28話

「喜んで」


 来訪してきた小秋を快く自宅に入れた。扉が閉まると、彼女との距離が縮まる。

 成葉はそこから離れた。玄関先で履いていた草履から足を退ける。小秋が外套を外すスペースを確保する必要があったためだが、それよりも、同じ空間にいる異性に対して意識的になることを避ける意味合いが大きかった。


「無茶をされましたね。太陽光が雲で遮られているとはいえ、昼間であることに変わりはありません。まさかとは思いますが、ここまではおひとりで?」

「わたくしの家の者に頼んで、車でまいりましたわ」


 そう言って、小秋は耐雪外套のマントを外した。車で来たのは確からしい。その証拠に、彼女はさほど濡れていなかった。瘴雨性の微生物がもたらす赤色も全く見当たらない。外の雪は安全そうだ。成葉は胸を撫で下ろす。


「そうでしたか。運転手の方は今はどちらに?このまま外で待っていてもらうのは、少々気が引けますが」

「大丈夫ですわ」


 外套を脱ぎ終わった小秋は、携帯端末をポーチから取り出すと、そそくさと画面に指を這わせた。


「たった今、使用人には帰るよう、わたくしからメールで連絡を入れましたから。帰る時に、またこちらまで来るようお願いするつもりです。これならば、成葉様がご心配されるようなことにはなりませんよね?」

「……そうですね。小秋さんがおひとりで外を移動されることがないのなら、私としても一安心です」

「うふふ。お父様みたいに心配性なんですから、成葉様は。いくらわたくしが吸血鬼だからって──」


 小秋は、丁寧に外套を畳んで三和土たたきの上に置いた。たとえ瘴雨性の物質が付着してなくとも、使用後の外套は玄関に留めるのが礼儀である。令嬢の少女は、きちんと心得ているようだ。


「たまには、自分から外に出てみたい時もありますわ。普段は貴方のことをひとり寂しく待つだけなんですもの」

「……運転手の方は、小秋さんと同じ血液型で?」

「違ったと思いますが。それがどうかされましたか」

「危ないですね。万一、送り迎えの際に事故でも起きた場合、その時は誰が小秋さんに経口輸血をさせるのですか」

「あら」


 僅かに目を見開いて、小秋は素っ頓狂な声を上げた。


「成葉様のおっしゃる通りですね。わたくしったら……ごめんなさい。血については失念しておりました」

「少しはご自分のお立場をお考えください。今回のお帰りの際には私がお送りさせていただきます」

「頼もしい限りですわ。けれど、貴方にお気を遣わせてしまったみたいで心苦しいです」

「お客様の送迎も仕事の内です。あ……小秋さん。遠慮せずに、どうぞ上がってください」


 すっかり立ち話になっていた。それに気づいて、成葉は来客に入室を促した。義足の件で屋敷に通っていた頃の二人の関係とは、真逆の構図だ。


「お邪魔します」


 小秋は軽く一礼してから、靴を脱ぐ。彼女の足が床に触れると微小な金属の音がした。義足の足音だ。

 客の少女を横目に、成葉は台所で湯を沸かし、茶の準備を始めた。寮は一人暮らし用の造りで、小さな台所が玄関から丸見えのところにある。

 戸棚に手を忍ばせ、紅茶の茶葉の缶を持ち出す。それは、以前に小秋から贈られた高価な代物だ。名古屋に遊びに行った際、帰りに立ち寄った茶葉の専門店で、彼女から今日のお礼だと渡された。もったいなくて手をつけていなかったのだ。


「ただ……ここは私のような独り者の傘士の巣です」


 茶葉の缶の封を切ると、香り高い茶の匂いが鼻腔をついた。取っておいて良かった、と成葉は思った。小秋の口に合うだけの茶を常に自室に置いておけるほど、傘士の給料は高くない。


「小秋さんのような女性がお茶を飲まれても、そう気は弾まないかと思います。何卒ご理解を」

「……成葉様のおそばにいられるのでしたら、わたくしはどこだって楽しいですわ」

「私がお相手になれるのは、せいぜい本と仕事の話ぐらいですが」

「充分すぎますわ。わたくし、貴方とご一緒している時に退屈を感じたことはありませんもの」

「それは嬉しいお言葉ですね」


 受け答えしながら、成葉は茶葉と湯を適量入れたティーポットと、ふたつのカップを盆に載せる。

 このティーセットは、寮に住み始めた頃、来客用にと津吹から譲ってもらったものだ。まさか彼の娘を相手に披露するとは、成葉も思いもよらない展開だった。茶の準備が整うと、二人は奥の部屋に入った。一人用のテーブルと無数の本棚、簡素なベッドだけが置かれた傘士の青年の住まいである。

 小秋はきょろきょろと室内を見渡した。令嬢の彼女には狭苦しい空間なのだろう。それにこのわびしい家具である。人によっては、若さや遊びの余裕は感じられず、質素で寒々しい部屋に見えるのも無理はない。

