第6章 血を捧ぐ

32話

 “ああ!お気の毒な恋人!真赤な、輝くばかり美しいあなたの血を、あたしは飲もうとしているの”


 ──ゴーチエ『死霊の恋』



 “頬は典雅な白さを見せている。しかし、唇は……!それを見た瞬間、身体に悪寒が走った。それは真紅で……人間の血に染まっていた”


 ──カール・ジャコビ『黒の告白』



 “……おおこの苦しみ!「時」は命をくらう、

 そして腹黒い「敵」は僕等の心臓をかじり、

 僕等の失う血をすすってひたすらに肥え太る!”


 ──ボードレール『敵』



 年は明け、2017年。

 ブランデル社の義肢装具課は正月休みを返上してから十日ほど経過しても、ほぼ変わらないぐらいに忙しかった。年末年始の休みがとれないのは毎年恒例だが、それにしても客が減らなかった。

 成葉は部品のカタログを片目に、おにぎりとペットボトルのお茶を腹に詰め込んでいた。

 繁忙期の平日の昼休憩は、寮の食堂に戻る時間すら惜しくて、購買のもので手早く済ませる傘士が大半だ。この日の成葉もそうだった。

 社内にある義肢制作部屋は、加工用の油とプラスチック製品の匂いが染みついている。むわりとした独特な空気が漂う中で食う飯は、美味くもありまずくもある。カタログから目を上げれば、商品となる義肢の群れと、それらを手がけている傘士の男たちがいる。皆、無愛想に仕事用の椅子に座って、作業の続きだったり、簡単な食事をしたりしていた。繁忙期となる雨季明けは殺伐とした雰囲気が続く。

 慣れても嫌な眺めだ。成葉は、最後のひと口を乱暴に腹に収めると、カタログで確認した部品を探しに行こうと席を立った。

 廊下に並ぶ二重窓は、内外から細かな水滴で覆われていた。真冬の外気による結露と、雪にならず朝から降り続く中濃度の瘴雨は健在らしい。

 近年、全国的に雨の頻度が高くなっている傾向にあるそうだ。気象省、配血企業の気象観測課、民間気象会社が共同して作成している地域別の年間降水量を比較すると、雨は──瘴雨は、着実に量も濃度も増えていた。

 瘴雨は、人間の都市生活が原因で生まれた公害なのではないかと叫ぶ学者もいた。だが、それは日本をはじめとする瘴雨発生国で取得された近年の雨量データの説明にはならなかった。半世紀前よりも、格段に環境への配慮が進んだ先進国ではありえない話だからである。瘴雨に含まれる微生物の正体は、未だ誰にも掴めていないのが現状だ。

 厭世的、あるいは諦めムードとでも言うべきか、今の義肢制作部屋のみならず世界も雨に疲弊していた。外回り中も、車載ラジオをつければ悪いニュースばかりだった。アメリカは四度目となる火星有人探査計画の延期を表明したとか、太陽系惑星での瘴雨の有無を調べるために打ち上げられた無人探査ロボットが惑星表面の岩石の採取中に故障して回収不能になった、とか。

 成葉は窓に手を当てた。窓には疲れた自分の顔が曇って映る。結露がひやりと冷たい。

 手に触れていない外側の窓は、瘴雨で赤く染まっている。耳をすますと雨音が鈍く響いてきた。

 全部、この醜い雨のせいだ。成葉は音にせず舌打ちした。だが、配血企業の需要を生み出しているのも同じ雨であり、人間の無力さであるとも痛感していた。もしも人類が雨を克服したとすれば、配血企業と傘士はその存在意義を見失う。

 悶々と立ち尽くしていると、ふとポケットが重いことに気づいた。中を探る。仕事用の携帯端末が出てきて、成葉は思わず苦笑した。存在すら忘れかけていた。新規の客の家に赴いて行う、採型や契約手続きなどの外回り業務が一段落すると、技術者の成葉にとって携帯端末は無用の長物だったのだ。昨年の暮れからそれを改めて実感していた。小秋からの連絡が無くなったのだ。以前までは本の話題でちょっとしたやり取りのメールであったが、寮での一件以降は途絶えていた。否、厳密には、この空白期間は本義足の最終適合が済んだ後から既に始まっていた。

 降雪の最中、わざわざ寮にやって来た小秋は、これまで胸に秘めていた想いを告げてきた。最後に会った時の彼女の顔が思い起こされる。涙を流すまいと、ぎゅっと口をつぐんでいた少女。純情な気持ちを立場が元で拒絶された、いたいけな女の子……。

 あの後、成葉は小秋を彼女の屋敷へ送り届けた。その道中、小秋は重く沈んだ面持ちだった。最初こそ小秋も気丈に振る舞い、最近読んだ本の話をしてきた。成葉もそれに応えたが、数分もすると車内から会話はなくなった。そして屋敷の前で車が止まるなり、小秋はそそくさと逃げるように帰っていった。義足であることもお構いなしに、まばらに降る白い雪の中を。

