22話

 曇り空の休日に遠出するためか、やけに交通量が多くなってきた道をひた走り、傘士と吸血鬼を乗せた車は水族館に到着した。

 道中に携帯端末で調べたものによると、名古屋港に位置するこの水族館は、海洋生物が飼育されている主要エリアのみならず、地下と地上施設を含めて様々な店を抱えているらしい。どちらかと言えば大型複合施設と表現した方が適切とのことだ。

 実際、駐車場から建物の外観を眺めてもそれは分かった。水族館の区画を除いたとしても、全国クラスでも大規模な部類に入る娯楽施設の装いだった。

 それだけではない。あれは──。

 義足と血液袋をくわえたホワイトペリカンのロゴ入りの社用車から、一足先に降りた成葉は、日傘を開いた後に降車する小秋を待ちながら建物のそれを見ていた。


「見てくださいよ、小秋さん。あちら」

「まあ……懐かしいですわ。そうなんです、昔……こちらの水族館に家族で来たことがあるのです。とても大きなあの建物、しかと記憶に残っておりますわ」

「素晴らしい思い出ですね。しかし私が申したいのはそうではなくて……」

「はい?なんでしょうか」

「あそこの。ほら、あちらですよ」


 成葉が急かすように言うと、小秋がひょこりと横に出てきた。

 すぐかたわらにいる、可愛らしい日傘を手にした吸血鬼の姿に、またも見とれそうになった成葉は、煩悩を押し殺した。彼は周りを取り囲むようにたたずむ複合施設の建物群の方角に向けて指さした。

 そこの屋上には、年季は感じられるものの、気象観測用のレーダー波を送受信するパラボラアンテナを収めたドーム状の構造物や、避雷針のように天に伸びる棒状の観測機器たちがあった。


「気象観測の機械ですよ。すごいですね、あれだけ本格的な観測設備があるなんて」


 この世界の──少なくとも下々の人間にとって、気象情報は何よりも重要な情報である。なにせ瘴雨も日光も厄介だからだ。人々は、かのドラキュラ伯爵よりも吸血鬼らしく天候を気にしなければならない。

 近年では気象省のみならず、民間気象会社による天気情報の販売も着実に増えている。配血企業も気象観測課の規模次第では、周辺地域へ向けて天気情報を売っていた。中には自前で周辺区域の天候を監視し、利用客に無料で公開することで、吸血鬼のいる家族層の集客を狙うテーマパークや公的施設もあるという。この複合型施設も、そういった方針をとっているようだ。

 仕事用の携帯端末を開くと、予想通りだった。メッセージアプリに、水族館の運営アカウントから『ようこそ名古屋港へ』というメッセージと共に、数分単位の天候をまとめた一覧情報が送られていた。


「見てくださいよ、小秋さん。ここ、無料公開の天気予報なのに五分単位で、雨天の確率についてもかなり細かい記載をしていますね──。観測方法や観測機器の種類から、携わっている予報士の名前に至るまでしっかりと載っています……これは我が社も負けていられません」


 小秋は、そんな成葉に習うように自身の端末の画面を見下ろしたが、すぐにそれの電源を落として、片手に抱えた小さなポーチにしまった。


「あの……?成葉様、はしゃぐところが少しばかり独特ですのね」


 困ったように小さく笑ってみせる小秋を目にして、成葉はそこでようやく苦笑いを浮かべた。


「あ、すみません……職業病です、これは」

「仕方のない人ですこと。今からは室内ですから、そう天気を気にされることはございませんわ」


 小秋はそう言って一歩横に踏み出すと、成葉に近づく。吸血鬼と傘士はひとつの傘の下で互いの身体が密着した。小秋は白い絹のようなオペラグローブをはめたしなやかな腕を青年の腕に絡みつかせる。


「えっ……ちょ、ちょっと。小秋さん?」

「どうしたんですの」

「私には日傘は……不要なのですが」


 隣にいる客の令嬢と腕を組んでいると把握すると、成葉は反射的に距離を取ろうとした。だが、小秋の手には妙に力が込められていて、それを許そうとはしない。

 心を惹きつける青い視線が成葉を見上げていた。


「そうおっしゃらず。入口まで、こうして歩きませんか?相合傘あいあいがさ──以前から試してみたかったのですけれど、お相手がいなかったものですから」

「相合傘?聞いたこともない言葉ですが……」

「貴方でもご存知ない言葉でしたのね。相合傘……わたくし、本で読んだんです。なんでも、親しい人と傘を分けるという意味らしいですよ」


 傘。日傘ではないあの傘、と成葉は口に出さず考えた。

 久しぶりというか、現実に存在する名詞として聞いたのはいつ以来だったのかすら思い出せなかった。

 吸血鬼であろうとなかろうと、瘴雨に触れないよう、雨天では耐雨外套を着用することが当たり前になったために、雨用の傘の文化はとっくに廃れている。相合傘という単語もおそらくは出版物の規制で排除された表現なのだろう。


