37話

 来月に津吹がドイツから帰国する、という知らせが成葉の耳に入ったのは、小秋に違法輸血を実施した翌日の昼休憩の時だった。ブランデル社の義肢制作部屋にて、課長から口頭で聞かされたのだ。


「支社長がお帰りに?」


 成葉は声が上ずった。

 義肢装具課をまとめる中年で小太りの男──課長は、自席の作業机にて、商品の義手の点検をしながら愛想のない相槌を打つ。


「なんでも、ただの表向きの技術者交流で終わらなかったらしくてね。向こうで見た新しい部品のいくつかをこっちでも試験的に導入する予定なんだと。こんなタイミングで困るよなぁ」


 今年もこれから、吸血鬼が増えるシーズンが来る。雨季後の繁忙期だ。その直前に、新しい部品の仕分けや、部品ごとの特性を覚え直したりする必要が生まれたとあってか、課長は見るからに不機嫌だった。

 ため息で、課長のでっぷりとした腹が上下する。これでも献血の採血には問題ないそうだ。どんな体型でも健康なのはある意味で羨ましいな、と成葉は少しだけ思った。


「成葉。お前、出迎え行ってこい」

「私がですか?」

「そうだ。セントレアだ。来月の頭の日曜、昼のフライトで帰ってくる」


 中部国際空港セントレア、七月初日の日曜、出迎え。

 癖でスケジュールが頭の中のカレンダーにぱっと記載される。成葉は思わずこの仕事を渋りそうになった。日曜は大抵、小秋と会うことになっているのだ。


「私は構いませんが……支社長はきっと喜ばれないかと。出国される際、見送りもいらないとおっしゃっていましたし」

「そう言えばそうだったか……つくづく変な人だよなぁ、あの人も」

「あまり気を遣われたくないだけなんじゃないですか」

「そうかね。俺には、あの人は他人を避けてるように見えるが」


 課長は義手の調整を一旦止めると、それを作業机に置いた。ごとりと、人工の指先が虚空に向く。


「知ってるか?日頃から支社長が雨の中を耐雨装備でほっつき歩いている、なんて噂話」

「……この会社の都市伝説みたいなものですよね、その噂って」


 成葉は首を横に振った。

 本当は知っていた。津吹が外を放浪するように歩いていることも、それが例え雨の中であったとしても、彼はそれを止める気がないことも。あの時の光景が脳裏をよぎった。

 雨が降る深夜に「歩いてきた」と言って、制作部屋にやってきた津吹。彼は、成葉が作業に使用していた十年以上前のカタログ本を見るなり、青年が作ろうとしていた義足の外見とその魂胆を知ったらしく、静かに嫌悪の表情を浮かべた……。失望されたと恐怖した成葉は、必死に謝った。その会話の終わり際、津吹は、傘士としての自制のための文言を教えたのだった。

 課長はふっと息をもらし、頬杖をついた。顎に薄らと生えた短い髭が彼の分厚い手の甲にめり込む。


「俺も本気にしちゃいないんだけどな。でも、そう思われても仕方ないぐらいにはあの人も色々とあったからなぁ……」

「会社のトップを務めていらっしゃるんです。むしろ、何もない方がおかしいと思いますよ」

「会社や仕事のことだけじゃない」

「と言うと、何ですか?」

「奥さんのことだよ」


 成葉は声を押し殺した。その息すら、外に漏らさないように。


「奥さんが亡くなったのと同じ時期に、あの人が外を歩いてるって噂が広まったんだ。偶然にしては出来すぎてるだろ?もしかしたら本当に……あの人は、危険を承知で雨の中を亡霊のように彷徨さまよっているのかもな。オカルトじゃないが、死んだ奥さんに会うためとか──」

「課長っ!」


 成葉は気色ばんだ声で制した。小太りの男はぎょっとして、片手を挙げて応える。


「悪い悪い……ジョークが過ぎた。でもお前がそんな怒ることないだろ?ははは、悪かったよ」



 その日の帰宅前に、成葉は小秋の屋敷に行った。彼女の義足に組み込まれている消耗品の交換があったのだ。車で向かう前に小秋に電話を入れたが、彼女の声が暗かったのが気になった。

 篠突く雨が、耐雨装備を打ち続ける。成葉が門をくぐると、玄関の扉が開いたのが見えた。室内から、ひょいと顔を出してきた小秋は、電話先での声に劣らず沈痛な面持ちだった。彼女は早く来るよう、寂しげな視線を送っていた。


「成葉様……悪い知らせがありますわ」


 成葉が玄関で外套を脱ぐ最中に、小秋が静かに言った。その声には紛れもない焦りが滲んでいる。

 小秋は車椅子に座っていた。その左足に義足は装着されていない。交換時には外しているので、彼女は前もってそうしたのだろう。外套を畳みつつ、成葉は「良い知らせはないのですね」と苦笑した。小秋も僅かな微笑を返したが、青い瞳は暗澹あんたんと濁っていた。