 悪かったのは自分なのだと成葉は悔恨するものの、ため息を吐くしかなかった。


 ──だからって、ああする以外には私ができることはなかった。


 理屈で呑み込んでいても人間関係は複雑だ。次に小秋と会う機会まで、もう時間がない。定期便である三回目の経口輸血を行うのは数日後に迫っている。次の日曜の昼だ。

 当日の外回りでは小秋は最後に回る案件なので、会社の位置情報の監視を除いて、時間に気を病む必要もない。その分だけ、彼女一人に割ける時間も多くなるだろう。再度、時間をかけて深々と謝るしかない。成葉はそう決めた。

 邪魔となる追加の仕事を発生させないためには、今から仕事を消化しておくしかない。成葉は我に返り、業務に戻る。分厚いカタログ本と社内の在庫一覧を交互に見つつ、目当ての部品がある保管倉庫へと向かった。

 この青年が、淡い想いを寄せる客の少女から『次の輸血、楽しみにしております』と一件のメールをもらうのは、それからすぐのことだった。



 数日後。午後の昼下がり。

 静謐せいひつな屋敷は、赤くない雨に包まれて、時間が止まりかけているようにも見えた。

 経口輸血のため、小秋の元に訪れた成葉は、着いた早々に新年の挨拶と前回の謝罪をした。

 いつものように、穏やかで優しい微笑を浮かべた小秋は「気にされなくてもいいのです」と言って、快く成葉を室内へ招き入れた。意外にもあっさりと許しを得られてしまって成葉は安堵した。罪悪感に押し潰されかけていた身にとって、小秋は天使のように思えた。

 数分ぐらいはぎくしゃくした空気があったが、それもすぐに打ち解けた。二人は慣れた手つきで、要領よく今回分の二百ミリリットルの全血製剤の照合を完了させた。


「いただきます……成葉様」


 小秋は、真っ赤な血液袋を両手で持って、付属の経口摂取用ストローで飲んだ。彼女の手の中でたぷりと真紅の液体が揺れる。

 飲む度に、こくりと、小秋の喉が膨らむ。徐々に彼女の白い頬に朱が走り、生気が蘇っていく。血液を飲み終えた小秋は、はぁ、と長い息をつく。うっとりと恍惚に彩られた甘い視線は、どこでもない宙に泳いだ。小秋は、名残惜しそうに空になった血液袋を見下ろす。


「……今回はこれで終わりなのですね」

「はい。輸血、お疲れ様でした」


 今からは輸血後のショック症状がないか見守るため、経過観察の一時間が始まる。それは普段ならば茶会の始まりでもあったが、小秋の笑顔には、何かを渇望するような含みがあった。


「あの、成葉様」

「何でしょうか」

「……今日はフィナンシェを用意したのですが、お好きでした?」

「ええ、とても。前にもこちらでいただいた時にもそうお答えしましたよ」


 茶会に出す菓子は、すべて小秋が用意をする。高級店の既製品もあれば、彼女が手作りしてくれるものもあった。


「そうでしたわね。ごめんなさい……」

「どうかされたのですか」

「……足らないのです」


 細い声で小秋は言った。彼女は胸の前で両手の指を組むようにしてから、そっと首をかしげる。

 懇願する少女の目は、涙の膜を張ったように青い輝きを放っている。


「もう少しだけ……お願いします、あと少しだけ、貴方の血液を分けてくださいますか?」

「追加ですか」


 本命の質問の内容に、成葉はぎょっとする。


「そうなるとやはり、血液の不足を感じていらっしゃるのですか?もしかするとそれは吸血鬼化もとい、瘴雨症候群が悪化している可能性が──」

「そうではありませんわ。たった今、言ったではありませんか。だと」


 つまりは同血液型であろうとも、成葉ではない他人の血はいらないと言いたいのだろう。

 小秋は、にこりと口角を上げる。


「これはわたくしの身体的理由ではなく、精神的な……あくまでも個人的なものですの。“パンなしで恋が語れると思いになって?”」

「本当に血液を飲まれるおつもりで?」

「そうですわ」

「経口輸血ではなく、ただ紅茶を飲むのと同じようにですか。それじゃまるで……」

「本物の吸血鬼になったようだ……とでもおっしゃるのですか?それで構いません。成葉様がご了承してくださるのでしたら」


 小秋は、おっとりとしてはいるが、芯の強い目つきで成葉を見据えた。そこには、前回ふと見えた弱い少女の姿はもはやなかった。

 成葉は戸惑ったが、傘士としての立場よりも、小秋の信頼を回復することばかりが頭にあった。そこまで考えて、彼女への謝罪がまだ完全には終わっていないのだと悟った。

 あのなぞなぞといい、小秋は試しているのかもしれない。いつだったか、立ち食いそば屋の店主が言っていたように──屋敷にやってくるたった一人の傘士の青年がどこまで親身になってくれるのかを。

 多少は逡巡するものだと思っていたが、そうはならず、成葉の中で答えは決まっていた。


「お受けしましょう」


 おずおずと、成葉は制服のバッジを外した。会社のロゴマークをかたどったそのバッジの内部には、収納式の小さな刃がある。緊急時の輸血用に使う物だ。

 承諾を聞いた小秋は、「まあ!」と幸福そうに相好を崩した。その拍子に彼女の口から、ちらりと二本の鋭い犬歯が獲物を狙うように姿を現した。

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