30話
「それは私の方が聞きたいですね」
小秋の焦りが見て取れると、成葉は間髪入れず、詰問した。
「私は一度も、小秋さんの義足を作るよう支社長に上申した覚えはありません。なのに……あなたはさっき、そして以前にも私に感謝を示したじゃないですか。私が頑固な支社長を説得したというありもしない事実を……支社長から国際電話で一報をいただいたと。一体これは何なんです?」
「あら……。ええと、そうですわね……」
小秋は可憐な仕草で横髪を耳にかけたが、目は少したりとも笑っていなかった。青い眼には影が差している。
「成葉様は義足の件について、わたくしのお父様には本当に何もおっしゃっていないのですか?」
「そうです。あなたの発言とこの事実は、明らかに矛盾しているとしか思えないのですが──」
「では貴方はあの約束を破ったのですね。わたくしとの約束を」
小秋は感傷で満ちた顔を向けた。
悲壮な少女の声に、成葉は目を伏せかける。
「否定はしません」
約束。義足を作る意思のない津吹を説得するという、出会った当初に交わしたものだ。
小秋の発言を追及している立場だったが、約束の件を指摘されると、成葉も罪悪感に苛まれた。彼女との取り決めを反故にしたのは間違いなかったからである。
「事情があったのです。理由は一向に分かりませんが、支社長が私に、これ以上こちらに何も言うな……とおっしゃられたのです。小秋さんや義足の話題を振る度に、あの方は私との会話を
「何かしらの事情で許されるのでしたら、わたくしにだって事情がありますわ」
「どのような?」
「いかなる手を使ってでも、貴方を手に入れたいというものですよ」
「そうですか。小秋さん、あなたはとんでもない……悪女ですね」
ごまかすように成葉は微苦笑するが、小秋は暗い視線を保ったままだった。
小秋は、手のひらを下にして、白い右手をテーブル上に差し出した。小ぶりの貝殻のように綺麗な爪が五つ、成葉に向けられる。その手はするりと、テーブルを分断する動きで真ん中を横切った。妖しい白の軌跡。成葉は目を上げる。小秋は無表情だった。
「成葉様。話は少し変わるのですが、前回の宿題……もう解けましたか?」
「吸血鬼が川を渡れないのは何故か、でしたっけ。皆目見当もつきませんが」
「では今から答えを教えて差しあげますわ」
「お待ちください。それとこの件に何の関係が?」
「聞けば分かりますわ」
小秋はもう一度、手を動かした。
「吸血鬼が川を渡れない理由は、吸血鬼が人間の……敵だからですわ」
「敵?」
「はい。キリスト教を元にした吸血鬼像は、前にもお話ししたように、発祥地の東欧やバルカン諸島ではなくヨーロッパで発達しました。そしてヨーロッパとは戦争の歴史で形作られた地域ですわ」
「それは知っていますが……」
小秋が何を語る気なのかは不明だったが、成葉は一応、耳を傾けることにした。
「自分たちのコミュニティには属しない他者を排撃することで、自分たちの正当性を高めて発展してきた……そういう悲惨な歴史を持っている土地ですの。ですから、吸血鬼を悪魔と同一視し、排除すべき存在として多くの人が信じたのは自然なことなのですわ。神とは逆の形で……嫌悪という姿勢で部外者という敵を……吸血鬼を信仰したのです」
「……よく分かりません」
「成葉様……吸血鬼についてもうひとつ、このような伝承を聞いたことはありますか?吸血鬼は鏡に映らない、というお話です。ええ、映るわけがないのです。何故なら吸血鬼というのが人間の敵である以上、それは存在しない怪物なのですから」
「存在しない怪物?吸血鬼は人間の心に巣食う幻の敵だということで……?かのドッペルゲンガーみたいな」
「おっしゃる通りです。戦争に正しいものなんてありませんから。敵を見ようとしても目に映るのは武器を持った自分だけ……吸血鬼が鏡に映らないという伝承は、なにも吸血鬼が霊的存在であることの
白く、肉付きの良い小秋の美しい手が、テーブルをまた二つに分けるように一直線に踊った。この話の「川」を描いてるつもりなのだろう。
傘士の青年は、向かい合って座る吸血鬼の少女との間に、果てない距離を覚えた。
「先ほども言ったように、ヨーロッパは他者を
小秋はこほんと咳をして、更に続ける。
