39話

 七月一日は、明け方から小糠雨が街を包んでいた。

 津吹がドイツから帰国する当日。小秋の輸血もあるから、どちらに行くべきか成葉は迷ったが、双方に顔を出すことにした。

 朝から小秋の屋敷に行き、昼までに空港で津吹を出迎える予定だ。津吹は出迎えを期待していないのは向こうから連絡がないので分かっていたが、彼に直接会って話をしたかった。

 早朝から屋敷に訪れていた成葉は、小秋に輸血する中で、出血の痛みよりも喜びの方に全身を襲われていた。小秋の熱と甘ったるい匂いをすぐ近くで感じると、とてつもない幸福感に浸れたのである。日を追うごとに取り返しのつかないことをしていると思ったが、既に小秋の存在は、成葉には抗い難いものになっていた。もはやバッジの刃の出番はない。小秋は、直に成葉に噛みついて血を吸い上げるようになっていた。じゅるりと音を立て、首元に滴る真紅の血液を綺麗に口に含む彼女は、いくらそうしていても満足できないのか、何分もの間、献血者から離れようとはしなかった。二人はソファの上で互いの身を密着させている。


「今日も美味しいですわ……貴方の血」


 小秋が再度、歯を立てた。


「流石に今回は吸いすぎではありませんか?」

「あとほんの少しだけです。もう少しだけ……」


 恍惚の表情のまま、首元をまさぐる小秋に根負けして、成葉は口を噤んだ。

 その後も数十滴分の軽い出血があり、成葉が今度こそストップをかけようとしたところで、吸血は止まった。小秋が自発的に唇を浮かしたのである。彼女は明るい顔つきだったが、眉は少し下がっていた。


「ごちそうさまでした」

「今朝も、よく飲まれていたようで」

「“人間の肌からいかにい払われようとも、人の血は何よりも美味”なのですわ。ただ最近は、どれだけ貴方の血を飲んでも……わたくし満たされないのです」

「やっとお分かりになられましたか?そうですよ、血なんて必要以上に飲んでも無意味です」

「決してそういう意味ではありませんわ」


 小秋は口元をハンカチで拭った。


「……早く、あのなぞなぞを解いてくださいな。そうでないと、わたくし……貴方のことを食い殺してしまうかもしれませんから」


 にこやかに物騒なことを言った小秋は、喋り方こそ微笑ましい少女のものだったが、目は至って真剣だった。

 成葉はわざとらしく肩をすくめてみせる。だが、小秋はその青い瞳を逸らそうとはしない。


「成葉様。わたくしはガルガンチュアで、それと同時にスフィンクスなのですわ」

「『ガルガンチュア』?それって……ラブレーの?」


 小秋は頷いた。

 彼女が挙げたのは、フランス文学の作品のひとつだ。例によって、西洋の文学作品はタイトルと主人公の名前が同じであることが多く、本作も例外ではなかった。

 それがどのような意図の作品で、どのような主人公なのか知っていた成葉は、おかしそうに笑った。


「ガルガンチュアは醜悪な大男ですよ。小秋さんのような綺麗な女性とは、むしろ対極にある人間だと思いますが」


 というのもガルガンチュアは、文学史上でも稀な大食いで、体躯の大きな男だった。


「食べても満たされないところは、わたくしとよく似ていますわ」


 小秋はくすりと苦笑もせず、生真面目な眼差しを成葉に向けている。


「わたくしのように欲求不満な人間は、飢えているから食べてしまうのです。好きなものはとにかく口に入れて、自分の一部に取り込まなければ……日夜そういう思いに駆られてしまうんですの」


 雨鬱がこのような血液の過食傾向を生み出すのは、前例のケースがないわけではなかった。

 社内でも似た事例を耳にしたことがあったので、成葉は、少しだけ眼前の少女の心が分かったように思えた。しかし、小秋はあくまでも過食の原因は幻肢痛の除去だとしている。


「スフィンクスというのは?」

「あのなぞなぞと、それを記した物語のことです。“わたくしは不可解なスフィンクス”……。例の物語におけるスフィンクスというのは、自分の元を過ぎる旅人に問題を出す怪物ですの。旅人が問題を解けないと──」


 小秋は、成葉の首元に短く甘噛みした。


「旅人を食べてしまうのですわ」

「なるほど。小秋さんは今日まで献血者の私の血を食されていたわけですね。そしていつか、文字通り私のことを食べて尽くしてしまうかも──そうおっしゃるわけですか?」

「はい……」


 少女の煌めく涙の膜に、成葉の顔が写った。


「話しついでにひとつ聞かせてください。旅人が問題を解けたら……スフィンクスはどうなるのです?」

「自ら崖に身を投げて命を絶ちます」


 成葉の心がざわめき立った。動悸が早まる。


「なんとも皮肉な役回りを演じられておられるのですね……あなたは」

「けれど実際のところ──あのなぞなぞをめぐる、かの物語はそこから始まるのです。スフィンクスの死から……」

「やめてくださいっ」


 死、という言葉が耳に入り、成葉は嗚咽しそうになった。我慢ならずに、小秋の両肩を掴むと揺さぶった。


「成葉様、どうされたんですの?」

「嫌だ……もう二度と、僕は……!」


 成葉は巨大な不安に苛まれて、小秋を抱きしめた。


「あなたを失いたくない」

「……まあ」

「問題を解いてしまって、あなたが死ぬぐらいなら……このまま、今のままでいい。あなたに食い殺され続ける方が僕は幸せです」


 成葉は、小秋の義足に触れた。


「足も、血も、僕があなたに差し上げます。あなたがご満足するだけのものを……あの方ではなく、僕が──!」

「あら、嬉しいことを言ってくださいますのね……成葉」


 小秋は、成葉の頭に手をやると、子どもをあやすように優しく撫でた。


「ご心配ならさずに……。問題に関わらず、わたくしは吸血鬼ですもの──死にませんわ。ここにいますよ。貴方のお傍に」


 傘士と吸血鬼は、しばらくそうして抱き合っていたが、二人の間を電子音が引き裂いた。前者の携帯端末に電話が来たのだ。部屋に着信音が鳴り響く。

 成葉は端末には一瞥もくれずに、小秋を両腕で抱いていた。相手を離そうとはせず、まるで吸血のために自分に抱きついてきた小秋の素振りを再現するかのようだった。それは母親に甘える子どものようにも見えた。

