33話

 早速、成葉は袖を深くまくって、二の腕を露出させた。手首でも良いのだが、傷が目立たない箇所で切ることにした。採血課の人間に不正な採血があると告発されては困るからだ。

 カッターの刃先に似た簡易の刃物を手にし、成葉はそれを自らの二の腕へ斜めに押しつけた。ぷつりと真っ赤な液体が一滴、皮膚に染み出す。


「美味しそうですね」


 小秋は、歓喜の表情を見せた。ひどく残忍で無邪気な笑顔。砂漠でオアシスを発見した遭難者を思わせる、驚きと安心が溶けた顔。心からの幸福を物語るには、小秋のそれは充分すぎる微笑みだった。


「本当に飲んでも……?」

「どうぞ。あ、でも今更なのですが、ここからどうやってお飲みに……」


 飲血の手段を訊ねる前に、成葉の腕は小秋に抱きしめられた。

 赤子を抱くようにそのまま片腕を引き寄せると、小秋はその二の腕の赤い点めがけて、あろうことか口づけを始めたのだ。

 呆気にとられた成葉は、黙ってその光景を静観せざるを得なかった。吸血鬼の少女は──小秋は、恥じ入る頬を薄紅にしながらも、美味しそうに、嬉しそうに、青年の腕に唇を密着させた。傷は浅かった。水滴に換算して、十滴も出血はないだろうが、小秋は血を舐めたことにとても満足しているようだった。

 小秋は顔を見上げる。唇が肌から離れても、少女の熱は成葉の腕からは消えなかった。禍々しくも甘くて魅惑的で、不思議な熱。


「ありがとうございました。すごく美味しかったですわ。今……わたくしが治して差しあげますから」


 小秋は近くの棚にある救急箱を持ってきた。彼女は消毒液と少し大きい絆創膏で、成葉の傷口を手早く丁寧に治療する。


「今回はこれくらいに留めておきます。あまり出血されても、貴方のお体に毒ですから」

「今回は?」


 成葉が不審そうに訊くと、小秋は青い瞳を細めた。


「また次もお願いいたします」

「次回は二ヶ月後なので三月になりますね」

「……全血製剤の配送の時でしか、もうわたくしとは会わないおつもりなんですの?」

「小秋さんが何かお困りなのでしたら、我々に頼ってくれても構いません。ですが……それにも限度があります。緊急時を除いた契約外の輸血は本来、違法行為です。今後はお控えくださるようお願いしたいです」

「それなら初めから断ってくだされば良かったではございませんか?引き受けられたのは紛れもなく貴方でしょう」


 小秋はやや口調を強めた。


「わたくしはお願いしただけです。貴方が何をお考えになって、無茶を承ってくださったのかは知る由もありませんが……。きっと、前のことでわたくしに罪滅ぼしをしたかったのでしょうね」


 図星だった。言い訳の余地はなく、成葉はねた子どものように、そっぽを向く他なかった。


「輸血しないと……」

「あら?」

「この輸血を了承しないと、小秋さんに嫌われてしまうかもしれないと思ったのです。それが……私には恐ろしかったのです」

「お認めになられるのですね。うふふ……可愛らしいお考えですこと」


 救急箱を棚にしまうと、小秋は声には出さずに、くすくすと息を漏らして小さく笑った。上機嫌そうだった。小秋はきちんと成葉の方に向き直ってから、言葉を続ける。


「たった数回の拒絶ぐらいで……わたくしが易々と身を引くとでもお思いで?こう見えても、わたくしも津吹家の端くれです。人を相手にして、そう簡単に怯むような真似はしませんわ」


