23話
「それなら、ここから移動しましょう」
水族館内には、イルカショーを鑑賞するためにスタジアムのような観客席がある。本番のショーまでには時間があるようなので、他の客も少ないはず。
足の疲労を訴えた小秋を連れて、人目を避けるようにそちらに移った。そこでは、何匹かのイルカとその訓練士がショーの演技練習をしていた。弧を描いた観客席には思っていた通り、練習風景を眺める客が数人いる程度だった。天井はガラス張りのような建材で覆われているが、館内の説明書きによると、自然光を取り入れながらも紫外線をカットするものだそうだ。
成葉は、出入り口付近の席に小秋を座らせる。
「足の方は大丈夫ですか?」
「はい……休めば楽になると思いますわ」
「お茶か何か、買ってきましょうか?」
「お構いなく。喉は渇いていないので大丈夫ですわ。成葉様……ごめんなさい。せっかく遊びに来たばかりでしたのに」
「気にしないでください。正直におっしゃってくださって、私としては助かりましたよ。小秋さんがご無理をされても誰も得をしません」
だが、これといって負荷の大きい運動をしたわけでもなかったのに、リハビリでは順調だった小秋が疲れを感じているのもおかしな話だった。
「ちょっと、義足の方を点検してもよろしいですか?」
「……どうぞ」
成葉は小秋の側に片膝をつく姿勢になって、義足を観察した。
リハビリ中に部品の点検はしているので、破損はありえない。考えられる原因はひとつ、バッテリーの接触不良だ。電力の供給が搭載マイコンに上手く伝わっていないと、膝関節の駆動に支障が出る。すると適切な歩行ができず、使用者に疲れを生じさせるのである。
そう考え、外装のひとつを外してバッテリーを見る。予想に反して異常は見当たらなかった。
「あ、これ──」
ひとまず外装を戻そうとした時、成葉はバッテリーを注視した。義足から取り出すと、それは確信へと変わる。小秋の疲労の要因がいとも簡単に掴めたのだ。
「あのう、小秋さん?こちら充電が切れかかっていますよ」
「あら……そうだったのですね」
バッテリー側面にある、残り電力を映した電子表示のメーター数値がほぼゼロに切り替わっていたのだ。それを小秋に見せると、彼女は照れたように笑った。
「出かける前に充電したつもりなのですが……勘違いだったみたいですね」
「いいんですよ。これまで仮義足だったんですから無理もありません。ただ、次からは注意していただきたいです」
成葉は制服のポケットから予備の物を出し、交換した。これで今日一日は大丈夫だ。
バッテリーを取り替えている最中、小秋の足元に目がいっていたので、彼女がどのような表情をしていたのかは分からなかったが、きっとまた照れ笑いを浮かべているのだろう。その考えは的外れでもなかったようで、交換作業を終えた成葉が視線を上げると、小秋は優しく微笑んでいた。
「今後は気をつけるつもりですわ。けれど、わたくしは貴方が隣にいてくださる時にしか外に出るつもりはありませんもの」
小秋は手を差し出し、立ち上がった成葉の制服の袖を密かな動作で掴んだ。力を入れられ、
「それができるのなら安全ではありますが……私があなたのお傍にいるとも限りませんので」
成葉は困ったように笑う。
「もし小秋さんがおひとりでどこかに遊びに行かれていて、外でバッテリー切れを起こしたとしますと……危険じゃないですか。お若い女性が歩けなくなったと周りに悟られては、尚のことです」
「そうですの?」
きょとんと、小秋はやや不思議そうに首を傾げた。
常識知らずの深窓育ちの令嬢には
成葉は頷く。
「吸血鬼の方が装着する義足を窃盗するゴロツキがいるとも聞きます」
「他人の義足を盗む方たちが?」
「そうです。義足はほぼオーダーメイドの製品なので、他人に直接売ることはできませんが、分解すれば、規格次第ではどのような義足にも応用できる部品の塊です。中でも高額な部品を転売するんでしょう。それだけではありません……。虚弱な吸血鬼の女性本人を目当てにした
