第7章 血を吸う

36話

 “注ぎこんでやろう、わたしの血を、おお愛しい女よ”


 ──ボードレール 『あまりにも陽気な女に』



 “おたがいに疲れてもたれかかっているのに どちらも相手を支えていると思っている

 そしておたがいに役立つことはない ふたりは血に血を重ねるからだ”


 ──リルケ『姉妹』



 “君の心は、なおも生き続け、私の心も、血を流しつつ生き続けなければならぬ”


 ──バイロン『さようなら、妻よ』



 今日も街に雨が降る。赤い、血の雨が。

 瘴雨で外は赤く濡れ、どこかで不注意な誰かが吸血鬼へと変貌する。当人からは足の数が減り、社会には同じ数だけ義足が増える。血液も同様だ。血が汚れ、生の足が減る。血を飲み、偽の足を増やす……。

 これらはこの世界で四半世紀以上も続く常識であり、現実だった。

 六月の中旬。日曜日の夕方。

 屋敷二階のあの部屋に、傘士の青年と吸血鬼の少女はいた。

 成葉は部屋中の本棚を探し回り、気になった本を手に取った。小秋は付近のアンティーク調の椅子に体を預け、古い本を読んでいる。

 今の二人を繋ぐものは、血。それと足をめぐる例のなぞなぞだ。他には、たまに調整が要る義足。本と、本たちの住まいとなっているこの部屋。そこに響くのは紙をめくる音、雨の音、足音。そして耳をすませば聞こえるかもしれない──相手の血液のポンプたる心臓の鼓動だった。

 成葉と小秋は、茶会で歓談した後はこの部屋で本を手に、作家と物語を語り合う。そして最後には血の関係になる。

 二人の距離感にはさほど変化がなかったものの、仲睦まじい視線と微笑を交わすことが格段に多くなっていた。雨の中の違法輸血と、足のなぞなぞをめぐる本探し──傍から見れば歪でしかないこの付き合いも、少なくとも成葉にとっては大切で愛おしいものに思えた。

 最初の違法輸血以来、毎週末になると、小秋から呼び出される羽目になった成葉は、断るということを自ら選択肢には入れなかった。小秋が義足の微調整ではなく、全血製剤を用いない直接の経口輸血のために呼んでいると分かっていてもだ。小秋の雨鬱を治したかったのである。それと同じぐらいに、あのなぞなぞを解くことも念頭にあった。根拠はないが、最終的に解けなければ小秋から見放されてしまうのではないか、と漠然とした不安が青年の心にはあったのだ。

 雨季後の繁忙期が過ぎ去った春も小秋の輸血ペースは変わらず、屋敷に訪れる度に、成葉は小秋に生の血を献上した。採血課などの第三者に事態を悟られないよう、傷をつける箇所を変えながら、数ミリリットルずつ小秋に飲ませた。

 そうした日々を過ごしている中で、成葉にはとある変化があった。精神的なものだ。成葉は、なぞなぞの件はあれど、始めこそは傘士らしい義務や使命感で血を提供していた。しかし次第に、小秋に血液を飲ませたい──という欲求が自分の中で芽生え始めていると気づいたのである。

 それは、かの義足を介して彼女と繋がっていた頃とは違う感覚だった。単に彼女と会っていたい、関係を保っておきたいという朧気おぼろげな意向ではなかった。

 この女には今後も自分の血だけ飲ませたい。あろうことか、成葉はそういう邪念を抱いたのだ。

 青年の心情の変化を知ってか知らずか、小秋は些細なきっかけを種に、成葉に血を要求してきた。そして、成葉は断ることもなく、黙って小秋に何度も血を与えた。ホワイトペリカンのバッジは、配血企業・ブランデル社の社員を示す意味を持たず、ただの血の刃となった……。

 そんな関係にも、既に半年もの月日が流れていた。本を棚に戻してから、成葉は「もう半年ですね」と会話を振った。小秋は可憐に笑い、肩を小刻みに震わせる。


「わたくしが成葉様の生血をいただくようになってからですか?」

「はい。しかし未だ……」


 成葉はさきほど棚に戻した本を一瞥した。


「私の方は、どうも駄目なようです。お目当ての本は見つかりませんね」

「仕方ありませんわ。なにせ、これだけの量ですもの」


 小秋は読んでいた本を閉じた。椅子から立つと、かつり、と義足の音を立てて成葉の傍へ歩いた。自然な動作で成葉の腕に抱きつく。

 なだらかな旋律を奏でるように瞼を閉じてから、小秋は青年の体に頬ずりする。彼女が堂々と甘えてくることもめっきり増えていた。


「お仕事の都合上、毎日お呼びするというわけにもいきませんでしたし……その間に全ての本を確かめるのは無理な話ですわ」

「そうではあるんですけどね。だからって、これだけ探しても見つからないとは……」


 成葉は、軽口を叩きながら小秋を抱き寄せた。自身よりも小さな彼女の背中を可愛らしく思った。だが、彼の心に伏在する理性は、そう感じるのは絶対に許されるべきものではない、と叫んでいた。

 傘士が、客ではなく──目の前の一人の異性の身体に嬉々として触れているからである。

 職業柄、それは看過できないものかもしれない。そうと承知の上で、成葉は別に構わないとすら思った。あれだけ口ずさんでいた自制のための文言も、今となっては使う機会が減りつつある。