 気迫と表現した方が近いかもしれない。小秋が常にまとう独特な雰囲気には、他人を従わせるものがある。今の成葉もそれに服従するしかなかった。


「とはいえ……先日は貴方にお見苦しい姿を見せてしまいました。わたくし、あの時のことを思い返す度、未だに羞恥に駆られるのですよ」

「もう気にしていませんよ。私を諦めてほしいことは、依然として変わりはありませんが」

「わたくしに嫌われたくないとおっしゃっていたのに……」


 痛いところを突いてくる、と成葉は、怪訝な気持ちが顔に出そうになった。

 小秋を異性として気になってはいるが、それを伝えたところで、彼女と交際するわけにもいかないのだ。

 それに、あのこともある──。

 そう胸中で考えると、成葉はかつてない自己嫌悪に駆られた。しかし、とでも言いたげに、成葉は小秋の義足を盗み見た。美しい足。彼女と同じ足。ようやく、小秋が装着してくれた、自作の大腿義足。

 結局のところ、小秋に本心を見せびらかすことはできない。再度、成葉は確信した。小秋の気持ちを受け入れることが出来ないのは傘士という立場がかせになっているからではなく、もっと別の理由によるものだ。


「嫌われたくないのは……配血のご契約を会社と繋ぐ、あなたの傘士としてです」


 喉の奥が渇き、上手く声にならなかった。小秋は不信そうに眉根を寄せる。成葉は言い直そうとしたが、小秋が口癖である「あら」と言う方が早かった。


「本当に……もう。頑固な人ですのね。貴方を素直にして差しあげるのは、少しばかり骨が折れそうですわ」

「なにも、そのようなことに腐心される必要はありません。とにかく、こういった輸血は……」

「いけませんの?」


 小秋は、男の欲求を掻き立てる、脆い視線を投げた。成葉は少女に釘付けになったものの、空咳をしてごまかす。


「……駄目なものは駄目です」


 二人は見つめ合った。血を飲ませてほしいという吸血鬼の妖しい眼差しと、それを拒む傘士の強硬な目つきが様々な背景を元に、絡まり、もつれ合う。

 平静を保つため、成葉は意識だけ身構えた。年下とはいえ、頭の回る小秋は油断できない。きっとまた何か他の提案をしてきて、結果的にそれが飲血に繋がるよう、こちら側に誘導を仕向けてくるだろうと考えていた。だが、予想に反するように、小秋ははにかんだ苦笑をしただけだった。


「後のことはまた今度にしましょう。それよりも、今は目の前のことに取り組むのが建設的ですもの……。成葉様。わたくし、貴方に今回の血のお礼がしたいですわ」


 この言い方だと、やはり契約外の輸血を諦めてはいない節があったが、成葉は次回の約束をさせられるよりはマシだと思い、追求はしなかった。


「お礼ですか……」


 前に小秋からお礼を求められた際、自分はどう切り抜けただろうか、と成葉は思い返してみた。正確な誕生日を聞いただけで済んだ記憶にたどり着く。お礼代わりに質問を投げる、という選択は無害でいいかもしれない。しかし今更、小秋の何を聞けば良いのだろう。それこそ無かった。


「特に思いつくものがないようですね?」


 悩んでいると、小秋の方から助け舟が出された。


「わたくしが成葉様のお部屋を拝見したのに、貴方がわたくしの部屋を目にされていないというのは、いささか不公平になってしまうのではないでしょうか」


 言われてみると、それもそうだった。代案も思いつかなかったので、成葉は「まあ、はい」と首肯する。


「では……わたくしの部屋に興味はおありで?よろしければ、今からご案内いたします」



 屋敷の二階。そこの角部屋に当たる空間に、小秋の書斎兼寝室があるという。小秋の自室だ。観察時間に余裕があるので、二人で部屋に行くことになった。

 成葉はそこに小秋と入室するのは初めてだったが、その部屋に足を踏み入れること自体は二度目だった。幼少期の秋。運命が決まったあの雨の日。窮地に陥っていたところを恩人である吸血鬼の女が介抱してくれて、名前を授けてくれた──今も記憶の内に鮮明に残る部屋と、同じ所なのだから。

 横にいる小秋から「どうぞ」と促され、成葉は室内へ前進した。


「失礼します」


 会釈してから一歩、入る。緊張で喉が乾いた。

 その部屋は、情景となっていたものと遜色なかった。当時と変わらず、美しい木目の外壁と天井に覆われており、淡く光が差す窓からは雨模様が見えた。壁際には所狭しと本棚がある。昔よりも圧倒的に蔵書が増えているようで、客間と比べても本はこちらの方が多いかもしれなかった。