「それはとても怖いですわ……」
「そうでしょう?私が小秋さんのお傍にいない時には、あなたご自身の足だけが頼りなんですし、そこは絶対にお忘れなく」
小秋は何も言わず、こくりと頷き返した。
未だに小秋から制服の袖を握られていると思っていた成葉だったが、いつの間にか彼女のその手は、仕事しか知らない青年の手をすっぽりと包んでいた。
小秋の手は非常に柔らかく、すべすべとした少女そのものの手だった。絡まってくる指は温かい。吸血鬼は蘇った死体という伝承だが、血の流れがそこにはあった。
「今は成葉様とご一緒です。わたくし、何も怖くありませんわ」
小秋は目を薄く
足元を見下ろすと、ドレスに隠された、彼女の細く長い足の気配があった。義足。それと運良く健康な右足。あの白い陶器のような美しい足。ねっとりと血の流れを覚える、あの足──。
成葉は、その足に触れてみたい衝動に駆られたが、すんでのところで自制心がはたらいた。
まばらとはいえ、数人の客がいて良かったと心底思った。もしここが館内の端で、周囲に誰もいない自販機近くのベンチだとしていたら、迷うことなく小秋の足をまさぐっていたかもしれない。
われに純潔と禁欲を与えたまえ、と内心で呟いた。高ぶる心に、静粛に鎮まるよう叫んだ。
普段ならこのフレーズは、やまびこのように何度も響くのだが、その時は呟いてからすぐに聞こえなくなった。だから頭の中をその文言で支配するために、成葉は気が狂ったように必死になり、声に出さず何度も何度も口にした。われに純潔と禁欲を与えたまえ……。
遠くにある水深の深いプールでは、イルカたちが訓練士に従って泳いで、跳ねて、遊びながらも芸を披露している。
その光景をぼんやりと目にしながら、成葉は座り直すふりをして、隣にいる小秋の頭と手から逃げようとしたが、そうはいかなかった。席から立たない以上、吸血鬼の少女との距離は依然として近いままなのだ。彼女は更に身体を預けるようにして、離れられない隣の傘士のことを容赦なく引き止めた。
あっけからんとした口ぶりで、成葉が「どうしたんですか」と言っても、それで済む空気ではなかった。ぴんと糸のように張った緊張の空気が、そう離れていない両者の間に漂う。
二人の空気はお構いなしに、訓練士のホイッスルと元気なかけ声が観客席にも届いた。ばしゃり、とイルカが水面へ落ちる水の音。遠慮のない飛沫が、前方の無人の席へと飛びかかり、足場の灰色のコンクリートは一瞬で暗く染まった。それは雨に打たれるアスファルトとは全く違った景色だった。
「わたくし、イルカを見ていると血のことが思い浮かびます」
「……血ですか?」
「お父様からお聞きしたのです。津吹グループでは何十年も前に、ヒト由来の全血製剤を使わずに吸血鬼の血を確保するプロジェクトがあって……そこで試みとして挙がって、実際に何度か実験されたのは……動物の血を流用した製剤開発だったそうですよ」
「それなら私も支社長からお聞きしたことがあります」
成葉は相槌を打った。
「犬や猫などの哺乳類の動物の血を加工して、不足している吸血鬼の方々の血液を確保しようとした計画ですよね?」
「そうですわ。ですが実験は、瘴雨解明プロジェクトがそうであったように失敗に終わりました。“動物の血を飲んで、自分の病気を治そうというのは、まことに空しい希望というしかない”とも言いますけれど、まさにその通りでした。その後は人から採血したもので血液社会を回すことになるのですが──わたくしのような吸血鬼の方々の口を充分に満たせるようになるまで、お父様は大変な苦労をされたようです」
「しかと存じております」
成葉は、そう応えつつも、プールからの飛沫を食らう位置の席にいる家族連れの客を見た。
父親と母親、中学生ぐらいの息子、それから──吸血鬼らしい小学生の娘の四人家族。