「お父様が……来月、日本に帰国されるそうなのです」

「それがどうかされましたか」

「貴方はお聞きしていないのですか?お父様がこちらにお戻りになれば、成葉様はわたくしの担当の傘士ではなくなってしまうんですよ?」

「……はい?」


 初耳だった。それにおかしい、とも成葉は思った。

 国際電話で津吹に、小秋の本義足が最終適合したと告げたことがある。その際、津吹が帰国しても、担当は変わらずに成葉が続けると──津吹本人が言っていたはずだ。


「このままではわたくしたち、離れ離れになってしまいますわ。成葉様……どうしましょう?どうすれば貴方と引き裂かれずにすむのでしょうか……」


 小秋は今にも泣きそうにため息をつく。それは、事実に反している奇妙な言動だった。あの小秋が屋敷に来た客人を玄関から上げもせず、である。彼女は落ち着いてこそいるが言葉は惑乱した様子で嘆いている。

 不審に思った成葉だったが、制服の襟元とバッジの位置を正すと、小秋にはひとまず客間に行こうと明るい表情で伝えた。我に返った小秋は、頬を淡い赤色で染める。片頬に手をやり、そちらに首をかしげた。その拍子に彼女の細く白い首が見えた。


「また貴方の前で取り乱してしまいました。申し訳ありません……」

「私も前に怒ってしまいましたから、これでお相子ですよ」


 成葉は小秋の車椅子をおした。客間に移ると、思い出したように小秋がお茶の準備をすると言ったが、成葉はそれとなく断った。


「今日は部品の交換だけです」

「あら、それもそうでしたね」


 二人掛けのソファに寝かせられた義足を抱えると、成葉はそこのソファに座った。早速、関節部分の消耗品の交換に取りかかった。

 小秋は、車椅子から身体を起こし、成葉の隣に腰を下ろした。オペラグローブをはめた手を青年の背中に当てている。ぎゅっと、制服を摘むようにしている。構ってほしい子どもみたいな仕草だった。


「貴方は……嫌ではありませんの?」

「担当を外されることですか」


 成葉は少しだけ小秋を泳がせることにした。理由は今なお不明だが、自分と小秋では、津吹から聞かされる情報に違いがあると思ったのだ。義足の交渉についても似たような前例がある。

 小秋の話に合わせる形で、成葉は喋る。


「私が小秋さんの担当ではなくなっても、今の関係に変わりはないと思いますよ」

「それは本当ですの?」

「私が隠れてこちらに来れば良いのです。定期配血の方も、私の血を原料にした製剤を提供していますし……配達に来る人間が変わるだけで、小秋さんが口に触れるものに違いはありませんよ」

「でも……」


 小秋はうるんだ目を伏せた。


「一年近く、成葉様はわたくしの専属の傘士でいらしたのに。こうもあっさりと終わってしまうだなんて……なんだか寂しいですわ」

「治療はいつか終わるものですよ、小秋さん。あなたはもうお独りで歩けるじゃないですか」

「いいえ。わたくし……歩けませんわ。独りではどこにも歩けません……」


 引き留めようとする小秋に、成葉は内心優越感を覚えた。あの彼女が、こうもこちらを欲していてくれる、という野卑な優越感を。それはまさしく男の感情だ。二十数年の人生で、成葉が初めて実感したものだった。

 そう気づいた時、成葉は自分がどれだけ下賎な思いを抱いているか悟り、やっとのところで踏みとどまった。


「ご冗談を」


 成葉はあえて冷たく突き放した。そうでもしなければ、彼女にのめり込んでしまう自分がいたと感じたのだ。

 返答した瞬間に、小秋の身体がびくりとこわばったのが、彼女の指先から制服を通して分かった。制服を摘んでいたその指も離れた。


「当初からの約束だったじゃないですか。私が作ったこの足は、支社長が帰国されるまでの仮の物だと……。小秋さんだって、支社長の義足が欲しいとあんなにおっしゃっていたではありませんか?」


 成葉は手に力を入れ、ドライバーを握り直した。その力にはふつふつとした嫉妬が混在していた。津吹に対するものだ。血の繋がりという他人には越えられない関係そのものに、成葉は強く憤った。

 外装の蓋を止めるネジを慎重に取り出す。部品を見る度、それぞれの品番を確認する管理帳が成葉の頭の中で展開していく。

 丹念に仕事に集中する傘士の傍らに、小秋は身を寄せている。


「……ごめんなさい」


 小秋が痛ましい口調で呟いた。


「わたくし、もう──お父様の足なんて要らないのです」


 成葉は無言で手を止めた。


「ですから、どうか……お願いします、成葉様。続投を……貴方にはこれからもわたくしの傘士でいてほしいのです」


 小秋の方へと振り向くと、唇は彼女のもので塞がれた。直しかけの一本の義足は、青年の手から、滑るようにして床に落ちていった。

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