「ここが小秋さんのお部屋ですか。綺麗で広くて、本も多い……すごくいいですね」


 言ってみて、引っかかるところがあった。ここは津吹家の実家ではない。離れのような扱いに過ぎないはずだ。小秋は吸血鬼になった去年の梅雨明けからここに住んでいると話していたが、実家を離れる理由は今も明らかになっていなかった。

 それを質問しようかとも考えたが、流石にはばかられた。家庭内の事情かもしれないのだ。


「成葉様。是非、ここの天井をご覧ください」

「何かあるのですか?」

「ええ。きっと驚かれるかと思いますわ」


 勧められるままに仰ぐと、柔らかい木の色をした天井があった。はりの木製の柱が何本かで屋根を支えている、何の変哲もないものだ。よく目を凝らすと、小秋の言いたいことが呑めた。

 客間同様、ここの建材も、直接何かしらの文字がフランス語で彫られていたのだ。それも複数である。


「“すべては空しい”……」


 成葉は呟いた。


「これは旧約聖書の一節ですね?一階の客間の天井にあった文言も、そういえば聖書からの引用でしたか。日本語じゃなかったので、すぐには分からなかったのですが……」

「……他にもお分かりになります?」

「読んでみます。えーと……“天も地も海も、ひとまとめにしたすべてでも宇宙に比べれば無に等しい”……これはルクレティウスですか?」

「はい。有名な言葉ですわ」

「次は……“わたしは人間だ。人間のことでなにひとつわたしに無関係なものはない”と。これはテレンティウス?」

「お見事です。流石ですね」


 成葉は最後に残った文言に目を走らせる。それは他とは違って、やや長かった。


「“わたしの思考は、もし座らせておくと眠ってしまう。わたしの精神は、もし足がそれを揺り動かさないと進んでいかない”」


 足。

 四本足、二本足、三本足──。

 不意打ちでその単語が目に入り、成葉は数秒、瞬きする瞼がぴたりと固まった。


「これは……たしかモンテーニュかと」

「おっしゃる通り、あちらはモンテーニュの言葉ですわ。書斎のある塔に身を置いて、閑暇の時を読書と思索で過ごしたフランス思想家の……」


 それまでは簡潔に返事をする小秋だったが、なぜかこの文言については、きちんと言及してきた。彼女の青い両目は天井の文字列ではなく、成葉に向かっている。

 小秋のその言動がやけに懐疑的に思えた。一瞬、どう言葉を発するか迷ったが、成葉は短く頷いた。


「私も存じております」


 成葉は、かの偉人の言葉とは昔から親しんできた。小秋もだ。彼女も会話の節々でモンテーニュから引用する。義足についての話し合いをした時だって、二人は互いに近い文章から引いたやり取りをしたぐらいだ。

 小秋はフランス文学と思想の本が好きなので、おそらく今回も好みの話をしたかっただけだろう。そう思い、小秋の詳しい説明と不自然な視線は気に留めないことにした。

 書斎のある塔と聞いて、成葉はその偉人についてのエピソードを思い出す。


「モンテーニュは自分を戒めるため、律するために、書斎部屋の天井へ賢人たちの格言を記していたと……何かの本で読んだ覚えがあります。この屋敷にあるものはそれを参考に?」

「そうですね。ですからフランス語で刻まれているのです。モンテーニュの場合、文言はラテン語やギリシャ語の原文を刻みましたが……あくまでも、これは彼の物真似ですもの。彼本人の言葉があるのもそのためですわ」

「以前、奥様が使用人の方に彫るよう頼んだと小秋さんがおっしゃっていましたよね。こちらの部屋のも?」

「……ええ。他ならない、お母様が」


 小秋はふと視線を天井に上げたが、間もなく成葉に戻した。


「お母様は、本が大好きでしたから」

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