 そんな様子の成葉に小さく笑って、小秋は彼の頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「成葉、お電話ですよ。わたくしのことは構いませんから……出てください」


 小秋に促されて、成葉は億劫ながらも端末を手にした。一旦部屋を出て、廊下で電話に出る。


「もしもし?」

「私だけど。今から会えない?」


 電話の主は理学療法士の宇田だった。


「悪いけど、今お客様の家にいるから。昼には予定もあるし……」

「えぇー。繁忙期でもないのに日曜にお客さんの家?」

「小秋さんだよ」

「そう。じゃ抜け出してきてよ。他でもない、小秋ちゃんのことで話があるの」



「小秋ちゃんの医療用の記録ログにおかしなものがあったのよ」


 アイスコーヒーの氷をストローでからからと混ぜながら、宇田がぼそりと言った。


 宇田から急遽呼び出された成葉は、社用車を走らせ、駅前のカフェに来ていた。

 雨とあってか店内に客は少なかった。人通りの多い道に面するこのカフェは、壁が特殊な二重のガラス張りになっており、外からの紫外線と雨を避けながらも、駅周辺の様子が店の中からも分かる造りになっている。駅に近いこともあって、待ち合わせなどに最適な店だった。

 宇田は、手元を見ずに、水滴が張るガラス壁に目をやっていた。

 二人が座るテーブル席は歩道側に一番近い。後ろに髪を束ねる宇田の横顔が薄らとガラスに映っている。そのガラス張りの壁はまるで鏡のようだった。成葉が「で?」と不機嫌に声をかけると、宇田からは四つの瞳が向く。からん、とグラス内の溶けかけの氷が揺れた。


「色々と調べてみたら、やっぱりビンゴだったってわけ」

「お客様の個人情報を嗅ぎ回るような真似は止めろ」


 成葉はぴしゃりと発した。小秋と良いところだったのに、横槍を入れてきた宇田に苛立っていたのである。

 一方で安堵もしていた。小秋の屋敷から抜け出す口実が出来たからだ。あのまま小秋の近くにいると、ずっと離れられないかもしれなかった。どのみち、昼前には空港に向かわなければならない事情もある。


「別に、私は小秋ちゃんの素性を探るつもりはないわよ。かなり良いとこのお嬢様ってことは分かるけどね。生憎、私の興味はそこにないの」

「ならいいが……記録におかしな点があるって何だよ?」

「私のとこの施設には、お客さんの義肢の経過観察のログがあるのはあんたも知ってるでしょ?私は小秋ちゃんの担当だったから……リハビリ中、当然あの子に関する記録をとってたの。だけど、あの子にまつわるログが……何度か改竄かいざんされた跡があった」

「改竄?」

「元々ね、私さ。小秋ちゃんのこと疑ってたの」

「一体何を言い出すんだ」


 成葉はため息をついた。


「聞いて。あの子、リハビリもそうだけど、身体の回復が早すぎたのよ。もちろん、あれは個人差があるから一概にはなんとも言えないけど……」

「何が言いたい?」

「小秋ちゃん、今回の受診が初めてじゃないかもしれない」

「……なんだそれ」


 こほん、と宇田は咳をする。彼女は携帯端末をテーブル上に置いた。画面には、施設のパソコン画面を写真で捉えたらしい、何らかの文字列が表示されている。

 ぱっと見ただけで、それが何を示しているのかは成葉には不明だったが、客の多様な情報が記載されているのは間違いなかった。


「おい……」


 成葉は、思わず宇田に抗議の声を上げた。


「素性を探るつもりはないと、今さっきお前が言ったんだろ?小秋さんを調べてどうする気だ?担当の傘士の私に、何を──」

「勘違いしないでよ。個人情報がトップシークレットなお客さんの本名や背景が、私たち一般職員には明かされないのはよくあることなの。このご時世、配血企業絡みのお役人のご家族とかなら、尚更ね。珍しいことじゃないわ。私も伏せられている仕事の情報にいちいち首を突っ込む気はない。でも、リハビリ中のお客さんの身体を直接預かるのはね、私たち理学療法士なのよ。それを邪魔されるような情報を伏せられていられちゃ、たまったもんじゃないのね」


 とりあえず頷き返す成葉を横目に、宇田はまた窓の方を見て続ける。


「結論を言うわ。年齢性別、やらしいけど体重、欠損部位もろもろを考慮するに……施設内のログには、すべて小秋ちゃんと思わしき複数人分の電子カルテが保管されていた」

「は?」

「で、それらは今回の小秋ちゃんのログと紐付けされながらも、私たち一般職員にはバレないように改竄され……まるで別人のように別途保存されていた……そんなところね」


 吸血鬼の義肢に関する医療データは、担当した施設での三十年間の保管が義務付けられている。どうやら、その記録を宇田は怪しんでいるらしい。

 動揺を抑えながら、成葉は自分の分のアイスコーヒーを飲んだ。


「要するに小秋さんの名前があった……と?今よりも昔のログに」

「そうよ」

「……小秋さんにはあの施設で義足のリハビリをしていた記録があって、施設側はそれを故意に隠しているということか」

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