第5章 血と足の因縁

26話

 “知恵は私たちの傷を覆い隠す。つまりそれは、ひそかに血を流す術を私たちに教えてくれるのだ”


 ──エミール・シオラン『悪しき造物主』



 “小鳥の群がるナナカマドは、森の茶褐色に血を流す。

 ときおりそれは雨の後だが、森全体が揺れる。

 まるでまた雨が降り出したように”


 ──フランシス・ジャム『桜草の喪』



 “人の血を理解するのは、たやすくできることではない”


 ──ニーチェ『ツァラトゥストラ』



 目覚めると、吐いた息が白かった。

 この日、成葉がベッドから身体を起こしたのは正午過ぎだった。

 年末に向けて、際限なく増えていく残業に悪戦苦闘する日々。昨夜も遅くまで会社に残っていた。連日の疲労が随分と溜まっていたようで、久しくこのような時間に起床したらしい。まぶたはまだ鉛のように重い。深い欠伸をひとつする。もう一度寝ようと考えたが、翌日は朝早くから外回りがあった。夜間に熟睡できるよう、今は意識を覚醒させておかなければならなかった。

 渋々しぶしぶ、成葉は一日を始めることにする。枕元にあるラジオをつけ、カーテンを開ける。外は雪が降っていた。銀世界ではなかったが、夕方には積もりそうな勢いだった。


『東海三県は全体に、数ミリ程度の降雪が──』


 天気情報を告げる男性アナウンサーの声。

 本日は雪。午後には止んでしまって、公共交通機関への支障はないそうだ。

 成葉は安堵した。外出する予定はなかったが、天候を気にするのは休日でも抜けない癖だ。


『飛騨高山のスキー場は今年も多くのスキー客で賑わい、中には外套姿の瘴雨患者の人も──』


 わたくしをスキーに連れて行ってください。


 その声がふと聞こえた気がして、成葉はラジオの電源を切った。

 ベッドに腰掛け、手持ち無沙汰に、仕事用の携帯端末を弄る。客たちとの個別の連絡リストをざっと見たものの、小秋からのメールや電話は一件もなかった。

 十二月初旬、無事に本義足の最終適合が済むと、成葉が予想していた通り、小秋とはばったり会わなくなっていた。義肢に関する事柄が二人の間で完了し、契約書一枚分の仕事が無くなったのだから当たり前だ。

 微調整のため、何回かは義足の改修を迫られたが、それも今となっては必要ない。リハビリ施設への送迎もなくなった。次に面と向かって会えるのは、早くても来年だろう。次回──三回目の経口輸血療法を実施する予定の日まで、彼女との接点は途絶えてしまったわけだ。

 一人の客の義足を作って、また次へ。次へ。次の客へ……。終わりの見えない、仕事だらけの渦中に戻るのである。

 成葉はため息をついた。こんな気持ちになるのは、彼は初めてだった。傘士として身を削られる毎日にあって、小秋の存在は非常に大きかったのだ。会えなくなってから、そのことを切実に理解したのである。

 謙虚な笑顔。

 困ったような可愛らしい微笑。

 風に撫でられて揺れる白い髪。

 滑らかで、仄かに朱色が差した柔らかそうな肌。

 血液を飲んだ後に僅かに見えた、あの犬歯。

 津吹家の名に恥じない気品ある所作。

 義足の練習に尽力する美しい姿。

 本や文学の話をする凛とした表情。

 全てを見透かす聡明な青い両目、訴えかけてくるような瞳の力……。

 小秋は美しい女性だった。彼女と二人揃って、良い香りの紅茶と甘い茶菓子をテーブルを囲んで情景が、昨日のことのように目に浮かぶ。

 小秋と離れたくなかった。最後の工程まで単独で担当した初の客としても、似た趣向を持つ読書仲間としても、なによりも──。


「……小秋さん」


 彼女の名前を発した。

 小さな秋。二つ用意されていたうちの片方であろう、女の名前。


「ああ、くそ。私は何を考えているんだ……」


 気持ちの整理がつかない、というのは腹立たしいほどもどかしい。

 これでは、私が小秋さんに魅入られてしまったみたいじゃないか──。成葉は、吸血鬼の少女の美しい微笑みを自分の外へ追い出そうと努めた。


「我に純潔と禁欲を与えたまえ……」


 肩を落とし、成葉は腹の底から息を吐く。

 その拍子に見上げると、外で雪が音もなく舞っていた。雪の白さに、小秋の白色を基調とした服装と、そこの下に秘められた彫刻のように妖しい白い肢体がまざまざと蘇ってくる。