「ウェルギリウスもこううたっております……“雨のあとに日が照り、雲一つなく晴れることを予知するのは、いと易いこと”だと──天気予報なんて屋根の下で見るだけで結構ですわ。成葉様、早く参りましょう?わたくし、イルカを見たいのです」



 成葉と小秋はチケット売り場で入場券を購入し、水族館に入った。

 二人は、ゲートから入って早々に自分たちを歓迎した巨大なアクリル板の水槽に圧倒された。群青色に塗られたその中からは淡く光が溢れており、数匹のイルカたちが機敏に泳いでいる。その光景は、車内にて小秋が言及した内容に劣らないものであった。


「綺麗ですわ」


 小秋は呟いた。館内に入ってからは日傘を閉じたものの、相変わらず小秋は、成葉と腕を組んでぴったりと横にいた。

 館内の出入り口から、目と鼻の先にあるイルカの巨大水槽の前には、大勢の人がそれぞれ間隔を空けて一様に水の厚いカーテンを鑑賞している。

 水槽の前に行くと、二人は幼い子どもがいる家族連れやカップルたちからは、ちらちらと視線を覚えた。日本人離れした白髪で、義足をつけた美人の小秋は明らかに目立っていた。その横にいる、傘士の制服姿の成葉も同様である。周囲の人々の視線は、この二人の関係性を探るような、純粋な好奇心や羨望に近いものがあった。

 心臓がかつてないほど、血液を身体中に循環するテンポを無為に加速させていると成葉は感じていた。無論、人々からの視線だけではなく、隣の客の令嬢との距離が原因だった。

 離れようと提案しようとしたが、結局は止めておいた。

 水族館に浮かれていたが、当初の目的は義足の点検をかねた外出だ。小秋が何かの拍子に転びそうになってしまった時には、腕を組んで近くにいるのが、一番対処がしやすいだろうと成葉は思うことにしたのである。


「そうですね。いくら分厚いとはいえ……アクリルの板に隔てられたすぐそこに、何万リットルもの膨大な水の塊があると思うと不思議な感じもします」

「わたくしたち、まるで水の中にいるみたいですね」


 小秋は声を低めて、ぎゅっと青年の腕にしがみつく。


「……成葉様」

「はい?」

「吸血鬼になる方法をご存知ですか?」


 相手にしか聞こえないよう、小秋は声を潜めた。

 あまりに突拍子なその問いかけに、成葉はちぐはぐな表情になりかけた。周りの視線と小秋の反応を気にして、慣れた愛想笑いをさっと顔に貼り付ける。


「文学作品のお話のことで?」

「その通りですわ。現実の吸血鬼は、貴方の目の前におります……語る必要もございません」

「そうかもしれませんが」


 やけに含みのある小秋の物言いに、成葉は差し当たりのない返事をして続ける。


「……吸血鬼になる人間と言えば、たしか──自ら命を絶った人間や、不道徳な行いをした人間?後はやっぱりあれですか。吸血鬼に噛まれたことがある、とか。そういうものだと思いますが」


 成葉は、津吹からもらった吸血鬼の短編集の書籍の受け売りを話した。吸血鬼という差別用語が周りには聞こえないよう、声を小さくして。周りからは、傘士と吸血鬼が喋々喃々ちょうちょうなんなんとしているだけのように見えるだろう。


「それらも正解ですけど、足りないものがあります」


 小秋は腕の力を緩めた。


「まだ何かありましたか?吸血鬼になる方法……」

おぼれて死ぬこと……ですよ」


 小秋のその声と重なって、同じ空間にいた人々からは控えめの歓声が広まった。

 アクリル板の水槽の中に、水族館職員からの餌が投下されたらしく、イルカや他の魚たちが豪快に水を掻き分けてそれに食いついたのだ。瞬く間に、水中に白い気泡が浮かんでは弾けて、荒々しい波濤はとうが出現する。

 これまで海の生き物たちはよそに、会話にのみ意識が向いていた成葉と小秋は、びっくりして顔を見合わせた。互いに苦笑する。

 その最中にも水槽の世界は波に包まれ、混沌としていた。


「……溺れて?」

「ええ。とても意外な方法でしょう?」

「まさかそのような手段があるとは……。でも、どうしてそのような方法があるんでしょうか。その話も、ドラキュラ伯爵の日光のことみたいに、誰かの作品による後付けなのですか」

「それがそうでもないみたいですよ。わたくしが調べたところによりますと、これは吸血鬼が伝承として各地に存在していた時からある言い伝えのようでして……言わば、本物の設定なのです」

「なるほど……。溺れることが。なんだか変な話ですね」

「あら、お分かりになりません?吸血鬼は、川や水の上を渡ることができないという話があるではございませんか。もしかしたら、それと何か関係があるのかもしれませんわ」

「面白い推察ですが、その場合、川を渡れないのは吸血鬼であって……吸血鬼になる前の人間は、あまり問題ないのでは?」


 成葉のその疑問への答えは発することなく、小秋は水槽の中にいるイルカをもの悲しげな目で一瞥いちべつした。


「……申し訳ありません、成葉様。わたくし、少しばかり足が疲れてしまったみたいですわ」

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