25話

 傘士の青年と吸血鬼の少女は、瘴雨が降る中を歩いた。駐車場に続く道にはぽつぽつと街灯が佇立ちょりつしており、二人の行き先を照らしていた。

 白色のレンガ状のブロックが敷き詰められたその道は、朝とは違って、瘴雨のせいで赤く染まっている。血を満たしたバケツをひっくり返したかのような光景だった。

 小秋が転ばぬよう、不本意ではあったが、成葉は彼女の手を握っていた。

 互いに耐雨グローブを装着しているので、小秋の手の柔らかさは分からないだろうと思っていたが、少女らしい感触は成葉の手に伝わった。

 暗い空から注がれる、蕭々しょうしょうたる雨。薄闇に閉ざされた一本道には、二人を除いて誰もいない。外套を打つ雨音。二人分の足音。耳をすますと、相手の呼吸音が耳に届いた。

 どぎまぎとした緊張を隠すように、成葉は言葉を探す。


「“今夜は雨だな”」


 成葉は低い声でそう言った。

 隣にいた小秋は、微かに口角を上げる。


「“血の雨よ”」


 『マクベス』のセリフのやり取り。

 成葉は隣からの視線に気づき、顔を向ける。小秋は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。吸血鬼の彼女が着る外套は、返り血を浴びたような風貌と化していたが、それは成葉も同じだ。


「成葉様。車に着きましたら、それからはどうされますの?」

「このまま乗ります」

「外套を着用したまま……ですの?」

「はい。トランクに座席を型どったシートがあるので、シートで車内を防護した後に私たちが乗る手筈です」


 配血企業の社用車には、外出時のこういったケースを想定して、耐雨用の座席シートが常備されている。外套に付着した瘴雨で車内を汚さない目的があり、使用後は破棄すると成葉は補足した。

 その説明を聞き、小秋は被っているフード部を上下させるほど感服したように頷いた。


「色々と雨の対策がございますのね」

「お客様をお守りすることはもちろんですが、社員が瘴雨に濡れてもいけませんので」


 前年度、国が行った調査によれば、新たに吸血鬼となってしまった人口のうち、およそ三割以上が配血企業に属する人間だという。

 彼らの大半は業務中だったのだろう。非情な話だが、吸血鬼は献血ができない以上、解雇されたに違いない。


「徹底しても、雨に濡れては全て水の泡です。私の同期も何人かが雨にやられました。足の切除が遅れて、瘴雨の微生物に全身を蝕まれてしまって死んだ奴もいます……。いずれ私も──」

「縁起でもないことをおっしゃらないでください」


 小秋から手を握られる力が強まった。


「わたくし、嫌ですから。貴方が吸血鬼になって、わたくしの元に訪ねてくることがなくなるだなんて……絶対に嫌ですわ」

「……大丈夫ですよ。小秋さんがそう不安になられることはありません。それに、既に私の仕事はほとんど終わったようなものです」


 成葉は手を握り返した。ごわごわとした登山用みたいな耐雨グローブが擦れ合う。


「終わったとは……どういうことですの?」

「あなたの義足のことです」

「義足……」


 ゆっくりと歩きながら、小秋は身体の一部となった人工の左足を見下ろした。


「もうおひとりでも大丈夫でしょう?小秋さんは立派に歩けています。今日一日でそれが分かりました」

「……そうでしたの」

「はい。したがって、傘士として小秋さんにお仕えする私の主目的は完遂しつつあるのです──あとは主治医の先生に、最終適合の認可をいただければ……」

「わたくしとはそこで終わり──ということなのですか?」


 小秋が寂しそうに眉を八の字にするので、成葉はかぶりを振った。


「二ヶ月ごとの輸血の際には、これまでと変わらず私がお屋敷に訪問いたしますよ」

「本当ですの?」


 仄かに小秋の顔に笑みが蘇った。


「嘘はつきません」

「……そうでしたね。貴方はわたくしの傘士さんなのですから、当然ですね。でもそれなら尚のこと、成葉様が吸血鬼になってしまわれては……わたくし困ってしまいますわ」


 小秋は、小石を蹴る要領で、水たまりをばしゃりと左足で弾いた。


「足の繋がりがなくなっては、残すは血液の繋がりだけですもの。わたくしたちを結ぶ絆は」

「承知しております……」


 成葉は曖昧に返した。必ずしも、吸血鬼化しないという約束はできない。外では何があるか予知できないからだ。彼の立場上の発言の不自由さを感じ取ったのか、小秋は静かに笑った。

