35話

 少し経って、小秋は近くの椅子に腰を下ろした。左足である大腿義足を見下ろしながら、小秋はそれを撫でた。その姿は、名高い芸術家の彫像を想起させるほどに美しかった。

 冷静さを取り戻した成葉は、足を労う吸血鬼に見とれていたが、その場にいることが苦痛だった。傘士としても年上の男としても不遜に近い、大人気ない態度で振る舞い、少女を相手に感情的になってしまった直後なのだ。

 腕時計の時間を見る。まだ帰るには早かった。


「……申し訳ありませんでした。どうか先のご無礼をお許しください」

「許しませんわ」


 小秋は表情を動かさず、そう言った。成葉はため息もつけなかった。ただ直立し、小秋を眺める。

 身体的に障害を持つがために義足をつける吸血鬼の足を揶揄したのだから、小秋の怒りは当然のものだった。成葉は従者のように、小秋の傍らで片膝をつく。


「どうすればお許ししていただけますか」

「許しを乞うのなら、わたくしを抱きしめてください。健全な貴方にできるとは思いませんけれど」


 小秋は横目に成葉を見た。青い瞳は、近くにいる青年の全体を見透かしていた。

 ここで辞退すれば全てが終わるような気がした。成葉は立ち上がると、両腕で小秋を包んだ。引くに引けなかったのだ。


「失礼します」

「あら……」


 椅子に座る小秋を横から、両腕で抱きしめる。小秋の白髪の上に顎をのせるような姿勢になる。少女の身体の柔軟な手触り。熱。甘い香り。それらが成葉をことごとく刺激した。


「本当にハグしてくださるなんて思いもしませんでしたわ」


 小秋は平坦な声で呟いた。成葉からは小秋の顔つきは見えない。少女が泣いているのか、微笑んでいるのかすらも判別できなかった。力強く、その小さな身体を抱擁するだけだった。

 二人は何分もそうしていた。互いに身動ぎせず、雨音を聞きながら。冷えた空気の中では、それが正解のように思えた。次第に雨は強まっていく。

 たくさんの書籍と古めかしい木製の家具たちが形成する、僅かにかびの匂いがある空間。どこからともなく降る雨。今のこの二人には、それらだけが認めるべき世界だった。


「成葉様。このまま、わたくしの頭を撫でてください」


 小秋はなんの前触れもなく言った。


「分かりました」


 成葉は片手で小秋の頭を撫でた。髪をくみたいに頭上から下にかけて、丹念に手を流す。


「相変わらず綺麗な髪ですね」

「白髪ですわ。まるでお年寄りの髪です……。黒く染め直そうとも考えたのですが、わたくし肌が弱いものですから」

「白いままでも小秋さんのは美しい髪ですよ」

「そうですの?」

「はい。とても綺麗です」

「……ありがとう、成葉様」


 小秋が目を閉じたのが分かった気がした。成葉もそうした。

 ざあざあと、二人の会話に雨が降る。雪にはならない、沛然はいぜんたる冷たい雨。


「雨、止みませんね」

「そうですね。まるでらずの雨ですわ」

「やらず……なんでしょうか、それは」

「日本の古い雨の言葉です。留客雨りゅうかくうとも言いますの。お客様や恋人が帰ろうとすると、あたかもその人たちを引き留めるかのように降る雨を……そう言い表すのですわ」


 雨の言葉。初めて聞く心地よい音色のその単語たちは、成葉の耳によく響いた。吸血鬼文学をはじめとして、足や血とも同じく、それは吸血鬼──瘴雨患者への差別的なニュアンスを含むとして、四半世紀ほど前から表現方法の多くが規制されたものだった。

 日本は雨に関する語彙が凄まじい。というのも元々、日本は世界的にも雨が多い国だからである。年間降水量ならばそうでもないが、数時間から数日間にかけての局所的かつ短時間に降る雨は、世界のどの地域と比べてもトップクラスなのだ。したがって雨についての知見が多く、昔から雨の表現や言い回しが他の国よりも遥かに豊富だった。そういった過程で生まれた言葉たちだが、現在では存在ごと消されている。読書を嗜む成葉でも、小秋から教えられなければ知らないものばかりだ。


「“孤独は雨のようだ”──」


 小秋は流麗な一句を発した。


「詩人のリルケはこううたいましたけど、まさしくそうですね。雨籠あまごもりする毎日は、わたくし……ずっと独りですもの」

「小秋さん。あなたは……」


 質問しようとした成葉は一旦、小秋から身を離そうとしたが、できなかった。青年が痛みを覚えるほどに、小秋は彼の腕を掴んでいたのだ。

 仕方なく、少女を抱きしめ直してから質問を再開する。


「寂しいのですか?」

「そうかもしれませんね。ここは街から離れていて閑静な場所ですから、読書を誰にも邪魔されませんが……時折、ふとした瞬間に寂しくなるんですの。わたくし、とてもモンテーニュにはなれませんわ」

