第8章 雨降る世界に血は枯れる

43話

 “その飢えた口にほんの少しばかりの血が入ると、凶暴な野生がもどってくる。そして血の味を思い出して、喉をふくらませ、怒り狂って、恐怖におののく主人にも飛びかかっていこうとする”


 ──ルカヌス『内乱』



 “吸血鬼どもの断食の渇きは

 どこまでも 血が飲まれることを必要とするだろう”


 ──ルネ・シャール/ポール・エリュアール『空白の項』



 “「死人が生きてる人間の血を飲むところを見ましたんで。血はあなた、人間の命でござんしょう」”


 ──マリオン・クロフォード『血こそ命なれば』



 一週間後の土曜日、七月八日。早朝から小秋の屋敷に訪れた成葉は、彼女と共に茶会と吸血を行った。

 恒例のそれも終わると、すぐに本探しにとりかかった。数ある本棚からなぞなぞの問題文が記されている希覯書を見つけるべく、小秋の自室に入り浸るのだ。時折、小秋との会話を交えながら。

 あっという間に時間は過ぎ、昼になる。小秋の作ったサンドイッチで軽い昼食を済ませると、成葉は本の精査作業に戻った。

 小秋は食後の眠気のためか、部屋の中央にある椅子に座ってのんびりしている。小秋が本を手にしたまま開かないのは稀だ。彼女は両手で一冊の文庫本を大事そうに持っていた。礼儀の良い佇まいで椅子に腰を下ろしている小秋は、儚げな人形のように美しい。そちらには見とれないよう、成葉は意識的に本棚と向き合う必要さえあったほどに。


「成葉様」


 梯子を使って棚の上部から本を取り出していると、青年は下から声をかけられた。

 バランスを崩さぬよう慎重に振り向く。眼下には、座った小秋がいる。彼女は微笑んだ表情で仰いでいた。


「どうされましたか」


 成葉は一度本を戻し、梯子から降りた。小秋は嬉しそうに頷きを返す。


「特に御用というわけではありませんわ。貴方の謎解きが順調かどうか気になったんです」

「残念ですが、なぞなぞの方はまだ解けません。出典となったものらしき本が……分からないのです」


 成葉は部屋中を見渡した。室内は本に埋もれている。小さな町の図書館より遥かに多い蔵書数だった。

 小秋は青年の視線を追って、同じように本棚たちに視線を巡らした。最後に天井を見る。今度は成葉が小秋に続く。そこにはモンテーニュをはじめとした、多くの偉人たちの箴言しんげんが木目の整った屋根に刻み込まれている。いずれもフランス語で綴られている理由は、フランス人のモンテーニュに習ってのことだ、と以前に小秋は語った。彼女の母親が使用人に頼んだものらしい。


「“わたしの思考は、もし座らせておくと眠ってしまう。わたしの精神は、もし足がそれを揺り動かさないと進んでいかない”……」


 小秋は、一滴だけ頭上に落ちてきた雨粒のように小さく呟いた。刻まれたモンテーニュの言葉。これから小秋のその雨は本降りとなるのか、ただそれだけなのか。成葉は小秋からの言葉を待った。

 しばしの沈黙の末、小秋はくすりと困った顔で笑う。その目は窓に向かっている。


「今日も雨ですね。良い天気ですわ」


 それを聞いて、成葉は驚いて息が詰まりそうになった。


「小秋さんは本当に言葉をよく知っておられますね。古い言い回しなら特に」

「あら、わたくし何かおかしなことを言いました?」

「たった今、『いい天気』だとおっしゃったじゃないですか」


 指摘されて初めて気がついたのか、小秋の頬は仄かに朱色に染まった。


「ごめんなさい。つい……わたくしとしたことが、扱う言葉を間違えたようですね。忘れてください」

「なにも指摘したわけじゃありませんよ。単純に感心しただけです」

「感心……でしょうか?」


 成葉は「そうです」と苦笑する。


「昔は……瘴雨が降り始める前は、会話での無難な話題は天気だったみたいですよ」

「そうみたいですね。最近の本ではまず見かけない一節です……良い天気。この際、成葉様にだけお教えして差しあげますわ。実はわたくし、この言葉が好きなんですの」


 小秋は努めて明るい様子で言った。

 吸血鬼にとって、晴天と雨天の有害性に違いはない。現代になって雨に関する語彙が急速に日本から失われてしまったのは、瘴雨以後の世間における吸血鬼差別を無くすためだ。良い天気を晴れだとすれば、紫外線に弱い吸血鬼──瘴雨患者への「配慮不足」となる。

 近年はこの言葉狩りが過激になっている。現実で吸血鬼が増えれば増えるほど、ネット上の辞書から雨に関連した表現を削除する動きが年々加速している。血や足に関する表現も同様だ。瘴雨以前の古本などの媒体からでないと、知りえない言葉が山のようにあった。

 成葉と小秋は、窓の外の雨模様に見入る。

 中濃度の赤い雨。一時間当たりの降水量は八ミリ前後。まともな耐雨外套を装備していなければ、あっという間に吸血鬼化してしまうだろう危険な雨。それが今日も街に降り注ぎ、飽きることなく無尽蔵の血溜まりをつくっている。


