40話
「そういうことよ」
「信じられないな……」
気難しそうに成葉は呟いた。
それもそのはず、小秋は昨年の梅雨期に吸血鬼化し、合併症で左足を失って退院したばかりと話していたのだ。仮に過去のログが本物だとするのなら、小秋は契約時に虚偽の報告をしていたことになる。
不明点はそれだけではない。もし吸血鬼化がもっと過去の出来事であるなら、輸血が必要になった時期も前倒しになっていないとおかしい。その時点から去年開始した配血契約時までの空白期間、果たして誰が小秋にB型Rhマイナスという希少血液の輸血を実施していたのだろうか。社内にそんな人間がいたとしたら、成葉がそうであったように、噂になって広まっているはずなのだが。
新たに現れる疑問たちが、濁流となって、成葉の身体の中を巡る血のように駆ける。
「何のためにそんなことを?」
「フツーに考えれば身元を隠すためだけど。でもさぁ、だったら全部のログごと抹消すれば済む話なのよ。なのに敢えて残されている……それも私なんかの目のつくところにね。だから余計に変なのよねぇ」
「宇田はどう考えてるんだよ」
声を潜めて訊ねた。当の宇田は、穏やかな目を窓から成葉に向け直した。
「なにかある……とだけ。あくまでも私の勘だけど……もっと個人的な理由のように思えるのよ」
「個人的?」
「ほら、家絡みの面倒な事情でやったんじゃなくて、なんとなくだけど例えば──アンタのためだったりして」
「……私がどう小秋さんに関わってくるんだ」
「こんな風には考えられない?小秋ちゃんがアンタとくっつきたかったから、傘士を誰かから変更したとか」
「くだらんことを言うな」
成葉は遠慮のないため息をつき、心底呆れた素振りをとった。仕事上、判断が的確で勘のいい宇田のことだからと話を聞いていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「私と小秋さんは、去年の契約時に初めて会ったんだぞ?それ以前に面識はない」
「本気にしなくてもいいじゃん。ジョークよ。でも、アンタが知らないだけで、もしかしたらってこともあるじゃない」
一瞬、どういう訳か津吹の顔が浮かんだ。成葉はそれを打ち消すと、ぐびりとアイスコーヒーの残りを飲んだ。グラスと氷が涼しい音を響かせる。
「話はこれで終わりか?」
「そうね」
「分かった。また何かあったら教えてくれ」
成葉は席を立つ。テーブル隅の伝票を拾おうとするが、宇田にそれを奪い取られた。
「奢るよ。私、ここで待ち合わせしてるんだから、まだ払わないでいいって。外雨だし」
「なんだ、私へのタレコミはそのついでだったのか?」
「なによ不満?」
「別に。お相手は高田か」
さっと、宇田の頬が朱色に染まった。
「うっさい。アンタには関係ないでしょっ?」
「あるよ。お前らがもし結婚したら、これから私がどう呼べばいいのか迷うだろ。漢字一文字しか変わらなくても、同じ場にいると混乱するし」
「その時はどっちかが愛称になるだけよ。アンタみたいにね」
「それもそうだな」
*
各々の道を行く人々を眺めながら、成葉は空港内で人を待っていた。
宇田とのやり取りから一時間ほどが経過した現在、成葉はロビーの壁際に立っている。ドイツから帰国する津吹を迎えるためだ。周りには他にも、客か誰かを待っているらしい外套姿の傘士が何人かいる。配血企業の人間の格好は目立つのでひと目で分かった。
ふと視線を向けると、ドルー社とボグダノフ社の傘士がブランデル社の成葉のことを蔑むように睨んでいた。一般の職種の人間ならば、他社であっても、同業者たちは軽い会釈のひとつやふたつ交わすのが礼儀だろうが、配血業界にはそういったものはない。
傘士たちが警戒し合っていると、室内に何本か数え切れないほどの足音が響いてきた。国際線の到着口の方からだ。津吹がいるかもしれない、と成葉は傘士たちから意識を逸らした。彼らもまた同様に人混みに注意を向け、背筋を伸ばす。数分もしないうちに、ロビーいっぱいに人が溢れてくる。昼一番のフライト便の客でごった返しになっているのだ。
人の群れの中から、成葉は目当ての人物を見つけた。キャリーケースを引いて歩く秘書らしき人物と、数人の部下を連れた、スーツ姿の津吹だ。
