ直した。小型の携帯無線端末の電源を立ち上げる。相手先の第一候補はブランデル社の気象観測課だ。


「低濃度でも、瘴雨が近辺に確認された時点で車に戻ります。その時はどうか、どれだけ散歩が楽しかったとしても、何かしらキリが悪かったとしても……絶対に私の指示に従うようお願いします。よろしいでしょうか?」

「雨の中をまた成葉様と歩けるんですもの、それぐらいの条件は聞き入れますよ」


 小秋はにこやかに言った。彼女の瞳は力のある光を放つように、成葉に向く。都市に降る雨をすべて集めて投影したような瞳。涙ではなく、純粋に水っぽく濡れた女の目だった。


「是非とも歩いて行きたい所があるんです。日頃は成葉様にエスコートしていただいておりますから、今回はわたくしが……。ね?どうかわたくしに任せてはくれないでしょうか」

「かしこまりました。構いませんが……一体どちらに向かわれるのです?」

「着いてからのお楽しみですわ。瘴雨が降れば貴方の指示に従いますが、それまでは大人しくわたくしに付き従ってくださいな」


 気がつくと、成葉は自分が客に差し出したはずの手を上から握り返されていた。小秋に引かれて導かれる。

 何の変哲もない散歩であるのに、成葉はまるで、小秋から主従関係を教えこまれているような錯覚に陥った。その上で不快感は全く覚えなかった。年下の小秋に従っていても、何故だか妙にその関係がしっくりときて、心が安らいだ。義足点検や定期輸血の際、古風な淑女らしく慕ってくれる小秋よりも、今のような、あるいは違法輸血──吸血の時分のように、強引に事を進める小秋の溌剌はつらつとした姿にも惹かれるものがあったのかもしれない。

 小秋は仏文学にありふれた悪女が出てくる作品が好きだと言っていたが、成葉には、今の彼女は男を従えるしたなかな悪女には見えなかった。むしろその逆だった。言うなれば光なき道を照らし、聖母という存在を自然に連想させる慈愛そのものだった。かちゃり、かちゃり、と義足の駆動音が耳に入る度、その思いは青年の中で静かにたかぶっていった。雨音と足音は本質的に似ている。規則的な中に、微かに生き物の雑音が紛れているのだ。

 ぼんやりと、小秋の導きのままに歩いていると、不意に彼女の歩みが止まった。二人で歩き始めてから十五分ほど経過した時のことだった。外の雨足は衰えていないが、増してもいない。

 止まった場所は、公園でもなければ公共施設があるような広場でもなかった。街中の主要道路沿いの歩道である。ここが目的地なのだろうか、と成葉は疑問符が顔に浮かんだ。


「お目当てはあちらですわ」


 小秋が細い指を揃えた片手すべてで、道路沿いの端を優雅に指し示した。その先には、一体の銅像があった。

 像は、左前脚が欠けた──三本足の犬だった。

 像の台座の説明書きによると、交通事故に遭った飼い主を庇って負傷した見事な盲導犬とある。その盲導犬の功績を称えて設置された記念碑のようだ。

 瘴雨以後、日本のみならず世界中でペットの犬は不人気になっている。特に大型犬は雀の涙ほども需要がない。犬を散歩させている最中、飼い主の人間は瘴雨を浴びたくないのだから当然の結果だ。逆に室内飼いが可能な猫などの小動物は人気だった。とはいえ、現代でも犬は一定の頭数が維持され続けている。人間向きに調教できる動物は犬を除いて他に存在しないためだ。身体障害と深い関係にある吸血鬼を支える存在として、犬は生き残ったのである。年々雨量が増加する度、必然的に増える吸血鬼たちの期待に応えるため、この先も介助犬の類は発展すると予想されている。

