29話
「好きか嫌いかはよく分かりません。フィクション上の悪女であろうと、現実の悪女であろうと……結局、私とは無関係ですし」
成葉は肩をすくめる。
「それに、悪女から直接危害を受けた当人と、傍観する第三者とでは……受ける印象も大分違います。小説の登場人物とその読者が抱く心情がまるで違うように」
「貴方がおっしゃることは至極もっともですわ。でも想像で良いんです。たとえば……わたくしが救いようのないほど悪い女だとしたらどうでしょう?」
青い瞳の中で揺らめく光が強く
フォークを離した小秋の白く細い手が、正座している成葉の太ももの上に忍び寄る。雪よりも厳かな沈黙が訪れた。二人は互いのこと以外、視界には入れていない。
「どんな手を使ってでも殿方の全てを奪い取ってしまいたいと願えば、どんな女も立派な悪女ですわ」
触れた小秋の指の腹が熱っぽく動いた。彼女の体温を感じる。じわりと女の熱が侵食してくる。
「わたくしがもしそんな女だとしたら……成葉様は、どうされますか」
「どうするもなにも……」
小秋からじろりと本心を覗き込まれているように思えて、成葉は言い
「ご契約が続く以上、いかなる事態があろうとも、私は小秋さんの担当です。そしてお客様が望まれるよう最善を尽くすのが傘士の務めです」
「……貴方が欲しい。わたくしがそう言えば、応じてくださるのですか」
「傘士として対応させていただきます」
「逃げるのがお上手ですこと」
小秋は動かしていた手を止めるなり、ぱっと宙に上げ、青年の片頬に添えた。
彼女のそれはまるで、吸血鬼が餌とする人間の血を吸うべく、頸動脈にかぶりつこうとする前触れのような動作だった。視線を外そうにも、首を止められて叶わない。
「……成葉様」
「なんですか」
「既にお気づきだとは思いますが……わたくし、貴方が好きですわ」
挑戦的な好奇心に満ちた猫のような目を向けながら、小秋はなだらかに言った。
「いつもよりおかしなご冗談をおっしゃられますね」
「あしらわないでくださいませ。これは嘘偽りのない心の底からの真意でございます」
「“偽りの心を隠すのは、偽りの顔しかない”と昔からよく言います」
「どちらも偽っているのはわたくしではなくて、成葉様かと思いますけれど」
「私が?まさか」
「そうでしょうか。だって、成葉様もわたくしのことが気になっていらっしゃるのでしょう?」
「……そのようなことは」
「隠さなくてもよろしいのですのに。恥ずかしがり屋さんですのね。それに、貴方がわたくしを想う以上に、わたくしは貴方のことをお慕いしておりますわ。本当に恋慕しているのです」
驚きから、成葉は二十秒ほど押し黙った。
それは小秋がそうした感情を自分に差し向けていることではなく、彼女が好意を直接打ち明けてきたことに対する衝撃だった。
「ありがとうございます」
成葉は真剣な声で返した。
仕事柄、異性に疎いとはいえ、なにも青年は暑さを知らぬ純氷のように鈍感な人間ではなかった。リハビリの最中、客の小秋が愛想笑いにしては必要以上に振る舞う笑顔や、過度に柔和な話し方から、彼女の気持ちには薄々察しがついていた。一方で、彼も相手に惹かれていた。
その上で、今まで知らないふりをすることに徹していた。互いの立場を思って何も言うべきではないと思ったからだ。
リハビリの日々は早くも過ぎ去ってしまい、義足の契約が完了してしまった。二人の仲を繋げるものは血液配送のみとなった。だが、会える機会が激減した現状を
自分が小秋に会いたいと願っていたように、彼女の方もこちらのことを求めていたのだった。今日の突然の来訪もそのためだろう。
けれど──。成葉は唾を飲んだ。
「小秋さんのお気持ちだけ、受け取──」
その言葉には聞く耳を持たず、小秋の顔が近づいてくる。熟した果肉が割けるような小さな音が部屋に響いた。
少女の弾力のある唇が成葉の頬に優しく触れたのだ。