津吹が無事に帰国したことに、成葉は胸を撫で下ろす。そのまま、成葉は意気揚々と彼に近づこうとしたが、足を止めた。咄嗟に人混みに身を隠す。津吹一行に声をかける男がいたからである。よく見ると──その男は、リハビリ施設に勤めている小秋の主治医だった。私服姿だが見覚えのある顔だ。主治医は津吹に短く耳打ちした後、時間を置かずにさっさと出入口へ消えていった。顔つきはにこやかだった。彼が何をするにも飄々としている人物だったと成葉は思い返す。二人が何を話していたのかは聞こえなかったが、おそらくは小秋の件だろう。
津吹は主治医が去るのを見届けるようにして立っていた。終始、表情は変わらなかった。実直で堅実そうな男の真顔がそこにあった。彼は部下たちに先に行くよう合図して、次に、迷うことなく成葉の方を見た。ロビーに入ってきた時、既に成葉に気づいていたようである。
「久しぶりだな。元気にやっていたか」
近くに寄ってくるなり、津吹は訊ねた。成葉は笑みを浮かべて「はい」と応える。
「特に大きな支障もなく……支社長、お久しぶりです」
「元気ならそれでいい」
津吹は労うように、成葉の肩に手を置いた。
「別に……出迎えはいらなかったんだがな。君のことだから多分待ってるだろうと思っていた」
「見破られていましたか。流石は支社長です」
「“人間というやつのいちばんぴったりした定義は、二本足の恩知らずな動物”……かつてドストエフスキーはこう言ったが──」
喋りながら、津吹は出入口へと歩き出す。成葉は彼の後を追う。
「昔から君は恩に忠実だからね。簡単なことだ。たまには……いや、もっとだ。もっと恩知らずになってもいいんだぞ」
「そんなことはできませんよ」
「血が繋がっていなくても、君は俺の息子だよ。そして息子って生き物は、父親にはいつも恩知らずであるべきだ。過去の多くの文学もそう語っている」
成葉の中では、立ち食いそば屋の店主と喧嘩の末に夢を追いかけるべく東京に行った彼の息子の話が再生された。
あれが正しい家庭の姿なのか。心のどこかがずきりと痛んだ。掴めない、見えない、捉えられない幻の痛みが成葉を襲った。
「検討しておきます。支社長、実は私の方から、あなたにお話ししたいことがありましたので」
「俺がいない間に何かあったか?」
「それはもう、色々と。直接、あなたに真偽を問いただしたいこともあります」
津吹は一笑に付すように、肩をすくめる。
「真偽だって?嫌なことを言うなぁ」
津吹は喉の奥で笑ってから、ロビー内にいる他社の傘士たちを見た。
「にしても面倒な連中がいるもんだ」
「あいつらですか。たしかに妙ですよね。何故この空港に?ドルー社とボグダノフ社と言えば、沖縄と北海道が主な拠点でしょう……レッヒェ社もいるようですし」
「梅雨前線が南下している影響だろうな」
「南下……?梅雨前線が?」
「なんだ成葉、今の天候を知らんのか?これから数日、酷くなるみたいだぞ──」
津吹の話によると、発達した梅雨前線が数日後に九州を中心とした西日本全域に直撃する見込みとのことだ。その件で、レッヒェとドルー、それから同地域に支社建設を計画しているボグダノフの面々が慌てているようである。ロビーにいた傘士たちも、重役の出迎えか何かでいたのだろう。
天候の話題は配血企業社員の常識だが、成葉は津吹から聞くまでこのことを知らなかった。帰国して間もない彼ですら見聞きしている情報を。
最近は小秋に夢中で、外の事に関心が向いていなかったのだ。そんな危うい状況に自分が身を置いているのだと、成葉は今になって実感すると共に、怠慢を恥じた。これでは傘士失格だ──。
「ブランデル社は九州方面進出を諦めたから、いずれにせよ我々には関係ない。だが、もしかしたら向こうは記録的な豪雨になるかもしれん」
「豪雨、ですか」
「……すまん。嫌なことを思い出させたか?」
「いえ」
成葉は首を横に振った。
「雨、好きですから」
「雨が好きだって?なんだか小秋みたいなことを言うね……」
津吹は苦笑してみせる。
「……ああ、そうだった……。あの子もな、小さい時から雨が好きなんだ。近頃じゃ、不謹慎極まりない発言になってしまうが……」
そこまで言うと、津吹は何か閃いたように表情を明るくした。彼は自身の横に並ぶ成葉の肩を抱き寄せる。
「ちょうどいい。時差ボケ直しに今日は久しぶりに休みをとったんだよ。寄りたいところがあるんだが、今から車を出してくれるか」
*
