44話
「水の中って、綺麗ですね」
腕を組み、隣に寄り添って立つ吸血鬼の少女──小秋がそう言った時、成葉はアンデルセンの『人魚姫』に考えを巡らせていた。
小秋がうっとりとした眼差しで見つめる先は、明るい群青色の世界。
人工的に造られた箱庭のそこでは、どこからともなく出現した無数の泡が浮上しては散っている。この世界に住まうのは大小様々な魚たち。足のない彼らは、自慢のヒレをばたつかせながら生きるためだけに泳ぐ。外から自分たちの世界を能天気に覗いてくる二本足の生物たちには興味を持たず。
七月九日の日曜日。成葉は小秋を連れて、名古屋港の水族館に来ていた。
今年も梅雨明けの繁忙期に突入すれば、小秋と自由に会える機会が減る可能性が高い。そう考えた成葉は、忙しくなる前に小秋を一度外に連れ出してやりたいと考え、自発的に遊びに誘ったのだった。
成葉の目的は他にもあった。小秋が出したなぞなぞの答えに近づきたい一心で、水族館を選択したのだった。彼の打算的な思惑とは裏腹に、小秋は、影のない微笑を浮かべて幸せそうだった。小秋はしっかりと青年の片腕に絡みつき、片時も離れようとはしなかった。同僚たちからも女っ気のない堅物などと称される成葉が、わざわざ外出を誘ってきてくれたことが嬉しかったらしく、本日の小秋はとても機嫌が良かった。
一年近い契約関係の中で、自分から休日に会おうとしたことはただの一回もなかったと成葉は思い出す。青年は、隣にいる吸血鬼が年端のいかない可憐な少女の心の持ち主であると再度認識した。
二人は腕を組み、ぽつぽつと人がいる館内を練り歩いた。この日は明け方から瘴雨ではないものの、やや強い雨が降っていたために客足が少ないようだ。
気がつくと、二人は入口付近にあるイルカの巨大水槽の前まで戻っていた。一頭のイルカが、透明のアクリル板越しに成葉と小秋に気づいたように身体を向けた。
「イルカを見ると血の話を思い出す……前にこちらに遊びに来た際、小秋さんはそのような事をおっしゃっていましたよね」
空咳の後、成葉はなるべく自然に話題を切り出した。
イルカは生存のために自らに糖尿病のスイッチを入れるという仮説があり、かの津吹グループは、イルカを筆頭とした哺乳類動物の生き血を吸血鬼向けの全血製剤の材料として加工できないか挑戦した過去がある、という趣旨の話だった。
「そうでしたわね」
聡明な青の双眸が、分厚いアクリル板から逸れて、ちらりと成葉の方を見上げた。
小秋はしばらく黙っていたが、柔和な笑みを深めた。視線をまた水槽に向けて、白髪の頭を成葉の肩に預ける。
「今日は良い一日ですわ」
噛み締めるような言葉遣いで小秋が発した。どういう意味かと訊ねられる前に、彼女は独りでに言葉を紡ぐ。
「他でもない成葉様から外出のお誘いを受けましたし、こうして貴方が謎解きを諦めていないことも分かりましたから。それに、わたくしの大好きな雨も降っております──こうも素敵な日は中々ありませんわ」
謎解き、の言葉が出てきて、成葉は思わず閉口した。水族館に連れ出してきた真意はとっくに見破らていたらしい。
「……なぞなぞの件ですか」
素知らぬ演技をする成葉だったが、隣にいる小秋は口元に手をやり、微笑を歪めてくすくすと笑っている。成葉の嘘は分かりやすくて面白いようだ。
小秋によれば男が嘘をつく理由はふたつあるらしいが、それが何なのかは未だ教えてもらっていない。
「無理にごまかさなくとも構いませんわ。わたくしとのデートよりも、謎解きの方が大切なのでしょう?」
小秋はいつものように優しい笑顔ではあったが、索漠とした影も薄らと広がっていた。成葉は首を横に振って、まじまじと小秋を見つめる。
「小秋さんと出かけたかったのも、なぞなぞの答えを探りたかったのも……両方とも私の本心です」
「あら、そうきましたか。ずるい人なんですから……成葉様は。そう言えばわたくしが簡単に退くと思っていらっしゃるんですの?」
「そんなことは……」
「うふふ、もう結構ですわ。今回はわたくしも少々、意地悪な物言いをしてしまいましたね」
小秋は艶然とした笑みを浮かべ直した。今度こそ屈託のない表情だった。
「わざわざ水族館に訪れてまでわたくしに訊きたかったこととはなんでしょうか?」
「『人魚姫』についてですよ」
「アンデルセンの?」
「そうです。昨日、小秋さんがお部屋で文庫本を持っておられたので……。私はあの本を元にした絵本を昔読んだことがあって、内容だけは知っていますが、全文を読んだ覚えはありません。だから、もしかして例のなぞなぞはあちらの本に記されていたものではないかと思いまして」
