31話

 小秋はひらりと腕を引っ込めて、いたずらっぽい表情を浮かべた。


「返してほしければ、わたくしの命令に従うことをおすすめしますわ」

「その手には乗りません。今から社の方に出向いて、紛失の報告をすれば明日からの業務に支障は出ないと思います。小秋さん、そちらのバッジが欲しいのでしたら喜んで差し上げますよ。他ならぬ、お客様のあなたがお望みならば」

「……いじわるな人」

「仮にも私を脅迫しているあなたが口にする台詞じゃないと思いますよ」


 呆れたように、成葉は軽いため息をついた。反面、小秋は少し高揚した面持ちで、どこか楽しそうな雰囲気すらあった。


「別にいいではありませんか?こちらのバッジを身につけていない以上、成葉様はブランデル社の傘士ではございません……。今この時間に限るのなら、わたくしと貴方の仲を阻害する要素なんて、何ひとつありませんわ」


 席を立つと、小秋はテーブルを横から避け、身を乗り出すようにして成葉を抱きしめた。熱く締めつける抱擁だった。少女の香り、体温、蕩けそうな感触、息づかい──それらが問答無用で成葉に押しつけられる。


「それとも、物静かではない女は嫌いでした?」

「そういった質問にはお答えできません」

「相変わらず、強情なんですから……」


 耳元でそう囁かれた。こそばゆい感覚が耳全体に、体中に走った。

 背中に腕を回されてしまい、成葉はとうに両手を使えなかった。小秋のハグから抜け出せないのだ。例によって、客を相手に力づくで引き剥がすこともできない。


「無理は禁物ですわ。何事に関しても」


 首元に小秋の息が当たる。彼女の吐息で汗ばむほどに、近い。

 成葉はそちらに目を向けなかった。ひたすらに天井を仰ぎ、小秋が自発的に離れるその時を静かに待った。それが最善のように思えた。

 唐突に、成葉の鎖骨のやや上辺りから首に沿っての短い距離を小秋の舌が這った。ねっとりと熱く迫り上がる。舌の愛撫が途絶えたかと思うと、次の瞬間、成葉は一筋の痛みを感じた。どくりどくりと血が巡る、首の主要な血管を覆う皮膚に、小秋のチャームなあの犬歯が当てられた。出血こそなかったが、確かに彼女の歯が皮膚に当たっていた。


「そう緊張されなくても大丈夫ですよ」


 歯を離し、小秋はぽつりと言った。


「……吸血鬼に噛みつかれれば、私のような傘士だって非常に恐ろしいものです」


 この際はやむを得ない、と成葉は強引に小秋の腕を払おうとしたが、驚くほど全身から力が抜けてしまっていた。まるで自分がこうなることを望んでいたように。彼は冷や汗をかいた。

 腕の中にいる青年の焦りを喜ばしそうに、小秋は密かに笑う。


「あら?わたくし、なにも貴方に危害を加えるつもりなんてありませんよ。これまでよりも、もっと仲睦まじい間柄になりたいと願っているだけですわ」

「私たちは他の方々に比べて、充分良好な関係だと考えていますが……違うのですか」

「本当にそう思っていらっしゃるのでしたら、わたくしにも砕けた話し方で構わないのですよ?他のご友人に振る舞われるように」

「友人とお客様は扱いが違います」

「ほら、そういう認識が少しばかり気に入らないのです……。命令しますわ、成葉様。ほんの短い時間で構いません。わたくしが何をしようとも、貴方はじっとしていてください」


 言い終えてから、小秋は再び、吸血鬼らしい鋭い犬歯を成葉の皮膚に立てた。このまま彼女が顎に少々の力を込めてしまえば、部屋中に鮮血が吹き出るだろう。そんな光景をたやすく連想できるほど、小秋の歯は鋭利かつ丈夫だった。

 自身の命が、たった一人の少女の気分次第で消え失せる可能性を考えて、成葉は久しく本物の恐怖を覚えた。しかし、小秋はくすくすという嬌笑で、傘士の青年に宿る恐れと当惑を甘く上塗りした。小秋は乱れる呼吸から抽出したような甘噛みと、傷をいたわる姿にも似た短いキスを何回も繰り返す。