 独身寮の部屋は狭く、ベッドから少し手を伸ばせば、ベランダに通じるガラス戸に届く。成葉はそこを開け放つ。直接見る雪は綺麗だったが、そう思った次の瞬間には、肌を刺すような冷たい風が室内に流れ込み、足の指先がかじかんだ。

 ガラス戸を閉めると、玄関から呼び鈴の音がした。

 ほんの一瞬だけ、それが小秋かもと期待したが、耳に届いたのは、聞き慣れた「成葉」という野太い呼び声だった。



「あの例の客とはどうなんだよ」


 立ち食いそばを啜り、高田が訊ねてきた。


「どうって……。そう言われても、特に」


 思うように動いてくない箸を片手に、成葉は鬱陶しそうに高田の探りを受け流した。

 数十分前、自室にやって来た高田に昼食を誘われて、何も食べていないと正直に答えた成葉は、半ば強引にいつものこの店に連れてこられていた。

 厨房から立ち上る湯気は、気温の低さに合わせ、もくもくと大きく広がっている。雨をたっぷりと抱えた夏の積乱雲のようだった。


「ホントか?最近、元気なさそうってみんな言ってるぞ」

「誰が元気ないって?」

「だからお前だよ、成葉が。ちゃんと話聞いてんのか?なんでも噂じゃ……あの客の義足を作り終えたらしいじゃん」


 高田がにたりと笑った。

 噂はリハビリ施設で働く宇田から漏れたのだろう。彼女は小秋の担当で、仲も良好そうだった。


「そうだけど」

「おい、そんな生返事することねーだろ」


 カウンター席で横に立つ高田から、成葉は肩をばしりと叩かれた。


「噂の客は女子高生だと宇田の奴から俺は聞いたけど……ちらほらとある目撃談によれば、女子の割に背が高いんだって?百八十センチもあるお前と並んで見劣りしないってんだから、百七十ぐらいか?なぁ、教えてくれよ。可愛い子だったのか?その客──」

「……お客様、ね」


 成葉は箸を止めると、ため息混じりに唾棄するように言った。だが、高田はけらけらと笑うだけだ。


「お前らしくないよなぁ。指摘するんなら、それよりもずっと前に言えばいいのに」

「指摘したって直さないだろ」

「そりゃそうよ。俺にとって客──おっと。お客様は神様じゃないんでね。あとさ」


 高田が隣から手元を見下ろしてくる。


「なんか今日は食べるのが遅いな」

「食欲がないんだよ」

「えぇ?だったら、ついてこなくてよかったけど」

「誘ったのは高田だろ」


 箸を置いた。丼の中の麺は半分は残っているが、成葉はそれを横にずらす。


「残りはやるよ。私はもう帰る」

「帰ってなにすんの?」

「……本でも読む」


 成葉が耐雪外套の装着を始めた頃になって、これまで厨房内で作業に没頭していた店主が、気難しそうな顔を出してくる。

 そばを残してしまって申し訳ない、と成葉が無言の会釈をすると、店主は「いいんだ」と言った。


「おやじさん、コロッケ。あと、おいなりさん」


 高田が横槍を入れてきた。店主は、じゃがいもコロッケといなり寿司を厨房からひとつずつ丼に放り込んだ。鰹だしのスープが跳ねる。

 慌てふためく高田のことは気にもかけず、店主は言葉に迷う様子で腕を組む。


「このバカと話してた、お客さんとはその後どうだ?ほら、あのなぞなぞだ」

「なぞなぞ……。あれは──」


 朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものとはなにか。答えは未だに不明だ。


「けっ……バカとはこりゃまた失敬っすね、おやじさん。バカって言う方がバカなんすよー」

「コロッケもいなりもサービスだと言ったら?」


 店主がぼそりと呟くと、高田は嬉々として黙り、それらを食い始めた。

 外套の着用が済んだ成葉は、店主を見る。


「……すみません。まだ解けていません」

「そうか。鳥っていう俺の答え、あれはお前さんのお客さんには通用したのかい」

「残念ながら違ったみたいです」


 名古屋の水族館内を小秋と歩いた時に、物は試しとそれとなく鳥についても言及してみたが、彼女曰く違うそうだ。やはり鳥類ではないらしい。


「そうか。なら、何なんだろうな……」


 店主はちらりと尻目に厨房内の大鍋を見た。温かい鰹だしのスープで満たされている。


「魚とかどうだ?」

「残念ですが、それもハズレだそうです。イルカとか、水族館にいる生物でもないそうですよ」

「そうだろうな。第一、魚に足なんてないからな」


 店主は口元をほころばせた。


「もしかして、足ってのは何かの比喩かもな。例えば植物の根っことか。草は……根っこっていう足が肝心なんだよ」


 次に店主が視線を向けた先は、壁掛けの額縁だ。この店を継がずに画家になると言って大喧嘩の末、出ていった息子が描いて東京から送ってきたという、そばの実の畑風景の絵だった。