「……また、こういった言葉たちが消えてしまうのでしょうか」


 本好きらしい不安感を口にした小秋は、しおらしく嘆いた。


「おそらくはそうなってしまうかと。特に、災害の後はそういう動きが活発化しますし……」


 雨に閉ざされている屋敷の中にあって、成葉と小秋はどこか世間とは隔たった物言いで細々と会話し、窓を眺め続ける。

 紙と古い建造物独特の匂い、それから大量の本と静寂で形作られたここからだと、二人にとっては外の世界がまるで出来の悪いおとぎ話のようにも見える。

 世間は慌ただしかった。主に被災と、その援助をめぐる問題で。

 先日に津吹が言った通り、強力に発達した梅雨前線が九州方面に猛威を振るったのだ。高濃度の瘴雨を含む豪雨災害の発生である。四半世紀以上も雨に苦しめられてきたとあって、災害の命名だけは早く、今回の豪雨災害は七月六日時点で平成二十九年度九州北部豪雨と呼称づけられた。同災害は各地で土砂崩れを発生させ、多くの家屋を倒壊し、逃げ遅れた人々を吸血鬼に変えていった。今も瘴雨は断続的に赤く降り注ぎ、地表を血の湖に沈めんばかりの勢いを保っている。

 ニュース番組の特集ではこの九州北部豪雨のことばかりだ。日夜、報道機関の撮影ドローンがキャッチした被災地の映像がお茶の間へ垂れ流しになっている。画面に映るのは、決まって現地の配血企業の社員と、陸上自衛隊の救助隊の人間。彼らはそれぞれ耐雨外套を装備し、救助した吸血鬼への万一の経口輸血時に困らないよう、各々自分の血液型を大きく記載した腕章を付けている。彼らが赤い雨に打たれながらも、瓦礫の中に埋もれる怪我人を探している光景は見慣れているようでもあり、冷静に眺めるとやはり異質な様相だった。

 降雨は衰えずとも、少しずつ梅雨前線自体は停滞していた。しかし風に乗って、瘴雨を撒き散らす雨雲が東海地域方面に展開している。屋敷の外の土砂降りもその余波だった。

 それからなし崩し的に、成葉と小秋は、今回の豪雨災害について語り合った。

 被災地の傘士が限られた資源と時間で即席の義足を用意することや、地元企業やボランティアとの連携、それにどの配血企業が支援するかなど。

 今のところブランデル社は無関係と言われているが、あまりに被害が甚大になれば、被災地側や国側から支援の要望が来る可能性も大いにある。それがたとえ他社のテリトリーであってもだ。今回の対処は九州方面を拠点にしている大手の配血企業・レッヒェ社が丸々受け持つ形になっているのでその可能性は薄いそうだが。


「それはそうと、成葉様」


 不慣れな世間話に疲れたのか、小秋はすべらかな白い手を成葉の腕に絡ませてきた。


「何ですか」

「実家の使用人から連絡がありましたの。先日、お父様がようやく帰国されたそうですね。よろしければ貴方から、その……担当続投の件をお父様にお伝えしてほしいのですが」


 津吹の話になって、成葉は静かに息を呑んだ。


「その件なら大丈夫ですよ。既に私の方から支社長に上申してあります。この先も小秋さんへの配血や義足の調整は、変わらず私が担当することになると思いますよ」


 成葉がそう言うと、小秋は満面の笑みで何度も感謝を伝えてきた。

 とはいえ成葉は終始落ち着かず、気分の良いものではなかった。小秋の担当でいたいと津吹に抗議したことはないので、眼前の少女から感謝されるいわれがまったくないからだ。

 津吹の帰国後、傘士の担当が変わってしまうかも、という危惧は、最初こそ成葉から小秋に言ったものではあるが、今では小秋がそれを盲目的に恐れているだけだ。理由は不鮮明だが、傘士の担当続投の話は何故か津吹から小秋には伝わっていなかった。津吹は意図的に、成葉と小秋へ提示する情報を分けているのだ。

 元々、津吹は成葉から担当を変更する予定はないらしい素振りは見せていた。そう、成葉にだけ。

 単に出張で自分が日本にいない間、実家ではない、別荘のような屋敷に住まう一人娘に話し相手を与える類の目的で担当にされたのだろうと軽く思い込んでいた成葉にとって、津吹の真意は未だ掴めない。とっくに小秋の義足は適合しているし、津吹も日本にいる。機密保護という面はあるにしろ、わざわざ自分が担当でいる必要性は成葉にはあまり感じられなかった。

 津吹家の父と娘。

 この二人は何かを隠し合い、それぞれ違う姿勢で成葉に接触しているように思えてならない。吸血鬼は敵のメタファーだとかつて小秋は、水族館からの帰り道にて持論を語った。

 それこそ、津吹と小秋の意思が敵同士のように真っ向から対面するものなのではないか、と成葉は直感で思った。だがもしそうだとするのなら、それは果たして何のために──。成葉は頭痛に襲われた。

 痛みの渦中で一人の女性が記憶に蘇る。

 雨に包まれたここと同じ屋敷、同じ部屋。

 義足をつけた白皙の聖母。透徹とした青い眼差しと微笑みに魅入られて、自分の人生が定まった瞬間。成葉はそれらを一瞬で思い出していた。思いにける時や夢に出てくるあの当時の映像だ。

 雨の中、ひたすら走る幼い自身の姿。濡れて冷える身体。怪我をした両足からの流血……。

 救い出してくれた傘士の男と、彼の妻である吸血鬼。


『では、今から貴方の名前は──』


 はっきりと、あの吸血鬼の声が聞こえた。


「成葉様?」


 ──「さま」?


 耳元に囁かれたのは、あの吸血鬼の女とよく似た声だった。三秒ほどの思考停止の後、ぎょっとして我に返った成葉は現実に戻される。


「あの……?ぼんやりとされていましたが、どうされたのですか?顔色が優れないようですけれど……」


 心配そうな声の主は小秋だった。あの吸血鬼の娘。彼女が遺した吸血鬼。

 成葉は小秋の手元にある本を盗み見た。アンデルセンの『人魚姫』だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る