41話

 スケート場で津吹と別れた成葉は、屋敷に戻ることにした。小秋が何か隠しているのなら、尚のこと早々にあの足をめぐる、奇妙ななぞなぞを解かなければ気が済まなかった。

 午後二時ほどに小秋の元を訪れた。出迎えた彼女は、成葉の姿を認めるなり、ぱっと顔を明るくした。

 雨に閉ざされ、吸血鬼と傘士だけが籠もる屋敷。三本の肉の足と、一本の人工物の足が床を踏む。

 二人は書物で満たされた小秋の自室に移った。薄く開かれた窓辺のカーテンからは、しとしとと雨の音が静かに染みている。照明はつけておらず、外の光頼りで、部屋全体の明暗は不規則だった。一度休むため成葉が椅子に座ると、小秋は下の階の台所で紅茶を淹れ直してきた。湯気が立つカップと、香ばしいクッキーを載せた皿がテーブルに置かれる。


「成葉様。お砂糖とミルクはどうなさいます?」

「両方とも少しだけいただけますか」


 小秋は茶を淹れる度、律儀に訊ねてくれる。

 普段は糖尿病が恐ろしくて入れないが、津吹や宇田との会話で疲れていたので、成葉はその厚意を受け取った。


「分かりましたわ」


 かちゃりと、小秋の細い指たちに挟まったスプーンが揺れた。一度だけ響いたその音は、義足のそれと似て聞こえる。

 甘ったるい紅茶を再び成葉の方へと置いて、小秋は近くの椅子を寄せてから腰を下ろした。互いに腿の上を触れ合えるほどの距離だった。


「ご用件は済みましたの?」

「はい。仕事がありましたが終わりました」

「お仕事……。お疲れ様です。今回はどのようなものでした?」

「普段と変わらず、お客様の義足の点検ですよ」


 宇田に呼び出されたことも、空港で津吹を迎えたことも、前もって小秋には伝えていない。ただ一言、仕事の呼び出しだと言って屋敷を後にしていた。今も小秋にはそれらの事情を明かさなかった。そうした方が話がこじれないと思ったのだ。

 小秋は紅茶を飲んでから、首を傾げる。


「それにしては随分とお時間がかかったようですね?わたくしの義足の点検では、ほんの一時間も要さなかったかと思いますが」

「定期的な点検ではなかったのです」


 成葉は言い訳を考える。


「どちらかと言うとトラブルの対応でした。部品の交換などもあって、会社とお客様の家を往復したりで、色々と時間がかかったんです」

「そうだったのですね。さぞお疲れでしょうに、わざわざわたくしのところに帰ってきてくださって感激ですわ」

「お邪魔じゃなければ、例の本探しを再開したかったものでして……」

「貴方は不器用な人ですのね」


 小秋は困ったように微笑した。


「こういう時、女性には──嘘でも、貴方と一緒にいたかったからだとおっしゃるべきですよ」

「そういうものでしょうか」

「ええ。その点、成葉様は嘘がお上手ではありませんわ。もっと気を配るべきかと思います」

「以後気をつけます」

「……間違ってもわたくし以外には口にしないようお願いしますね?」


 小秋はずいっと顔を覗き込んできた。成葉は短く、深く頷いた。

 吸血鬼の青の双眸が、憂鬱な雨模様の脆い陽光を反射しながら、傘士に妖しく突き刺さる。

 両者は見つめ合った。


「成葉様は……」

「何ですか?」

「少し前にも確認しましたが……貴方は、お付き合いされている女性はいらっしゃらないのですよね?」


 低い声で小秋は訊いた。


「いませんが」

「……話を変えます。傘士の方は、お客様からのお仕事を日頃どちらでうけたまわるのでしょう?」

「小秋さんと同じように、お客様のご自宅に直接お伺いするのが大半ですよ」

「あら、そうなのですか。けれど今日は……名古屋駅前のカフェでお仕事をされていたみたいでしたが?」


 成葉は絶句しかけてしまい、空気が漏れたように「え」とだけ発した。

 駅前のカフェ──宇田と会った場所を唐突に挙げられたのだから無理もない。


「飲食店の中でお仕事をされていたのですか?油や消耗品の破片が散乱するかもしれませんのに」


 終始、小秋はにこやかな笑顔を崩さなかったが、瞳の奥底は笑っていなかった。それは暗い海に溺れた子どものように泣いている。

 異性経験のない成葉でさえ、小秋の表情の意味を汲み取るのは造作もなかった。小秋は、疑いを投げかける女の顔をしていた。美しくもあり恐ろしい。


「どうして小秋さんがそのことを知っておられるのですか」

「質問しているのはわたくしですわ。貴方、わたくしに隠れてどなたとお会いになられていたんです?本当は──お仕事ではなかったのでしょう?なにやら空港近くの海沿いにも行かれたようですね」