 駐車場が見えてきたが、車に着くまいと、二人の歩調はどちらからともなく遅くなっていた。雨に打たれるこの場でしか話せないことがある。両者とも、心の内でそう読み取っていたのかもしれなかった。


「……ねぇ、成葉様。イルカの水槽の前でお話したことを覚えていらっしゃいますか?」

「吸血鬼になる方法について、でしたか」

「そうですわ。あの時にもお話ししましたが……不思議で奇妙な話ですよね。水に溺れて死んでしまった人は吸血鬼になるそうですが、現実世界ではそれが雨に打たれることだなんて──」


 そこで言葉を切って、小秋は立ち止まった。彼女と手を繋いでいた成葉は必然的にそれに従う。

 前方には、地表に敷かれたブロック建材の窪みに溜まって、流されるままに形成されている雨の小川があった。大股に歩けば突破できそうな水の流れだ。耐雨用の長靴を履いているので濡れないだろうが、小秋は肩をすくめるようにすると、その川を踏み越えることなく迂回うかいを始める。


「吸血鬼は川を渡れませんわ」


 小秋は舌を出すように、茶目っ気のある苦笑いを浮かべた。

 道は駐車場へと続いているが、小秋が雨の川を執拗に避けるので、かなり遠回りになる。上空の雨雲は風に連れ去られている。気象観測課が教えてくれたように、雲は南東方面へ行くようだった。

 これ以上は雨が強まらないと感じて、成葉は小秋の会話に乗ることにした。


「あの話の続きをしようという訳ですか」

「イルカにお邪魔されてしまいましたが、ここなら二人っきりですもの」

「では、小秋さんのお考えをお聞かせ願えますか?私にはどうも分からないのです。川の上を渡れない、という伝承が昔から吸血鬼にあった理由が。溺れて吸血鬼となるのもそうですが」


 小秋は川の付近で、また立ち止まり、義足のつま先を川に向ける。


「紐解けば実に簡単なものですよ。わたくしがご説明しましょう。吸血鬼の歴史は、間違いなくヨーロッパに繋がっております。はじめはバルカン諸島や東欧で、民間の伝承に過ぎなかった──土葬の死体が蘇るという話が、同じく土葬だった西洋に伝わってから生まれたのです」


 これは成葉も知っていた。津吹からもらった吸血鬼の小説のまえがきにあった、日本語訳者による解説に目を通していたからだ。

 新プラトン主義と呼ばれる考え方である。人間の本体は魂であり、肉体は単なる器という後の哲学者デカルトにも通ずる考えだ。いずれ来る「復活」に備えて、魂の器たる肉体を保持しておかなければならないという趣旨として有名である。ヨーロッパではこの考えが浸透し、近代までは火葬が全面的には受け入れられなかった。


「当時、自分たちの権威をなんとか保とうとしていた教会は、これに食いつきました。伝承に過ぎない架空の存在を……自分たちの敵であると見なしたのですわ」

「敵……。それは一体、何のために?」

「中世の魔女狩りの失敗で、最悪なまでに信頼が落ちぶれていた教会の存在意義を再建したかったのでしょう……。だから今度は、吸血鬼という敵がおり、彼らから民衆を守る自分たちがいる──そう思わせたかったのですわ。ですから吸血鬼というフィクションは、当時の封建的な西洋社会における敵そのものであり、教会が生み出した仮想敵なのですよ。吸血鬼が聖水や十字架を嫌うという設定は、昔から敵であった悪魔と吸血鬼を同一視したからに過ぎないと……わたくしはそう考えております」