 成葉は、盆上のティーセットをテーブル上に静かに移した。客に気を遣われるよりも先に苦笑する。


「狭くてすみません。ここ、本を読むか寝るだけの住まいなので……」

「ここが成葉様のお部屋なのですか」


 出された座布団に腰を下ろして、紅茶が注がれたカップを手にしても、小秋はありったけの興味を放出するように、空間の至る所を見回した。

 成葉の部屋は、床や本棚の上に無造作に積まれている義肢のカタログ本や、職場から持ってきた試作の義足などがひしめき合っている。本棚は、津吹からもらった文学作品の書籍で埋まっている。


「とっても素敵ですわ」


 小秋はぽつりと自然な口調で言った。


「傘士さんの工房、という感じですね。趣味の良い本たちも並んでいることですし……。他人様のお家というのは大抵は緊張しますが、わたくし今はそうでもありませんわ。ここは心が落ち着いていられる空間なのでしょうね」


 成葉は返事に困った。褒められるとは思わなかったのだ。会釈し、紅茶を飲む。

 手を出せば触れられる距離に小秋が座っていた。彼女は美しい姿勢で、超然とそこにいる。賛辞を送ったこの空間に、初めから風景の一部として存在していた人形のように。椅子を使わずに、小秋が座っている姿を初めて目にした。

 凛として隙がないはずなのに、無防備。それが今の小秋から受けた印象だった。


「……小秋さん。足は辛くありませんか?崩していただいても結構ですよ」

「お気遣いありがとうございます、成葉様。実は正座が少し辛かったんですの」

「義足ですし仕方ありませんよ。私はタルトを切り分けてきますので、ごゆっくり」

「あら、そうでした……それぐらい、わたくしがやりますわ。台所をお借りしても?」

「そうおっしゃらず。今日の来客は小秋さんの方なのですから、ここは私が。何かお好きな本でも読みながらお待ちください」

「……なんだかわたくしの方が甘えてしまってばかりで、すみません」

「気にしないでください。これぐらいのこと」


 いつものことです、という一言は直前のところで、成葉は腹に引っ込めた。小秋の世話をできることは、成葉はむしろ甲斐甲斐かいがいしいとさえ感じている。客の役に立ってこその傘士なのだ。

 いちごタルトの入った紙箱を手にすると、成葉は立ち上がった。台所のある玄関の方と青年の自室を分かつのは一枚の室内扉だけで、互いに会話はできる。


「……よく触った形跡があるのは、オースティンの『高慢と偏見』とブロンテ長女の『ジェーン・エア』ですね。成葉様は、西洋文学の中でもとりわけ英文学がお好きで?」


 自室にて小秋が動く気配がした。どうやら本棚を漁っているみたいである。ちょうど今、仕事の合間に読み直している本を言い当てられた。


「私はブランデル社の社員ですからね」


 社名の元になったのは、近代医学史で初めて人間同士の輸血を行ったイギリス人だ。


「関係ありませんわ」


 小秋はくすりと笑った。


「冗談ですよ。たしか……小秋さんは、フランス文学の方が好みでしたっけ?」

「ええ、そうですわ」


 会話をしながら作業する。一旦、いちごタルトをまな板に移動させてから、成葉はそれを八等分に切り分ける。ケーキ屋で食べた時のサイズだ。

 ざくり、と固いタルトを切断する。上部にふんだんに使用されたいちごの果実が、赤くねっとりとした甘いソースと絡まって、包丁にこびり付いた。それは鮮血を帯びた刃物の様相に近い。フォークを食器棚から出し、タルトと合わせて皿に載せる。それを持って成葉は自室に戻った。本棚の前を小秋が占拠していた。彼女は何冊も本を物色している。


「切り分けましたよ」


 そう後ろから声をかけると、小秋は薄く笑い返した。

 二人は正方形のテーブルを囲んで座った。小秋はタルトには目もくれずに本棚を見上げていたが、成葉が腰を下ろして落ち着いたのを悟ると、視線を戻してくる。


「本の話の続きですが、わたくしの好きな作品……仏文学の中でもとりわけお気に入りなのが、デュマの『椿姫』やプレヴォーの『マノン・レスコー』ですわ」

「それって……悪女ファム・ファタール文学の?」


 成葉はフォークを持つ手を止めた。

 今しがた気がついた。いつもより小秋が近い位置にいる。談笑や食事の席では、対面して座るのが二人にとっての通例だったが、今回は違う。小秋の二つの青い瞳は、真正面からではなく斜め横に浮かんでいた。彼女用に出した座布団の場所が変わっているのだ。


「はい……。素敵な殿方を丸め込んで、自分のモノにしたかと思えば、気分次第であっけなく捨ててしまう、そういう悪い女のお話ですわ」

「これはまた……趣味が良いのか悪いのか、判別に困るものですね。どのみち創作物ではありますが」

「フィクションですから良いのです。現実と虚構の吸血鬼が異なっているのと同じように」


 小秋はひと口、真っ赤なタルトを食べた。


「成葉様は……悪い女は嫌い?」

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