「でも寿命が近づくと根回りが脆くなる。それで本数が減るとか、そういう表現にしてるかもしれん……」


 客との会話を楽しんでいるのか暇なのか、店主は自分が好きな蕎麦のことに絡めて、なぞなぞを考えているようである。

 成葉は苦笑する。


「別にいいんですよ。なんとなく、これは自分が考えなきゃならない問題のように思っています。私は傘士……それも足専門ですから」

「やっぱりそのお客さん、どこかでお前さんのことを試してるのかもな……だがなぁ、義足は作り終わったんだろう?」

「そうですね。なのに、お客様が今も回答を伏せられているのが妙なところです」

「ふぅむ。津吹さんお抱えのお客さんって話を聞く限り、かなり育ちの良い人物と見受けられるが……どうだろうねぇ。人間ってのは、自分がついた嘘は、相手にバレるまでつき続けるしかねぇからな」

「嘘……?あの、おやじさん、それってつまりどういうことです?」


 成葉は、両手にまとった耐雪グローブの拳を握った。


「このなぞなぞにハナから真っ当な回答なんて用意されてないって魂胆だった、とか。例えば大真面目に悩むお前さんの……言っちゃ悪いが、滑稽な姿を見てほくそ笑みたかったとか。可能性としては、全くありえん話ではないだろ?」


 思い浮かべないようにしていた、小秋の笑顔が、鈍く瞬きする瞼の裏に出た。美しい嬌笑は魅惑的だった。

 あの彼女がそのようなことは──。

 強く否定したかったが、成葉は店主に向けて頷いた。


「いやなに、俺のせがれがそうだったんだよ。最後の最後まで、このそば屋を継がねぇ理由に公務員を挙げやがった」


 これまで沈黙を貫いていた高田が「また始まった」と小声で言った。店主の人生の愚痴だ。


「そのくせ、ちょいと探りを入れてみりゃ、画家ときてな……。情けねぇ話だが──長く生きていると似たようなことはザラにある」

「はは……災難でしたね」

「まったくな。人間、一回でも本当のことだと言っちまった嘘は、周りからすれば真実になる。それを裏切っちまった時には、ゲンコツか包丁って相場が決まってる。だからみんな、平気で自分の嘘を嘘で上塗りするんだ。親子でもそうだ。俺の倅がそうだったようにな……。特に男と女の関係は」

「……私のお客様は嘘を見抜かれないように、未だに嘘をついていらっしゃると?」

「そうかもしれんって話だ。あまり気にすることはない……。それとも、もしかしてお前さん──成葉も、嘘をついてるのか?」

「私が?」

「そう。例えばよぉ、その美青年のツラ使って、お客さんに嘘なんかついてたりとか」


 成葉は頭だけ仰け反りそうになった。

 心臓の鼓動が早くなり、大切な血液がどくりどくりと脈打つのを全身で感じ、外套の中で冷や汗が走った。まさか、と営業慣れした作り笑いでごまかすよりも早く、店主が低い声で哄笑こうしょうする。


「ふははははっ。なんてな。このバカと違って、お前さんに限ってそれはないか」

「ちょっ。おやじさん、いくら俺に対してでも、そう何度もバカとは失敬っすよ!」

「ん?口を開きやがったな。コロッケといなり、しめて三百円なんだが」


 恫喝どうかつじみた店主の声を聞き、高田は口を尖らせたように閉じる。彼らの仲の良い会話の最中も、成葉は落ち着かなかった。

 嘘。いつかは発覚してしまう、偽りの話──。

 店主は高田に興味をなくすと、ひらひらと手を振る。


「まぁいい。成葉、悪いな。長話で引き止めちまった」

「……別に大丈夫ですよ」


 正直なところ、ようやく解放されたと成葉は心底ほっとした。しかし外套を点検し、独身寮に帰ろうとした時、後ろから再び店主に呼ばれる。


「どうしても分からなかったら、抱えこまず、いっそ聞いてみたらどうだ?」

「聞くって……どなたに?」

「そばの打ち方はそば屋に聞くしかねぇ。絵は……いや、俺は知らねぇし知りたくもねぇけどな。ともかく読書家からの難題は、同じ読書家に聞くしかねぇだろ。津吹さんとか」

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