「これからは私が来ますよ」

「二ヶ月に一度?」

「そうです。あなたに配血するために」

「あらあら、つれない人ですこと。“客というものは、親切を示してくれた主人のことは、いつまでも忘れずに思い出す”……と言うではありませんか?」

「ホメロスの『オデュッセイア』ですね」


 小秋は頷く。


「二ヶ月に一度の輸血を除いて……わたくしは何回、貴方のことを思い出せば良いのです?」

「それは……」


 成葉は口ごもった。


「でも、そうだとすると……遣らずの雨という言葉を私に投げるのは、ある種の誤用ではありませんか?」


 ここはあなたの屋敷であって、客は私じゃない、と成葉は続けた。小秋の顔は相変わらず見えなかったが、声を抑えながらも彼女が屈託なく笑ったのが分かった。


「おっしゃる通り、血と足に限り、わたくしは貴方のお客様です。しかし、こちらの屋敷にお越しいただいている以上……貴方はわたくしのお客様なのですわ」


 成葉は、小秋と出会った当初の頃を思い出した。

 義足もなしに、杖だけ使って歩き、来客の助けを借りずにお茶の準備をしてきた小秋を。自分の状況とは関係なく、訪れてきた客に対して失礼のないよう振る舞うべく教育されてきたのだろう。


「小秋さんはお強い方ですね」

「そんなことありませんわ。強くないから、こうして成葉様に甘えているのです」


 もぞりと、成葉の胸に小秋の顔が埋まった。

 また制服のバッジを取られるのか、と成葉は危惧したが、小秋はこちらの腕を捕らえるために既に両手を使っていたと分かると、彼女の言葉に嘘偽りがないと悟った。


「……ですからもっと、わたくしに会いに来てくださいませ。お仕事のお邪魔にならない時だけで構いませんから」


 小秋は更に身体を密着させた。成葉は、そんな彼女のことを黙って抱きしめ返す。

 雨鬱なのだろうか、小秋は──。成葉は思惟するが、断片的な情報だけでは無理だった。以前にも、小秋は雨鬱なのかと疑ったことがあった。しかし今の彼女はどうなのだろうかと迷った。

 小秋の恋情は、雨鬱だけによるものなのか?

 好きだから依存するのか──依存するから好きになるのか。堂々巡りの難問は、奥手で女性に疎い青年には解けるものではなかった。


「上半期は雨季明けのお客様も減って、義足の発注も減る時期なのでしょう?成葉様もお時間が取れるようになるのではありませんか。好きな時にここに来てくださってもいいのですよ」


 無言の成葉に恐れをなしたのか、小秋は頭を動かし、耳を成葉に押し当てながら言った。その声は甘い。そして震えていた。


「そうしたら、普段と同じように二人で一緒に美味しいお菓子と紅茶をいただきましょう。ここで本の話をするのです。それも終わりましたら……」

「私の血を飲むのですね」

「ええ。今回の無礼を許してほしければ、ということではありますが」


 どうも小秋は抱擁だけでは満足してくれなかったらしい。事前に話をまとめておくべきだった、と成葉は淡く後悔するも、また小秋と頻繁に会えると思うと胸が高鳴った。


「そちらの約束は……いつまで続くのです?」

「貴方があのなぞなぞを解かれるまで、ですわ」


 小秋の手に力が入ったのが成葉に伝わった。


「無茶な話ですね、それはまた……」

「そうでもありませんわ。よくお考えになられてください。ここはわたくしの自室なのです……。例のなぞなぞを収めた本は、この部屋のどこかにあるのです」

「……つまり、小秋さんとこちらでお会いする度に私がその本を探しても良い、と。そうおっしゃっているのですか?」

「はい。おっしゃる通りですわ」


 小秋は、成葉の胸から頭をどかし、手も離した。なし崩し的に、小秋を覆うように抱きしめていた成葉も腕を解いた。ふと腕時計を見ると、もう輸血後の観察時間はとっくに過ぎていた。

 小さく笑ってから、小秋の気品ある目配せを周囲の本棚に向けた。成葉もそれに習う。

 広い室内は、町の小さな図書館に匹敵するぐらいの規模がある。本に居場所を与える棚が並べられ、それが都市部の高層ビル群のようにも見えた。無秩序に広がった、人工物の集積所。

 この中から、たった一冊。土台無理な話に聞こえるかもしれないが、全く検討もつかないなぞなぞをゼロから自力で解くよりかは幾分も簡単に終わるだろう。

 視線を戻すと小秋と目が合った。

 きらりと光を放つ、健気で純真そうな青い瞳が、青年の返事を待っていた。


「分かりました……いいでしょう。こんな私でよろしければ、いつでも好きな時にお呼びください」


 それを聞くなり、小秋は、晴れた昼下がりに微睡む幼女のように幸せに満ち足りた頷きをした。


「そう言ってくださると思っていました。大好きですわ。わたくしの成葉様」


 小秋は成葉の制服の袖を引いて彼を寄せると、再び青年の胸に顔を埋めた。

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