名古屋の地下に張り巡らされた地下街は、広大な空間が存在する。交通網整備計画の一環で、瘴雨から逃れるべく計画された、部分的な地下移住のための空間。そこは定住している人こそ少ないものの、地上よりも大規模な娯楽施設が軒を連ねている。
塩湖のようなスケート場を眺める成葉と津吹は、観客席に隣同士で座っていた。夏でも地下のスケート場一帯は涼しい。
空港から津吹の意向で訪れたこの場所は、成葉も耳にしたことがあった。たしか小秋が幼い頃、生前の母親と、その夫である津吹と共に、家族水入らずで遊びに来ていたという所だ。
「成葉。俺に聞きたいことがあるんだろう?」
津吹はプライベート時の砕けた声色を保ったまま、成葉に首を向けた。
「支社長がいらっしゃらない間、私は命じられた通り、お嬢様の傘士として仕事をしてきました。ですがいくつか、お嬢様と話が噛み合わないことがあったのです……。なぜお嬢様と私とでは、支社長から伝えられている情報に違いが?」
「いい加減、勘づいてくれたか」
「お聞きする機会がなかっただけで、契約時から変な話だとは常々思っていましたよ。それに加えて、ついさきほど、偶然にも耳に挟んだのですが……お嬢様の義足についても不審な点があるようで」
「ほぉ、一体どんな?」
「施設の医療ログです。身元を隠すにしては、随分と回りくどいことをされていたんですね」
津吹は黙って、片手に持つ缶の紅茶を開けたが、口にすることはしなかった。
「お嬢様が津吹家の人間であるという重要なプライバシーを隠蔽したいのなら、ログごと抹消すれば良いものを……どうしてか、支社長はそれをお望みにはならなかった」
「そうか、ポリドリから漏れたか」
「今、なんと?」
「ポリドリ。小秋……あの子の主治医の
「……昔から。それがいつぐらい前なのかは知りませんが、お嬢様が吸血鬼になったのもその時期でしょうか?」
「どうだかな」
津吹は歯を見せて、にかりと笑った。追い詰められていると感じてはおらず、むしろ、この状況を愉快そうに思っているようだった。
「あなたはなぜ……このようなことを?」
「悪いが、それはまだ俺からは答えられない」
「それはどうしてです?」
「口止めされているからだ」
「お嬢様に?」
津吹は沈黙する。それは肯定と受け取れる反応だった。
「いつになったら……私の方に明かしていただけるんですか」
「とぼけるなよ。君にはあの子からの宿題があるだろう?そいつを解きさえすれば、俺じゃなくともあの子から勝手に喋るはずだ……事の顛末を」
なぞなぞの文章が瞼の裏にぱっと出題された。成葉は口ごもる。
重い沈黙が二人を包む。
遠くには、スケートを楽しむ家族連れやカップルたち。その中に宇田と高田が手を繋いで滑っている姿を見つけた。生まれたばかりの小鹿よりも足が不安定な高田が、宇田を巻き込む形ですっ転んだ。その光景を目にして、成葉は少しだけ気が紛れた。
ケーキ屋、水族館、スケート場。これらの場所について、小秋は、父親と母親と共に訪れた思い出を楽しそうに語っていた。
生前の母親と一緒にいたというのだから、それも十年以上前の記憶だろう。成葉は想像をはたらかせてみる。両親の手に連れられる幼少期の小秋の頭髪は、白色だったのか、黒色だったのか──。
次いで、成葉は思い起こした。雨降る秋の日に、屋敷で出会った小秋と交わした言葉の数々を。彼女の身の上話は、偽りに彩られていたのだ。
──小秋さんは、何のために私を騙しているんだ?
「なぁ、成葉」
津吹から呼ばれた青年は、ぼんやりとしていた目が冴えた。
「なんでしょうか?」
「吸血鬼についてはまだまだ勉強不足のようだな。ポリドリと聞いて何も思い浮かばんのか」
「え?」
「去年のプレゼントとして渡した本に書いてあったと思うんだが」
「……そういうことでしたか」
遅れて合点がついて、成葉は顔を歪めるように笑った。その笑いを引き継ぐように、津吹が口を開く。
「そう。ポリドリと言えば、イギリス詩人・バイロンの名を
「詐欺師もいいとこですね」
「そうかもしれんな。だがポリドリ自身は周りを騙す気はなかった。出版社の編集者の手違いで、作品にバイロンの名前が付けられ、結果的に大事になっただけ……」
「では……あの施設の先生もそうであるとおっしゃるのですか、支社長?」
「そうだ」
津吹は静かに頷いた。
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