それに加えて、外套を羽織ったラントシュタイナー社の傘士がいる。成葉と同じく、万が一の輸血要員で、家族連れの外出に随伴しているらしい。彼はブランデル社の青年からの視線に気づくなり、不審そうな目つきを返した。成葉も睨み返す。
そのことに気づいたのか、小秋がふふっと苦笑する。
「成葉様ったら……また怖い顔をされていますのね。わたくしの前では止めてくださいな」
成葉が謝るよりも先に、小秋は話を戻す。
「そのプロジェクトの中でも、とりわけ重要視されたのがイルカでしたの。イルカは糖尿病と深い関わりがあるとされていまして、それを人間にも活用できないか……研究者の方たちはそう考えたのですわ」
「イルカと糖尿病が?」
「一説には──イルカは生存のため、自らに好きなタイミングで糖尿病のスイッチを入れられるそうですよ」
「あの動物にそのような能力が……」
「お分かりになって?血は、足と深い関わりがあるのですわ。人間の糖尿病の患者の方は、酷い場合、足を壊死してしまうケースが頻繁にあると聞きます。それでわたくし、イルカを見るとこの話を思い出すのです。血を。そして……足のことを」
水中から勢いよく、イルカが大きく宙に飛んだ。「く」の字に似たフォルムでくねる身体と背ビレが美しい。
イルカに足はない。一般には、進化の過程で失ったと言われている。足はない──それなのに、己を糖尿病の症状に変化させることができる。否、足がなく、初めから失うものが無いからこそ、その面妖な芸当が可能なのかもしれない。
「小秋さん。もしかして、あのなぞなぞの答えって、イルカなのですか」
真面目な言い方で、小秋を試すように横目に見た。
「残念。違いますわ」
小秋は静かに首を振った。落胆する成葉に、彼女は続けざまに言う。
「そう気を落とさずに。いずれ分かりますわ。成葉様。血は足なのです。いいえ……こうも言えるでしょう。足は、血ですわ」
聞き覚えのある言い回しに、成葉ははっとした。
それは前に、聞いたことがあった。記憶の遥か底に沈んでいる。それがいつ、どこでの──誰の言葉だったのかは、ついぞ思い出せなかった。
「……あの問題はまた考えておきます。さて、小秋さんの足の調子はどうですか?」
湿っぽく、なにか引っかかるような会話の空気を払うように、成葉はいつもの口調で発した。
問われた小秋も、心なしか顔を明るくすると、すらりとした細い体躯を席から上げて立った。彼女はその場で何歩か小さく足踏みする。自立や歩行にも問題はないようだった。
「おかげさまですっかり快活ですわ。成葉様、これからはどうされます?午前中のイルカショーには時間があるようですから、その前に他の展示の方も覗かれますか?」
「私は小秋さんの付き添いですゆえ、そこはあなたに合わせますよ。小秋さんはどうされたいのです?」
「あら。訊ねたのはわたくしなのですが……そうですね、それなら館内を散歩したいですわ」
「かしこまりました」
小秋を追うように、成葉も立ち上がった。
近づく小秋とは一定の距離を保ちながら、出入り口の方へと歩く。
「成葉様」
声をかけられ、あの白い手に腕を触れられた成葉は、思わず避けてしまった。
小秋は驚いたように青い両目で瞬きした。
「……散歩というのは、あなたと腕をお組みになってですか」
「いけません?」
「小秋さんはおひとりで歩かれることができそうですので、その必要はないかと。万一、
「そう固いことをおっしゃらずに」
愛嬌のある柔媚な笑顔で、小秋は、今度こそ成葉の腕と自身の華奢なそれを絡ませる。成葉はそれを拒む隙もなかった。
「わたくし、まだ独り立ちには気後れしている節があるのです。成葉様が支えてくださるのでしたら、心強いのですが……駄目でしょうか?」
「……そういうことでしたら、お受け致しますが」
うふふ、と小秋は口も開かずに肩を少し震わせて嬉しそうに笑った。密着した彼女の身体の揺れが、成葉の心を打つようにして伝わった。
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