34話

 小秋のその目は、何か言いたげな色を宿していた。


「奥様のご趣味や感性を立派に引き継がれたわけですね。小秋さんも奥様のように仏文学がお好きでしょう?きっと、あの方も……天国でお喜びになられていますよ」

「そうでしょうか」


 不気味なほど低い声音で、小秋は成葉の言葉を流すと、その横をすり抜けた。小秋はそのまま部屋の壁際に連立する本棚の方へと歩く。


「どうされました?」

「わたくし、お母様のことを考慮しなくとも仏文学は好きです」

「……左様でしたか」

「それに、こういう言葉もあります。“悪魔でも聖書を引くことができる”……。お母様は少なくとも天国には行けなかったと思いますわ」


 え、と成葉は絶句した。そんな青年には構うことなく、小秋は歩み続ける。

 一歩、また一歩、進行方向に小秋の義足と右足が交互に入れ替わる。こつりと義足が音を立てる。しっかりとした木の床材と響き、それは成葉の耳にへばりつく。やがて二本の足音は止まった。


「こちらの棚は……お父様の本棚です」


 たっぷりと、余裕を持った表情で小秋は振り返った。

 本棚は背の低いもので、それを見た瞬間に成葉はあることに気づいた。この部屋の、この位置にある本棚……。


「英文学作品を集めたものですわ。もちろん、貴方のお好きなシェイクスピアもございます」


 小秋はそこから、古い背表紙の文庫本を一冊、取り出した。

 間違いない、あの本は──。

 成葉は息を呑んだ。小秋の手にあるのは紛れもない『マクベス』だった。それはあの日、ここで彼が見た本だ。背表紙に微かにある茶色のシミには見覚えがあった。

 本を両手に、小秋は愛おしそうにページをめくった。紙の擦れる音が雨音に染みた。否、雨音が古びた紙に吸い込まれたのかもしれない。


「シェイクスピア四大悲劇……そのうちの一作ですわ。成葉様はこちらの作品がお好きなのですよね?義足の件でお話がまとまって、わたくしがこれから貴方をどう呼ぶか迷った際……自分のことは『マクベス』とお呼びくださいと、おかしな冗談を交えてくださったではありませんか」

「我ながら、出来の悪い冗談です」

「本当にそうですわ。わざわざ悲劇の主人公を名乗られるんですもの。わたくし、びっくりしたんですから」


 マクベスと名乗った時、吸血鬼の彼女たちから返された反応はどちらも似たものだった。

 冷雨が降りしきる冬の最中にあって、小秋の微笑みだけが温かい。気まずくなった成葉は視線を外した。薄く開かれたカーテンの隙間からは、雨天の鈍い光が差し込んでいる。

 天気は同じ雨。違うとすれば季節だが、あの日は今日と同じく空気が冷えていた。

 記憶の奥底にうずくようにしてある、あの日の記憶。成葉は意識が遠くなりかけた。すぐそばにまた、吸血鬼の女がやってくるかもしれない期待からだった。彼女が慈愛と母性のこもった優しい笑顔で包んでくれるかも、という幻想。

 こつり、こつり。足音が近づいてくる。はっとして、成葉が意識を本棚の方へと戻した時にはもう遅かった。


「名作と語られる作品は、なぜ悲劇ばかりなのか──そう考えたことはございませんか?」


 鼻先が触れ合うような極端に近い距離に、小秋の白い顔があった。

 青い二つの海に流される。成葉は波打ち際から逃げる少年のごとく下がった。同時に小秋は、波となった。砂浜にいる少年の足をすくうような、止まることを知らない様子で。実際には一人の青年が数歩下がり、彼に迫る少女が数歩近づいただけに過ぎない。だが、この時の二人の間では、確実に同じ海の光景が広がっていた。

 いつだったかは記憶にないが、小秋の瞳は暗い海のように感じたことがあったと成葉は思い出す。それはかつての吸血鬼の女とはまるで違ったことも。吸血鬼の女の青い瞳は、穏やかな秋の海そのもので、陰鬱な気配はなかったのだ。それともその違いすら、自分の理想に過ぎなのか──。彼には分からなかった。


「ありませんが」


 辛うじて返事をした。

 小秋は覗き込んでいた姿勢を直し、一人前の淑女らしく背を伸ばす。


「そうでしたのね。でも理由は明快ですわ。悲劇は人の記憶によく残るものだからですよ」

「記憶に残る?」

「ええ、そうですわ。はるか昔から人の心を打つ作品は悲劇だと相場が決まっています。魔女たちに従って、疑心暗鬼に囚われ続けたマクベスは凄惨な最期を迎えました……。救いようのない悲劇には、必ず人々の心に真に訴えかけるものがあるのですよ」