「……小秋さんは何が欲しいのですか?」


 その問いかけに小秋は答えず、抱きしめる腕の力を強めた。


「貴方ご自身ですわ」

「それはお聞きしました。質問を変えましょう。今回のこちらへの訪問で私に何を求めていたのです?」

「それぐらいはご自分でお考えください」

「手厳しいですね。血ではないのは確実かと。もしそうなら、とっくにこの部屋は真っ赤に染まっているでしょうから」

「正解ですが……わたくしが常々、成葉様の血液を飲みたいと考えているのも認めなければならない事実です」

「本物の吸血鬼にでもなったおつもりで?それはどうか、次回の経口輸血までご辛抱を」

「いいえ、待てませんわ。わたくし食いしん坊ですもの」

「……今回の目的は血ではないとおっしゃったのに?」

「もう……成葉様ったら、そこから先もわたくしに言わせるおつもりですの?まったく仕方のない人ですのね」


 小秋は身体を離し、媚態が混ざった微笑みを成葉に向けた。彼女の吸血鬼らしい青い瞳は、見る者をまるごと征服する力があった。


「女のわたくしが、殿方のお部屋に独りで訪れているのです。愛の表明としての口づけも。“あなた様を愛することにのみ生き甲斐を感じております者に憐れみをおかけください”……。これでわたくしの想いが本気であると信じてくださいますか?」


 小秋は成葉の胸部に触れると、彼から取り上げていたブランデル社のバッジを元あった制服の位置へと戻した。


「恋に恋するお年頃、だなんて言われて受け流されてしまっては、わたくし……きっと立ち直れる気がしませんもの」

「真剣に対応してほしかったから、このようなことをされたのですか」

「ようやくお分かりになって?」


 笑っているはずの小秋の目元に、薄らと悲哀の涙がたまっているのが見えた。

 成葉は胸が痛んだ。担当中の日々を思い返してみると、小秋のことを客であるばかりか、自分より何個も年下で、身体的に脆いだけの少女として接していた節があった。傘士の職業柄とはいえ、彼女の身体のことしか念頭に置いていなかったのも、そう強くは否定できない。

 それだけではない。お嬢様扱いされることに嫌気がさしている小秋をどこまで普通の女の子として見てあげていただろうか。本という趣味繋がりで談笑こそしても、結局は他人行儀な接し方を一貫することに固執していた。今だってそのことに変わりはない。

 小秋の日常の言葉遣いや態度で、向けられる恋心こそ感じ取っていたが、今日まで蓋をしていたのも覆せない真実である。他にもきっと、こちらには自覚がないだけで、他の客と比べて「津吹家の人間」として接し、不当な優遇を小秋へ無理に与えていたのかもしれない──。成葉は、そう悔やんだ。


「身勝手な行いであったのは重々承知しておりますわ。ですが、わたくしは成葉様に対して無理強いは一度もしていません。命令こそしましたが、それを受け入れたのはあくまでも貴方の意思ですよ。心底わたくしが疎ましいのでしたら、無視するなり突き放すなりいくらでも出来たはずですもの……」


 成葉は憮然ぶぜんとした表情で、小秋の話を聞いた。客の少女への不満からではない。自分自身の至らなさによるものだった。

 小秋を異性として好いている自分がいるのは、成葉も心の内で頷かざるを得なかった。小秋の再三のアプローチにも気づいていないわけがなかった。

 とはいえ、小秋のこの誘いを受け入れるわけにもいかなかった。成葉は微かに歯を食いしばり、首を横に振る。


「私は傘士で、小秋さんはお客様です。どうかこれっきり諦めてください」

「……どうしてそう頑固なのですか。お認めになっても何も問題はありませんのに。成葉様は、わたくしのことが好きなはずですわ。そうなるはずなのです。だって、わたくし、そのために……」


 小秋は呻吟しんぎんした声で言った。目を背けたくなるまでの、悲痛な眼差しを成葉に投げる。あたかも全ての予測が狂い、路頭に迷ったかのようにも見える。この時ばかりは、日頃は精神的に成熟している小秋からも、十六という年齢に見合った不安定さが読み取れた。

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