 この像が足に関して不適切だと指摘されて処分されないのは、そんな世論の流れを上手く汲み取っているからなのだろう。

 足の欠けた、犬。

 成葉は息が止まりかけた。なぞなぞに関する話題を小秋が提示してきた衝撃もあったが、それよりも、足の欠けた犬の像が美しかったのだ。

 これまで通読してきた無数の本たちに記されていた言葉たちを動員してさえ、完璧には表現し尽くせないほどの美の極致……。

 一部が痛々しく欠けている存在が奇妙に心を揺さぶってくる。これはある種の逆説である。不完全なモノほど美しいとは、果たして人間の心理には如何なる仕掛けが施されているのだろうか。

 成葉は、この耽美的な感動を過去数回だけ体験していた。吸血鬼の母娘によって。


「こちらの像が目的だったのですか?」

「そうですわ。水族館に連れていただいたお返しに、なぞなぞのヒントをお出ししようと思ったのです。成葉様、スフィンクスが何の動物か……知っていますか」


 小秋は、雨に濡れて黒ずむ盲導犬の銅像を見つめながら訊いた。


「何って、ライオンかと思いますが」

「もちろん、そうです。ライオンという解釈が一般的ですわ。けれどギリシャ神話におけるスフィンクスは諸説ありますが違いまして──犬なのです」

「犬?」

「それというのも、ギリシャ神話上のスフィンクスには明白な親がおりますの。オルトロスという犬です……お分かりになられて?そう、犬の子は犬に違いないのです。ですからスフィンクスは、決してライオンだけの存在ではないのですわ」


 オルトロスというのは、ギリシャ神話に登場する、三つの頭部を有することで有名なケルベロスの実の兄弟だ。


「そうだったんですか……」

「驚かれました?犬の身体を有した人間……つまり、人間とは足の数だけが違う動物が、人間に足の本数をめぐるなぞなぞを出すわけです。なんだかとても面妖なお話ですね」


 小秋は遠くを眺めるような、何か大切なものを見据えるような目つきで盲導犬の銅像を一瞥し、やがて隣にいる成葉へ視線を上げた。


「小秋さんのおかげで、またひとつ見識が増えました。でも……揚げ足を取るようで悪いのですが、この場合、スフィンクスの寓話性は犬であっても猫であっても変わりないかと思われますが?どちらも四足動物です」

「ふふふ。近頃の成葉はとことんお勉強が足りませんね。わたくし、つい前にも、吸血鬼には動物を操る力があると言ったではありませんか」

「それとこれに何の関わりがあるんです?」

「吸血鬼に最も縁のある動物は、狼や犬なのですよ。多くの伝承によると、吸血鬼は狼や犬を従えますし、その反対に……天敵として扱われることもあります。なにより、吸血鬼はそれらの動物に化ける能力を持っているのですわ」


 小秋はいたずらっぽく笑った。過去に、自分はスフィンクスだと言ったことを踏まえての発言らしい。小秋は時折、あたかも自分が本物の吸血鬼であるかのように振る舞い、それを喜びとする節があった。文学少女ゆえの可憐な幼さだった。

 不意に成葉は、左前脚の欠けた盲導犬と、左脚部に義足を付けた小秋が重なって見えた気がした。吸血鬼はスフィンクスに化けることが出来る……。

 一連の話を聞き終えて、成葉は吸血鬼の少女に感服した。これだけの吸血鬼にまつわる話と自分との接点をよくまとめあげたものだ、という具合に。それとも──この該博な語らい自体も、小秋がずっと以前から着々と準備していたものなのだろうか。

 成葉は、賛辞と疑問、その両方の言葉が胸に浮かんできた。そのどちらを小秋に投げるのが正しいのか悩んでいるうちに、先に小秋が「けれど」と言った。彼女はため息のように、物静かに語る。


「そして犬とは違って、自ら足の本数を変えられる動物がおります。なぞなぞの答えは……その動物です。成葉様、これでわたくしからのヒントはおしまいですわ。ここから先は、貴方自身がお考えにならなければ意味がありませんもの」

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