『人魚姫』は、「足」に関連する有名なお話である。地上に住む人間の王子様に恋心を寄せた深海の人魚姫が、声を失う代わりに二本の足を手に入れて人間となり、結ばれようと画策するストーリー。だが最終的には王子様との結婚は果たせず、人魚姫は海に沈み、泡となって消滅する悲劇の名作だ。
小秋は少し考える仕草をとってから、静かに一歩、義足で水槽の近くへと踏み込んだ。アクリル板を目前にして、小秋は振り向く。
成葉は、群青色の水の世界を背にした小秋と向かい合う形になった。大量の水に溺れる、吸血鬼という魔の存在がそこにいるようにも見えた。
「残念。『人魚姫』は違いますわ」
小秋は短く笑った。
「違うんですか?」
「当たり前ですわ。もしもあのなぞなぞの出典が『人魚姫』だとするのなら、わたくし随分と卑怯者になってしまうではありませんか。成葉様が本探しをしている中で、貴方に見つからないよう、答えの本を自分の手で持っていたことになる訳ですから……。成葉様、わたくしは正々堂々と貴方に挑戦しているつもりです。そのような愚行は決してしません」
「正々堂々……」
小秋の主治医だった、ポリドリ絡みの医療データ改竄の件を含め、小秋に関しての怪しい情報は山ほどあった。
何が正々堂々なのか。あなたこそこっちに伝えていないことだらけじゃないか──と、成葉は口に出しそうになった。
「そうそう、わたくしの方からもひとつお聞かせ願いたいことがありますわ」
「何ですか?」
「実はあの『人魚姫』は足にまつわる描写が不適切だとして、原作小説も子ども向けの絵本も……何十年も前に禁書に指定されているのですよ。貴方、どちらで『人魚姫』をお読みになられて?」
小秋がひっそりと口角を上げた。口の端から、吸血鬼の白く鋭い犬歯が光る。彼女からの指摘に、やられたと成葉は焦った。
背中に冷や汗を覚える。この場だけでも切り抜けなければならない。
「いえ、その……昔、小学校の先生にたまたま絵本だけ持っている方がいたもので。何かの機会で借りただけですよ」
「あらあら、学校関係の大人が教育によろしくない禁書を子どもに貸し出すなんてことが?」
一歩、足を進めてから小秋は質問した。たった今、小秋から重い疑いをかけられていることは明白だった。細かな追及に、成葉は生きた心地がしなかった。自分の嘘は大方ばれているだろうから。
「言われてみればそうかもしれませんが。なにせ昔の話ですので、どういう経緯で誰から借りたのかは、はっきり覚えていませんよ」
『今日も新しい本をたくさん持ってきましたよ』
『絵本を読んでる奥さま、とても綺麗でした』
記憶の底に眠る光景。
雨の日の部屋に響いていた声が、落ち着きを無くしかけた成葉の頭をよぎった。吸血鬼の女が取り巻きの子どもたちに語りかける母親のような声。そして、子どもたちが出ていった後、勇気を振り絞って、吸血鬼の女に投げた幼い自身の声の断片……。
「出版規制のかかった本を持っていらっしゃるなんて、とても本が好きな先生だったんですのね。わたくし、その方とお会いしたいぐらいですわ──」
煮え切らない不信感を募らせた吸血鬼と傘士の双方が対峙するように見つめ合う最中、二人の会話を遮るように、ごん、という鈍い音がした。小秋の背後からだった。正体はイルカだった。一頭のイルカが
「……小秋さんに撫でられたいんですかね、このイルカ。動物でも美人には敵わないのかもしれません」
そのイルカを糸口に、成葉は話題をすり替えた。
小秋は複雑そうに小さく笑う。
「成葉様ったら……美人は余計ですわ。けれど、今のことで吸血鬼の伝承を思い出しました──古くからの言い伝えによると、吸血鬼には動物を操る力があるそうですのよ」
「このイルカはやっぱりそういうことでしょうか?」
「それはまた別かと。わたくしが本当に動物を操れるのでしたら……尚のこと今の会話を遮らせたりはしませんから」
冷笑に限りなく近い微笑を返されて、成葉は肩を縮めるしかなかった。しかし小秋はそれっきり何も言わなかった。どうやらこのイルカに免じて、『人魚姫』に関する疑惑は見逃してくれるようである。
成葉は、水槽の中にいるイルカに心から感謝した。足のない動物に。まるで溺れたところを人魚姫に助けてもらった、かの物語の王子様のように。
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