 われに純潔と禁欲を……。津吹から教わった大切な言葉だが、文言に従う姿勢では、せっかくここまで構築した小秋との関係の全てが崩れてしまう。それは今の成葉には到底耐え難いものだった。だから彼は、いけないことだと分かりながらも、バッジの刃で自分の腕を切り、今日まで小秋の口を満足させ続けていた。

 成葉は、小秋の髪を撫でながら話す。


「仮に私が例の本を見つけたとして……その時は、小秋さんもはっきりと問題は解けたと認めてくれるんですか」


 小秋は頬ずりを止めた。二つの青い瞳は、上目遣いで成葉を捉えている。


「はい。そして、その本を貴方が最後までお読みになれば……わたくしはようやく報われるのですわ」

「報われる……?」

「成葉様が罪をお認めになって、もっとわたくしに尽くしてくださるようになる……という意味ですよ」

「なんとも言い難いものに聞こえますが」

「ふふ。大丈夫です、悪いようにはなりませんわ。誤解なさらないでくださいませ。わたくし、成葉様を心より愛していますから」


 小秋は、ひっそりと腕を成葉のうなじに回した。いつもは温かい彼女の手が、その時は死体のように冷たかった。


「……愛しているからこそ……わたくしはこうして、ここにいるのです」


 伸ばした手で成葉の頭を数回撫でてから、小秋は微笑んだ。年端のいかない少年を持つ母親のような聖なる笑み。その微笑の中には、窓から入る雨天の陽の光を反射する、吸血鬼らしい犬歯があった。

 成葉は小秋に笑顔で応えながらも、内心は違った。含みのある物言いをする小秋に対し、湿った猜疑心が雨雲のように現れた。

 配血の契約が開始した去年の当初から、小秋が何かしらの重要な事実を意図的に伏せているように思えてならない。しかしそれはこちらもだ、と成葉は自嘲した。小秋に『マクベス』の一節を引いたことを思い出す──“偽りの心を隠すのは、偽りの顔しかない”のだと。

 そうは思っても、小秋の愛の言葉に欺瞞は欠片もなかった。客商売で人をよく見てきた成葉は、そのことだけは見抜けた。彼女の恋情に、愛に、虚偽はない。

 ないはずであるのに、掴みようのない何かを疑っている自分がいる。成葉は不満を覚えた。それはおそらく──否、確実にあのなぞなぞに関係している事柄だった。


「成葉様……あの、そろそろ……」


 小秋は、注射針の狙いを定めるかのような仕草で、成葉の手首に指の腹を滑らせている。ここ半年で暗黙の了解として出来上がった「おねだり」の合図だった。彼女はとろんと甘い目つきで、首をかしげる。

 成葉はいつもと同じく胸のバッジに手をかけたが、不意にその手を止めた。


「どうされたんですの?」


 いつまで経っても腕を切ろうとしない成葉に不安になったのか、小秋は焦慮に駆られたように眉をひそめた。


「ご心配なく。血はあげますよ。今回は多めに差しあげましょう。でもその代わりに少しヒントを教えてくれませんか?」

「何のヒントでしょう?」

「あのなぞなぞについてです」


 途端に、ふふ、と小秋は表情をほころばせる。


「成葉様。ヒントを挙げるとするなら、この世界全体ですわ」

「世界が?」

「そうですわ。雨の降る、この世界ですよ」


 小秋は窓の方をちらりと見た。まばらな雨粒が窓に張りついている。


「雨を克服するために生まれた、足の技術たち……。傘士である貴方がこうもお気づきにならないのは、ちょっとだけ皮肉なことなのかもしれません」

「……血の雨が降る私たちの現実が、あの問題を解き明かしてくれるわけですね?」

「ええ、その通りですわ」


 まだ窓の外を見ていた小秋は、自分の発言に自信があるような声音だった。彼女がおかしな助言で、回答者を惑わそうとしている節はないらしい。

 成葉は隠しもせず、軽いため息をつく。小秋のヒントを得た上でもなぞなぞの意味がさっぱり分からなかったからである。

 小秋の言い分では、不条理な血の雨が降るこんな世界と、そこから派生して進化した義足の技術が──答えに至るまでに必要となるキーだそうだ。これが頭の中で閃きの種になってくれるのか、それすら検討もつきそうにない。


「なら質問を変えます。例のなぞなぞが書かれた本は、物語なのですか?」


 視線を成葉に戻してから、小秋は「はい」と頷く。


「はじめにこの問いかけが提示され、それをテーマとして、物語は進行していくのですわ……」


 そう言いながら、小秋はひっそりと、成葉の左腕の袖をまくり始めた。彼女は夜中のベッドにいる恋人の服を脱がすのと同じような手つきで、成葉の二の腕を露出させる。

 小秋は露わになった成葉の腕を握った。

 薄い肌の下に、大量の血が巡っている。その流れが小秋の手に伝わったのか、彼女の頬は紅潮していた。


「血なんて美味しいのですか?」

「他でもない貴方の血ですもの。わたくしにとっては、この上なく美味しいのですよ」

「いよいよ本当に吸血鬼のような台詞をおっしゃられますね……」

「お許しくださいませ。“女の愛は食欲に似ている”のですわ。その点、吸血鬼は幸運です。自分の愛を……お慕いするご本人にぶつけることができるのですから」

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