38話

 それは甘い接吻だった。

 成葉の全身から力を抜き取るがごとく、小秋は迫ってきた。吸血鬼の口の中に潜む、獲物を狩るような歯が青年の舌に当たってくる。粘っこく、離れない。互いの呼吸と唾液がごちゃごちゃになって、分かつのがひどく困難になったように思えた。成葉の方が息苦しくなっても、小秋は容赦なく唇を押しつけてくる。

 観念した成葉が、小秋の背中に腕を回そうとしたところで、接吻は即座に中断される。唇を離すなり、はぁ、と小秋は深く息をついて身体を離した。


「成葉様」


 情熱的に迫ってきた直後とは思えないほど、小秋は楚々そそとした笑みだった。彼女は普段と変わらない笑顔を浮かべていた。頬と耳は僅かに赤らんでいる。

 柔らかく、艶やかな嬌笑。小秋に目を奪われつつも、成葉は少しずつ現実に引き戻された。足元に転がる義足を見る。落とした衝撃ぐらいでは壊れていないようだった。

 小秋に意識を戻す。彼女は俯きながら、両手を合わせ、気まずそうに指同士を弄んでいた。


「成葉様は、女性の身体の部位でどこがお好きですか?傘士の方はやっぱり……足なのでしょうか」


 身体を成葉から離したとはいえ、二人はまだ同じソファ上にいた。どこからともなく伝わる雨音が、屋敷全体を外から閉鎖している。

 質問には答えず、成葉は義足を拾おうとした。小秋はそれを見計らっていたように口を開く。


「足のない女は嫌いですか?」


 成葉は黙り込む。彼は、床にある義足へ伸ばしていた手を収めた。

 その反応も予想していたのか、小秋は恥じらいながらも迷うことなく、ロングドレスの裾をまくり上げた。日射とは無関係なほどに白く透き通った──足が成葉の前に出される。

 右足。切断面が生々しく残る左足。義足はつけていない、本物の彼女の身体。

 ないはずの左足の空間に輪郭線をなぞるようにして、幻の足が見えた気がした。どこまでも歩いていける、彼女が本来持っているべき健脚が……。

 小秋は決心したように、胸を隆起させるほど深く息を吸う。


「“足が悪い女と寝たことがない男は、ヴィーナスの魅力を完全には知らない”……イタリアのことわざですわ。ねぇ、成葉様?貴方はわたくしのこと、愛してはくださらないのですか?」


 小秋は成葉に返事をする隙を与えず、「それとも」と言葉を続ける。


「貴方は、わたくしのようにの方が好みでいらっしゃいますの?」


 成葉は沈黙を貫いた。


「……なにも、責めてるわけではありませんわ」


 成葉の手は、小秋に取られ、ソファの上に置かれた彼女の右足に触れさせられた。すべらかな肌で血の温かみがあった。

 次いで、左足の切断面にも。

 そこは女性の秘所に近い位置だっただけに、成葉は手を振り払おうとしたが、小秋から力強く手を握られ、逃げることは許されなかった。成葉の手は、その後も小秋に導かれ続け、採寸や採型時に接した部位を執拗に撫でさせられる。


「わたくしの担当でなくなってしまったら……もうこんなこともできませんよ?」


 小秋のこれまでの言動には、覆しがたい説得力が強く込められていた。傘士の気持ちを自分へ揺り動かさそうとする意思があったのだ。

 間違いない、と成葉は考えた。小秋は、演技でもなく本当に、今後の配血担当に変更がないことを津吹から知らされていないのだ。

 冷静にそう分析したのも束の間、すべすべとした少女の肌の熱で自身の手も熱くなり、成葉はどきりとする。


「しかしですよ、小秋さん。私の担当の異動はもう決まっていることで……」


 小秋の視点で辻褄がこじれないよう、話を合わせ続けた。


「言い訳無用です。わたくしと離れてしまうのは……貴方も嫌ですよね?」


 小秋は微笑を見せた。

 吸血鬼の笑い。小秋との関係が終わるのを望んではいなかったために、成葉は頷いてしまった。


「あら。ふふ……嬉しいですわ」


 青い双眸そうぼうが成葉を呑んだ。


「……なら、いただきますね」


 小秋は間髪入れず、青年の首に噛みついた。

 鎖骨に近い位置に痛みが走る。今回は甘噛みではなかった。血が出たのが分かった。それを舐めとるような小秋の舌の動きも、肌に伝わってきた。そうした吸血の接吻が、しばらく続いた。

 成葉の手は、変わらず小秋の手によって、彼女の足をまさぐるよう動きを強要されていた。成葉は最後まで拒まなかった。

 くちゅ、くちゅ、と小秋が何度も熱っぽい舌を傷口に這わせているのを成葉は感じた。彼女の甘い息が肌に染み込んできた。傷は痛むはずなのに、それすら甘美なものだった。彼女に血を吸われるのが、彼女に血を与えるのが、心地よいと成葉は思ったのだ。

