24話

 二人は、水族館内を散策した。手入れの行き届いた水槽の世界は見事なもので、それぞれ気になった生き物の解説を読んだり、談笑を交えながら、傘士と吸血鬼は共に過ごす時間を楽しんだ。

 館内を一通り見回り、午前中のイルカショーを経て、二人は軽い昼食をとった。午後はまた館内をぶらつき、グッズを販売する土産屋を見た。

 主に小秋の興味が向く方に会話と散歩は進んだ。

 傍目にはデートにも見えるかもしれないが、成葉にとっては多くある仕事のうちのひとつに過ぎなかった。業務の目的であった──客の少女についていき、義足の様子をチェックする一日を無事に果たせたので、彼は満足していた。

 冬が近づいてきたらしく、午後五時には日が暮れ始めた。水族館を堪能した二人は、夕食をとってから帰ることにした。

 水族館エリアの飲食店ではなく、複合施設内にある店でいくつもある中から、二人は津吹グループ傘下のイタリアンレストランを選んだ。

 店内は落ち着いた雰囲気の店だった。酒樽のようなインテリアが何個も置かれており、併設するバーカウンター内には、ところせましとワインボトルと逆さまに吊るされたグラスが並んでいた。


「成葉様、お酒は飲まれないのですか?」


 小秋がパスタを食べる手を止めて、訊ねた。


「車で来てますので」

「そうではなくて……普段のことですわ」

「日常的に飲む習慣はありませんね。なにぶん希少血液型です。どんな時にも輸血要員になれるよう、アルコールの摂取は避けています」


 それに会社からも社員の飲酒は快く思われない、と付け足した。飲酒は献血の敵である。

 小秋は薄く笑って応えると、パスタを一口食べる。育ちのいい、品のある食し方だった。立ち食いそば屋で、傘士や配達員の男たちと腹に詰め込む速さを競うようにして食べる光景とは全く異なっていた。

 トマトソースが小秋の長い犬歯を赤くするが、面と向かって座る成葉に対しては、紙ナプキンで隠される。


「記念日とか……お仕事上での何か特別な日にも?」

「そうですね。私にはそもそも飲む習慣がないのです。一滴も飲みません」

「健康には一番良いのかもしれませんが、たまには息抜きも必要ではありませんか?」


 未成年の小秋に諭され、成葉は「息抜きですか」と笑う。バーの方にあるワインボトルを眺めるが、銘柄はさっぱり分からなかった。


「煙草も吸われないのでしょう、成葉様は」

「血液に良くありませんよ、ああいったものは。品質問題に繋がりかねません」

「もう、いつも頭の中がお仕事のことでいっぱいなんですから」

「すみません」

「謝らなくても結構ですわ。ただ……失礼な言い分になるかもしれませんが、そうまでして成葉様が傘士でいることにこだわられているのか……わたくしにはその理由が分かりませんわ」


 小秋は音もなくフォークを置くと、表情を改めて、成葉を注視した。


「本当のことを教えてくださいませんか?どうして成葉様が傘士になられて、今も続けられていらっしゃるのか……」

「理由ですか。それは──」

「以前に聞いた答えは聞きたくありませんわ」


 仕事です、の成葉の型通りの一言を耳にするよりも前に、小秋は先手を打った。面食らった成葉は口ごもる。


「わたくしは成葉様に感謝しております。貴方と仲良くなれたことにも。でも最後のところで、貴方との間に距離を置かれていると時々思うのです……残念なことに」

「いいえ、そんな。違います。私の動機など、お話したところでつまらないものですから」

「そのつまらないものをわたくしは聞きたいのですわ」


 小秋はテーブルクロスの上に手を出した。吸血鬼の紫外線対策であるオペラグローブをはめたその手は、少しずつ成葉の方へ進み、料理を載せた皿の付近で止まっていた彼の手に触れた。


「お客様の命令ですよ?成葉様」


 小秋の青い瞳に灯る、炎のようなものがきらりと光ったようにも思えた。


「困りますね。距離を縮めてほしいとおっしゃっていたのに、今はお客様として振る舞われるのは。はっきり言って、ずるいかと……」

「今更お気づきになられて?女というのはずるい生き物ですわ。あの水族館にも展示できないぐらいに」

「面白い冗談ですね」

「わたくしがそう簡単に冗談を言うとお思いで?」

「この二ヶ月あまり……それなりにおっしゃっていた記憶ならありますけど」


 成葉が困惑気味に苦笑すると、小秋も我慢できなかったように相好を崩した。年相応の少女の笑みだった。

 名残惜しそうに小秋の手が退く。成葉は息を漏らさず、ほっとした。


「小秋さんは私のことを聞かれましたが……それを言うなら、私だってあなたのことを何も知りません」

「それもそうかもしれません。どうやら、わたくしたちはお互いに隠しごとがあるようですわ」


 この反応は成葉からすれば意外なものだった。

 話題をなんとか違うものにするべく、苦し紛れに自分の立場を相手に投影しただけだったのに、小秋の方も思い当たるところがあったらしい。

 小秋は再度フォークを手にしながらも、パスタは意識の外で、目を成葉から逸らすことはしなかった。


「“ここでは人々の微笑に短剣が隠されている。血の近い者ほど血の臭いがする”」

「相変わらず綺麗なお声です。『マクベス』でしょうか」

「ありがとうございます。そうです、正解ですわ」


 小秋は小さく微笑んだ。


「そういえば……成葉様とお会いした当初、わたくしに呼び方を求められた時にどうして『マクベス』で構わないとおっしゃられたのです?」

「それはですね……」


 成葉は時間を稼ぐために適当に言葉を出した。だが、頭の中ではひどく混乱しかけていた。土砂降りの夕立が街を襲うように、記憶にある、あの日のことが一気に想起されたのだ。