 数秒の沈黙で、答えられない旨を意思表示する成葉には構いもせず、小秋は追い打ちをかけてきた。彼女が口にした「本当は」という言葉の部分は、強調するためか、演技とも思える抑揚がつけられ、妙に陰険な重みを帯びていた。

 独特な威圧感を覚え、成葉は萎縮しそうになった。


「何を勘違いされているのかは分かりませんが、私は仕事で──」

「わたくしに嘘は通じませんわ」


 ふと頭に記憶が浮かんだ。小秋と出会って間もない頃、彼女は、父親が嘘をつく要因は二つあると言っていた。そして小秋曰く、父親と世の中の男はそう変わりはないという。

 では女の場合はどうなのだろう。何のために、いくつの要因があれば嘘を吐くのだろうか。ついこの話題を出したくなった成葉だったが、当時を思い出して止めた。「都合の悪い時に話を逸らすのもお父様そっくり」と笑われるに違いなかったからだ。


「成葉様。年端のいかない女だからといって、わたくしをあまり見くびらないでください」


 吸血鬼の少女の身体が動く。小秋は腰かけていた椅子から一歩、義足を踏みしめ、成葉に身を寄せた。


「あの辺りは再整備が進んでいますから、雨の日でも絶好のドライブが楽しめそうですわね……。それに商業施設の多い名古屋の中心部の方にも足を運ばれていましたよね?意中の方とデートをするには最適ですわ」

「小秋さん、それはその……」


 ようやく反論を発しようとしたが、思うように舌は気を利かしてくれなかった。

 じっと小秋に見つめられ、成葉はまた閉口する。そこを狙いすましたように、小秋は滔々とうとうと外出に関する不信な点を挙げていく。


「この屋敷を出てから、成葉様は一度たりともブランデル社に向かっていないのは揺るぎない事実ですわ。ですが成葉様はたった今、会社とお客様の家を往復していたとおっしゃいました。わたくしには外出の用件を話せないようで……何故です?何か、後ろめたいことでもされていたのでしょうか?」


 その時の小秋の語りは、少女の片鱗を感じさせない、ひどく大人めいた口ぶりだった。傍目には、門限を過ぎて夜遅くに帰ってきた息子を詰る、心配性の母親のようでもあった。


「私は決して、そんなことは……」

「それならばきちんと、貴方の口からご説明していただけますか?」

「個人的な用事……とだけ。残念ですが、小秋さんに説明することはできません」


 成葉はかしこまった素振りで、あくまでも津吹と宇田との密会は語らないことにした。

 吸血鬼と傘士は、しばし目で対峙した。睨み合うわけでも、甘い微笑みを投げかけ合うわけでもなく、かといって無表情に徹するわけでもなかった。ただ、互いに目が離せない。それだけの沈黙だった。

 やがて小秋の方が、穏やかな笑顔になった。


「“私はあなたの全体がほしいのです。あなたが私の好きな人以外に、男の友達も恋人も決しておもちになることはいけないのですよ”。でも……目をつぶって差しあげます。今回だけは」


 ひとまずの緊張が解れ、成葉は安堵の息をつきたくなったが堪える。


「……それはどうも。しかし小秋さんは、どうやって外出中の私の行動を把握されていたのです?」

「わたくしたちには女の勘というものがありますの」

「便利ですね。最先端のGPSよりも優秀な勘があるのですか?」


 成葉がにやりと口角を上げた。小秋は満足した様子で首を横に振った。少女の白髪が雨音よりも静かに揺れる。


「多くの場合そうであるように、人から引き出せる答えは、質問する人間が既に握っているものですわ。他人から指摘されるのと、本人が自発的に口にするのとでは……意味合いは随分違ってきますけれど」


 質問攻めしたばかりの小秋は、またも含みのある言い方で成葉を見る。反面、とても無邪気な微笑みだった。

 思わず言い淀む成葉を気にすることなく、小秋は自分の言葉に頷くように続ける。


「わたくし、貴方のことを見ておりましたの」


 小秋はそう言って、窓辺の机に向かった。カーテンの隙間からは窓と、茫漠ぼうばくとした灰色の空が見える。雨粒が無数に張り付いた窓ガラスは完全な鏡にはならず、小秋の像を映さなかった。

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