「分からなくもありませんが、われわれ現代人の価値観では人が死ぬとなると……躊躇ためらうものがあるものでは」

「それは当時の人たちとそう変わりはありませんわ。それほどに死が耐え難く、恐ろしかったものでしたから、人は物語の他にも宗教をつくったのです」

「……残念なことに、そのせいで戦争も生まれてしまいましたが」

「そうですわね。それこそ欧州の吸血鬼伝説と合致します。自分たちのコミュニティとは異なる人々を邪悪な敵だとみなして、延々と殺したのです。世界史を唯一の物語だとするのなら、異論の余地なく悲劇ですわ」

「だからこそ……この世界は名作だとでも?」


 成葉の返しに、小秋は満足気に笑った。しかし間もなく、小秋は後ろめたさそうに目を伏せる。


「……成葉様とわたくしの関係はどうなのでしょう?わたくしたちは悲劇の上に成り立つ名作なのですか。それとも反対に、喜劇の上に成り立つ駄作でしょうか」


 そう問いかけられた成葉は黙った。その答えを彼は分かっているように思ったのだ。

 屋根からは、あの日から止まずに降り続けるような雨音が垂れている。

 小秋は、花弁が落ちるように、ぱちりと大きな瞬きをした。


「貴方はどのような結末を望まれますか?成葉様。是非とも貴方の愛についてのお考えを知りたいですわ」


 小秋は顔を上げると、ひたむきな目で青年を捉えた。あれだけ気持ちを拒んだにも関わらず、小秋はその身体と心の内にともした気持ちを収めようとはしないようだった。成葉は戸惑いながらも、かぶりを振る。


「小秋さん、聞く相手を間違えていますよ。私は愛とは最も無縁な存在です」

「傘士だから……とおっしゃられるのですね」


 小秋は悲しそうに苦笑した。


「傘士は他人の愛を知りません。知ってはいけないのです……献血のリスクになります」

「一言に愛と言っても、愛にだって色んな種類がありますわ。成葉様が知らない愛……恋愛のことでしょう?けれども恋愛を知らずとも、成葉様にはもっと強いものが……。人同士が互いに向け合う愛の中でも、格別に深くて強いものを成葉様は……その胸の内に燃やされていらっしゃるはずです」


 ぴくりと、成葉の中でうごめくものがあった。彼の中で何かが壊れそうになる。


「文学的な表現ですね」

「話を脱線させないでくださいませ。わたくし、真剣に話をしているのですよ」


 小秋は声を張った。青い眼は光を放ち、白い横髪が笑みを浮かべるように揺れる。彼女の佇まいや所作には見惚れる風格があった。それは例によって、多くの人を否応なくひざまずかせるような空気であり、雰囲気であった。だが今の成葉には、それも通用しなかった。


「真剣に……私が知っている愛を?」


 湧き出た憤りを成葉は抑えきれず、小秋を睨みつけた。

 心臓の鼓動が早まっていく。血が巡る。体内を怒りの体液が流れる。

 かつての西洋医学では、人間には血液を含む四つの体液が循環しており、気性の変化や病はそれらの体液のバランスの悪化によるものだと考えられていたという。その調和を回復するべく試みられたのが、血を体外へ抜く瀉血しゃけつという名の療法だった。もしもこの瀉血によって、今の自分の身体中を駆ける憤懣ふんまんが消滅するのなら、成葉は小秋に血を捧げた時のように、バッジに収めた刃を取り出していたことだろう。

 成葉は肩をすくめてみせる。皮肉っぽいその動作は、普段の彼には似ても似つかないものだった。


「随分と知った風なことを……一体あんたが僕の何を知ってるって言うんだ」


 青年と少女の体格差には歴然とした差がある。身長はそう変わらないが、力仕事な面もある傘士と、片足が義足で虚弱体質な吸血鬼の少女とでは、両者の力関係は言うまでもない。一瞬だけおくした小秋だったが、青年に対抗して目つきを鋭くする。


「……それをおっしゃるのなら、貴方もわたくしのことを何もご存知ないでしょう?そうお怒りにならないでください。わたくしたちは似た者同士なのですから」


 小秋に諭される成葉は、少し落ち着きを取り戻したものの、怒りは消えなかった。


「似た者?またあれですか。吸血鬼が鏡に映るだとか映らないだとかいう、くだらない話ですか」

「くだらなくなんかありませんわ。成葉様、わたくし以前にも言ったはずですよ。貴方とは敵になりたくないのです……この先も、貴方と一緒に歩いていきたいのですわ」

「作り物の足で?」


 成葉は唾棄するように居丈高いたけだかに言い放った。小秋は目つきを緩め、にこりと温和に微笑する。


「はい。成葉様がお作りになった……この大切な足で、ご一緒に。それがわたくしの願いですわ」


 何も言えなくなった成葉だったが、野犬にも似た目を小秋から離すことはしなかった。

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