 雨の匂い。包帯に締められる感触。

 血の繋がりのない夫婦からの無償の優しさ。

 義足。

 本棚の本たちと『マクベス』の古い背表紙。

 そして、あの女。吸血鬼──。


「……なんとなく、ぱっと頭に浮かんだのがあれだっただけです。ほら、シェイクスピアの作品……というより、西洋の古典文学は主人公の名前とタイトルが大体一緒じゃないですか」

「そうでしたの……」


 納得していないようだったが、小秋はそれ以上の深追いはしてこなかった。



 会計を済ませた成葉と小秋は、レストランを出て、外の駐車場に向かおうとしたが、ちょうど、ぱらぱらと小ぶりの赤い雨が降ってきた。天気予報では雨は降らないと言っていたにも関わらず。

 二人は屋根のあるところに留まった。施設は館内放送で予報が外れたお詫びと雨天について情報を垂れ流している。帰宅しかけていた他の客たちの顔にも、戸惑いの表情があった。すぐに不穏な喧騒が施設を支配した。

 この日の客に同行していたと思われる、配血企業の人間たちは会社と確認の連絡を取ったり、瘴雨に怯える客をなだめたりしているようだった。イルカショーの練習中に睨み合った、ラントシュタイナー社のあの傘士は、吸血鬼の女児を元気づけようと飴玉をあげていた。

 そんな光景を横目に、成葉は片耳にイヤホンをはめ、ブランデル愛知支社の気象観測課が発信している無線連絡を聞いた。

 支社長である津吹お抱えのプライベートの客を成葉が担当しているのは、とっくに社内に知れ渡っている。その客の義足のチェックという名目で名古屋へ遊びに行く今回のことも、社への事前報告が原因だったのか既に噂となって漏れているらしく、気象観測課の同期の友人から直接無線が来ていた。


「──了解。通信終わり」

「どうでしたか?」


 無線を切ると、不安そうに寄り添っていた小秋が見上げてきた。


「少しまずいですね。この辺、雨量は少ないですが……中濃度の瘴雨の可能性があるようです。無視できない濃度です」


 油断していた、と成葉は思った。こんなことになるのなら、車は地下に停めていれば──。


「……これからどうされますの?」

「私だけ先に車に戻って、車を地下駐車場に移します。それなら小秋さんが雨にさらされないので、最も安全です」

「それでは、わたくしはその間こちらで待つことになるのですよね?なんだか……少し心細いですわ」


 義足や吸血鬼の女性を狙ったあくどい連中がいると話したこともあってか、小秋は弱気だった。彼女は成葉の腕にぎゅっとしがみついている。


「大丈夫ですよ。ここなら周りに人もいます」


 そうは言っても、成葉も怖かった。短時間とはいえ、比喩抜きに非常に大切な客のひとりである小秋を放っておくのが恐ろしかったのである。目を離した隙に何かあれば、津吹夫妻や会社に顔向けできない。

 傘士が客の遠出についていくのは、第一には輸血要員のためだが、単に用心棒としての側面もある。


「いいえ、嫌ですわ」


 珍しく小秋が駄々をこねるように断った。


「わたくし、貴方とご一緒がいいんです。それに見渡してみると……ブランデル社の傘士は、成葉様しかいらっしゃらないようですもの」

「……分かりました」


 逡巡しゅんじゅんしたものの、手提げ鞄に予備を合わせて二着の外套があることを思い出すと、成葉は承諾した。


「耐雨外套を装備してから車に向かいましょう。小秋さんの日傘は、濡れると後が大変ですから、ビニールか何かに包んでもらいましょうか」


 施設のスタッフに事情を話すと、観測設備を整えるほどの吸血鬼寄りの経営方針のためか、急遽、客向けに用意を始めたらしい日傘用の細長いビニール袋をくれた。最近は日傘を雨から守るために、近頃のショッピングモールなどでもこれを配布するところが多い。

 成葉は自分の支度を整えると、小秋が耐雨外套を着込むのを手伝った。

 ダイビングスーツと宇宙服の中間のような作りとなっている基本着から、二枚のマント状のものを重ねて羽織る。雨合羽の上位互換だ。どちらの布地にも瘴雨を多少は無効化する特殊塗料がコーティングされている。


「小秋さん、着心地はどうですか?」

「ちょっぴり大きいですが……肌に雨粒が触れることはなさそうですわ」


 小秋は自身の格好をめつすがめつ見た。新しく買った可愛い洋服を見るような素振りで、彼女は誇らしげに笑っている。


「これでわたくしも成葉様と同じ──ブランデル社の傘士ですわ」


 やっぱりあなたは冗談が多いじゃないか、と成葉は思った。

 小秋のフード部を頭に被せて、外套の布地ごとの接続を念入りに確かめる。


「傘士なんて、美人がする仕事じゃありませんよ」

「あらあら。お世辞でも嬉しいお言葉ですね」


 顔面を瘴雨から保護するべく、フード部から伸びる透明のシート越しに、小秋の白い頬と青い目が見えた。彼女は購入したばかりの人形のように美しかった。


「お世辞なんて気の利いたことが言えるほど、私は器用じゃありません」

「本当に?わたくしに素敵な足を作ってくださったのは、どこのどなたでした?成葉様は器用ですよ」

「手先だけです──。小秋さん、そろそろ行きましょうか。雨が強まる前に、車に乗りましょう」

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