離れようとした成葉だったが、無理に小秋を引き剥がせなかった。この狭い部屋の中で彼女の身体を突き放すことを意味していたからだ。近くには本棚がある。力づくで距離をとることは可能でも、怪我に繋がりかねない。
「……大人しいのですね、成葉様」
小秋は唇を離して、艶っぽく微笑んだ。
一方的な接吻が終わる直前、小秋の鋭い八重歯は僅かに皮膚を噛むように立った感覚があった。
「抵抗のしようが……ありませんでしたので」
「そうでしたね。二人っきりでいるのですから、貴方が気にされていた部屋の狭さだって見事に美徳となってくれましたわ」
「今日は何のご用でこちらに?」
「もちろん貴方とお茶を楽しみたくて──」
「本当の用件をお聞きしているのです」
冷静な口ぶりで問うが、成葉は頬に残った小秋の温かさに戸惑っていた。彼女の息と唾液の痕跡。その場に甘さと嫌悪が同じぐらいに入り交じっている。
小秋は満足した様子で、鷹揚に頷く。
「……わたくしの屋敷にお呼びするより、ご自宅の方なら、成葉様も普段よりも一段とリラックスしてくださると思ったんですの」
「そうとも知らず、私はまんまとあなたを部屋に上げてしまったわけですか……思ったよりも卑怯な人ですね、小秋さんって」
「あらあら、今ごろお気づきで?成葉様ったら、おかしなことをお聞きになるんですのね。わたくしが欲しいのはずっと以前から貴方ご自身だけでしたのに」
低い小秋の声に、成葉は寒気が立った。
「小秋さんともあろうお方がご趣味の悪い……」
成葉は腰を上げてから本棚の方に移動する。座り疲れたから少し立ったような自然な感じを演じたが、逃げたのは一目瞭然だった。
「そうでもありませんよ?わたくし、こう見えても趣味の良さには自信がありますわ」
想い人に習い、小秋も立ち上がった。ぎしりと義足が金属音を上げて軋む。
「言葉が足りなかったようですね。男の、です」
「違いますわ。わたくし、殿方を見る目は我ながら良い目を持っていると思っております」
「左様で?少なくともこの数ヶ月、小秋さんが私以外の男を見てきたようには思えませんがね」
近寄ってくる小秋に
「異性の価値は相対評価では決まりませんわ。もし仮にそうだとするなら、誰もが恋人をつくれないですもの。異性は本と同じです」
「本と?」
「そうです。たとえ生まれてから一冊も本を読んだことがない人でも、ドストエフスキーの『白痴』は含蓄のある傑作だと感じられるでしょう……?これと同じことです。たとえわたくしが貴方の他に殿方を一人も知らなくても、貴方を素晴らしい殿方だと見るのはおかしいことではございません」
「文字や本にまったく素養のない人が、いきなりロシア文学を読み通すのは困難かと思いますけど」
歩いてくる小秋をすり抜け、成葉はテーブルの方へと戻った。
それに続くように、小秋は文庫本が並ぶ本棚を一瞥してから席に着いた。今度は座布団が敷かれていない、想い人と向かい側の位置に彼女は座った。
「そうだとしても示唆を含む作品であることは感じられるはずですわ……あの、成葉様?」
「なんですか」
「もしかして、怒っていらっしゃいますの?」
「違うと言うと嘘になりますね」
「……はしたない真似をしたわたくしに失望したのですね」
「そうじゃありません」
成葉はため息をついた。
「小秋さんのお考えが分からないことに腹が立っているのです」
「あら……わたくしの?」
「支社長が、あなたのお父様がお作りになる義足の件……覚えておりますか?私が支社長を説得して、やっとのことで話がまとまったあの件です」
「そちらの件は大変感謝していますが……あの、それがどうかされましたの?」
「そこです」
言質を取った、とでも言わんばかりに成葉は声を大きくした。
「これまで黙っていましたが……私は支社長に、小秋さんの義足制作を一度たりとも交渉していません」
「……どういうことですの?」
穏やかだった小秋の表情がみるみるうちに固くなった。
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