「“川一筋で仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である”……パスカルもこう記しておりますもの」
「なるほど……要するに、小秋さんはこうお考えなのですね?吸血鬼は人間の心の中にだけいる、仮想の、架空の、存在しない敵であり……同時にそれは猜疑心に満ちた自分たちの虚像に過ぎないと。だから鏡にも映らないし、川を越えられない。いない敵が映るわけもないし、攻めてくるわけがないですからね」
「ええ、そうですわ。そう解釈すると辻褄が合いますわ。吸血鬼になる方法に溺れて死ぬことがありますが、あれは安易に川を超えて他者のコミュニティへ侵入しないように……という警告のようなものだとわたくしは考えております。溺れてしまい、川の向こう側についてしまったが最後、少なくとも善良な人間として元のコミュニティに帰ることは不可能になりますから」
「そうでしたか……面白い話を聞けて満足です。それで、この吸血鬼伝承の分析と、今回の私たちの件にどういった関係が?」
「敵になりたくないのです」
「はい?」
「わたくし……成葉様の敵にはなりたくないのです」
「敵……」
吸血鬼は、敵。
成葉は小秋の吸血鬼の解釈を口の中で繰り返した。
「わたくしのこれまでの言動に不可解な点があるのは……認めますわ。ご不快にさせてしまったようでしたら、本当に申し訳ございません」
小秋は「川」をなぞる動きを止めると、それを越えて、成葉の方へと右手をやった。
触れられ、指が絡んでくる。成葉は小秋の手の強い感触をひしひしと覚えた。
「貴方にはまだ明かしていないことも多々あります。けれど、どうかわたくしを信頼してください。これだけははっきりさせていただきます──わたくし、成葉様を真に愛しているんです……。この世の誰よりも大切に想っているのですわ」
「……そうですか」
成葉は姿勢を正した。
「いいですか……小秋さん?私は傘士です。あなたとは業務上の関係なのです。お客様のこういった形の申し出にお応えすることは絶対に出来ません。大変嬉しいのですが、どうかそのお気持ちだけを受け取らせてください」
「本日、成葉様のお仕事はお休みだと思うのですが?」
「担当中のお客様との食事は仕事に含まれます。現にこうして私は制服も着用しています」
腕を広げ、成葉は自身の格好を小秋に主張した。ブランデル社の制服で、そば屋に行った時のままだ。休日の外出を含めて、彼は普段から気軽に外に出るには、主にこの服装しかなかった。
「お休みの日も制服を着ていらっしゃるんですもの、れっきとした公私混同ですわ……」
「良いことです。その結果、こうして一人のお客様との関係がこじれずに済みそうなのですし」
「ひどい人ですこと……。それともマニュアルにでも、そう書いてあるのですか?」
「マニュアル?」
「担当中のお客様に、万一、個人的な恋情を示されてしまった時の……対応方法の類です」
小秋は少しも落ち込む様子を見せず、普通に会話を続行してくる。たった今、自身が拒まれた現実を見聞きしていなかったかのように。
「そういうものはありません。小秋さん。これは私の言葉です」
「あら、ふふ。そうですか。ですが、成葉様は本当にそれで良いのですの?」
小秋がくすりと笑った。冷ややかながらも
「貴方がわたくしに、決して小さくはない想いを抱いていらっしゃることは手に取るように分かっていますわ。その上で貴方は、わたくしを欲してはくださいませんの?」
「私は……傘士ですので」
苦し紛れにそう呟いたが、成葉は
だがこれは、一体誰に向けて誓ったものなのだろうか。成葉はこの時、それが分からなくなった。
「それはとてもお辛いことですね……。でしたら、こうしましょう?」
そう言って、小秋は成葉の手を離した。
次に小秋の手は、成葉の制服の胸元にあるブランデル社のバッジに伸びた。青年が止めるよりも先に、吸血鬼の少女が満足気に微笑む方が早かった。
バッジは配血企業の社員である証明の意味合いを持つ大切な装備だ。それを小秋から奪い取られたのである。
「何のつもりですか?小秋さん、お返しください」
「お断りしますわ」
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