 吸血鬼ひとつにここまでの考察が練れるとは。小秋は凄まじい文学少女だ、と成葉は感心した。それでも、まだ「川を渡れない」と「溺死すると吸血鬼になる」という古典的な設定の解説には至っていない。

 小秋は雨の川沿いに向けていた足を戻し、川の横を緩慢に歩き出した。成葉は彼女に歩調を合わせる。


「血を吸うというイメージも同じですわ。昔の日本では死体や血はけがれの象徴でしたが、ヨーロッパでは違いました。血は命の源泉であり、同時に命そのものだったのです……吸血鬼がそれを勝手に奪うとなれば、人々は吸血鬼を敵としてしか見れなくなります」

「血は命、ですか」


 成葉は小秋の言葉を繰り返した。


「ええ、そうなのですわ。瀉血しゃけつという、悪い血を抜いて健康を取り戻すというデタラメな療法が二千年以上もヨーロッパで行われていたというのは、その事実をつぶさに証明しておりますもの」

「瀉血……」


 雨に全身をつつかれる成葉は、ずっと以前に津吹から耳に挟んだ話が出てきた。


「たしか、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンは瀉血で亡くなったという話がありましたね。おまけにあの国に瀉血を広めた医師が、独立宣言の署名者の一人……なんて皮肉な話も」


 小秋は「そうみたいですね」と返事する。


「お分かりになりました?成葉様。吸血鬼がなぜ──」

「川を渡れないのか、ですか。いいえ。それはまったく分かりませんが」

「あら……それなら、あのなぞなぞと同じく宿題にして差し上げますわ」

「この難問を?いや、ご勘弁を」


 成葉は身振り手振りで参ったと伝えた。小秋は口元を手で覆ってから笑う。


「そうおっしゃらずに。貴方には考える時間がいくらでもありますわ。わたくしたちが会える機会だって、今後もあるんですから」

「そうですけど……」


 成葉は、自分の胸元を一瞥した。外套の外側に付いているブランデル社のマークたるホワイトペリカンのバッジは、赤い雨に濡れて、白い身体が赤くなっている。

 ペリカンが口に咥えている義足と血液袋が大きく見えた気がした。

 傘士の仕事──義足制作、献血。


「支社長がドイツからお帰りになれば、私は小秋さんの担当を外されると思うんです」

「……何でですの?」


 小秋の笑顔が固まった。

 成葉は弁解するように、小秋の手を握っていない方の片手を自分の前で振った。


「元々そういう話だったじゃないですか。小秋さんは支社長の義足をご所望だったのでしょう?それまでは練習もかねて、私の物を使うことになりましたが……来年、支社長がお帰りになりましたら、私の出る幕はどこにもありませんし」

「それなら、わたくしの血液はどうなるのですか。吸血鬼と傘士は同じ血液型じゃないと駄目なのではございませんの?」

「ブランデル社は大きい会社です。私以外にもB型のRhマイナスの人はいますよ」

「……一人の客に対して、献血者をあまり増やしたくないという話があったではないですか」

「輸血にあたって、安全上、献血者の人数を極力減らしたい意向はたしかにありますね。しかし、私由来の血液製剤を配送課にいる別の配達員がお渡しに行くのなら……何も問題はないかと思われます。本来はそういう形式の方が多いです。傘士の本業は、あくまでも義足の制作ですから。傘士の私が直接、お客様である小秋さんへ血液配送をする今回のご契約が特例だっただけです」

「成葉様の、嘘つき」


 小秋がしゅんとした様子で俯いた。


「え?」

「義足の関係が終わっても、変わらず……わたくしに血液を届けると──そうおっしゃったのに」

「今後もずっととは言っておりませんが……」


 そのことは担当を外されるまでの間の話だ、と成葉は改めて説明し直す。

 小秋はふくれっ面で、終始、無愛想にしていた。こんな子供っぽい彼女を目の当たりにするのは初めてだった。

 傘士と吸血鬼だけがいる暗くなった駐車場への道に、雨は深まっていく。

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