 そして、手に触れる──小秋の足が自分のものではなくなることを心の底から恐ろしく思った。

 使用人のいない屋敷にあって、吸血鬼と傘士のこれらの行為を見届けていたのは、後者の制服の胸元のバッジに収まる、一羽のホワイトペリカンだけだった。

 吸血が終わると、成葉は小秋から傷の手当てを受けた。止血用に患部に貼ったパッドの上から、吸血を伴わない軽いキスもされた。それが済んでも尚も、小秋は、成葉の手を自分の足に当てるように彼の手を掴んでいた。

 ソファで身を寄せる二人を包むのは、ぽつぽつと弱まってきた雨。義足は今も床に放置されている。


「時々……この足が痛むのです」

「どのようにですか」


 小秋は下唇を噛んだ。


「ずきずきと、呻くようにです。ないはずの足が痛むのですわ。ふくらはぎや、膝の関節や、指先が……そこにまだ生きた血が通っているみたいに……。不思議な痛みです」

幻肢痛げんしつう……」


 それは幻の痛みである。幻肢痛──脳の身体の認識と、欠損した本物の身体との間に起きる齟齬そごから発生する痛覚だ。吸血鬼のみならず、事故や糖尿病で身体の一部を失った人々にも生じる症状だった。

 小秋はようやく手を退けた。それでも成葉は、彼女の切断面から手を離すことはしなかった。


「でも最近は……痛みの頻度も減ったんですの」

「義足が、小秋さんの脳と身体に認められたのでしょう」

「それだけではありません。成葉様、これまで貴方が何度も飲ませてくださった血のおかげですわ」

「血で幻肢痛が……?そんな突拍子のない話、過去にも聞いたこともありませんが」

「たしかに経口輸血の療法が効くのは、あくまでも吸血鬼の症例に対してです。ですからこれは……わたくしの個人的な問題ですね」

「……詮索するようで悪いのですが、その問題を私がお聞きしても?」

「もちろん構いませんわ」


 小秋は頷いた。彼女はロングドレスの裾を元あったように直す。成葉は手を引かざるを得なかった。


「わたくし、吸血鬼になった頃に大きな失恋をしたんですの」

「……そうなのですか」


 平然と応えた成葉だったが、その実、心は動揺していた。


「初恋だったのです……。わたくし、必死にその人を求めましたわ。でも結局は恋破れてしまいました……。初恋は実らないと色んな人がおっしゃっていますけれど、本当にその通りでしたね。わたくし、その人に見向きもされなかったんですよ?」


 諧謔かいぎゃく的にくすくすと笑ってみせる小秋には、悲壮感はなにひとつ漂っていなかった。


「多くの人はきっとこうなのですわ」


 小秋はソファから一本足で立つと、近くの車椅子に座った。


「砕けてしまった初めての恋の痛み……その幻肢痛を消そうとして、誰か別の人に恋心を抱くのです。そしてそのうち……最初の痛みが自分の中にあったことすらも忘れて、本当の愛を育んでいくのだと思いますわ」

「失恋の痛み、ですか」


 成葉は複雑な心境だった。あれほど小秋から愛情を示された後なのだ。奥手な青年のそれは当然の感想だった。

 目の前にいる小秋が恋をしているのは、愛しているのは、私ではなかったのか──。そんな風に、成葉には怨嗟の念が湧いた。同時に、小秋の初恋だという男を呪いたくなった。その男の代用品に過ぎないらしい自分自身の空虚さを恨んだ。


「成葉様の初恋はいつごろでした?」

「私は傘士になるために生きてきました。恋なんて知りません」


 成葉は皮肉の色を漂わせて呟いた。だが、小秋は短くかぶりを振る。


「恋をされたことが一度もないのですの?わたくし、なにも交際の有無を聞いているわけではないのです……。誰かを大切に想ったこと、貴方にはないのですか?」

「残念ながらありませんね」


 成葉は否定したものの、心中ではあの頃の情景が延々と広がっていた。

 雨音。湿った空気を吸った壁材の木と、本たちの匂い。

 揺れる白髪。義足をつけて歩く吸血鬼の女──。


『僕はあなたを……お嫁さんにしたいです』


 拙い言葉で彼女に伝えた幼い恋心と、彼女からの拒絶。その記憶がフラッシュバックした瞬間、小秋の初恋に関する自身の恨みは、鏡で反転したように成葉を襲った。

 初恋の幻肢痛を取り除こうとしているのは、なにも小秋だけではない。成葉はそう分かるなり、余計に気分が荒れた。


「……無駄話はこのぐらいにしておきましょう」


 成葉は、自分の気を正すためにそう言った。

 無造作に床に寝転がる義足を拾い上げ、再度軽く点検する。部品の交換はほぼ済んでいる。外装の蓋のネジを閉め直すと、成葉はその義足を小秋へと両手で渡した。


「またのご利用をお待ちしております」


 襟元とバッジの位置を直して会釈すると、成葉は屋敷から出ていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る