21話

 約束の日は、朝から曇り空だった。

 朝早くに寮で身支度を済ませた成葉は、これから迎えに行くと小秋に電話を入れて、社用車で屋敷に向かった。

 郊外から更に外れた道路を走っていく。車のフロントガラスには、一面、薄い灰色の空がどこまでも映っていた。ブランデル社と気象省からの気象情報の発表によれば、今日は瘴雨の可能性は極めて低いらしい。また曇天で、昼間であっても太陽光による紫外線は比較的低い数値だった。

 成葉は内心、「良い天気」だとこっそり呟いた。絶好の良い天気──だった。

 半世紀前まで、天気の話はとりとめのない気軽な雑談の種として君臨していたそうだが、今はまったく耳にしない。客の人々や他社の義肢部品メーカーの関係者たちと接する機会が多い成葉でさえ、そんな会話は古い小説でしか知らなかった。

 今日はいい天気ですね、はいそうですね──本当にこのような不毛な会話を昔の人は楽しんでいたのだろうか。それは外回りの業務を主にし、天候に気を配る配血企業の傘士として、成葉には信じられなかった。

 そもそも、天気に良いも悪いもない。雨でも晴れでも、気が楽になる人もいれば、その逆の人もいる。天気の印象は当人の気の持ちようではないだろうか。

 屋敷の門前で車を停める。目視で天気を再確認し、耐雨外套が不要だと判断した後、成葉は運転席から出る。時を同じくして、屋敷の玄関口の方から扉が開く音がした。

 運転席のドアを閉めながらそちらに目をやる。

 丁寧に管理されていることがひと目で分かる緑の庭には、西洋絵画の貴婦人のような美しい女が立っていた。女は白い生地のロングドレスに身を包み、華やかな日傘をさしている。その女は成葉の方に向かって歩いてきた。一歩ずつ進む度にドレスが揺れて、銀色の義足がちらりと現れては姿をくらませる。まるで幻のような艶やかさだった。

 その出で立ちに見惚れそうになった成葉は、それが客の小秋だと悟ると、自ら声をかけた。


「おはようございます。お迎えに参りました……。小秋さん、おひとりで歩かれていたようですが、足に不調はありませんか?」


 車椅子や補助器具に頼ることなく一人で歩く小秋に訊ねた。彼女は日傘を少し上げて、成葉の顔を見ると満面の笑みを浮かべ、こくりと頷いた。


「ごきげんよう。成葉様。ええ、わたくしの足は元気みたいです。貴方にご教授いただいた通り、バッテリーの充電も問題ありませんわ」


 外出する約束を交わした時に、義足に搭載されたマイコンと膝関節の制御機構の動力に必要となるバッテリーについて触れていた。小秋はそれを忘れずに準備をしてくれたようだった。今しがたの歩きを見ても、義足は適切に動くようである。


「左様でしたか。それなら安心です。万一の時は私の方でも予備がありますし」


 二人は庭から出る。

 門を閉じた小秋は、そこの鍵を閉める最中、曖昧に「そうですか」とだけ返事した。背の高い屋敷の門から振り向いた彼女は、美妙びみょうな白い顔で成葉をまじまじと見た。


「あら、今日も会社の制服を着用されていらっしゃいますの?」

「そうですけど、それがどうかされましたか」

「……てっきり今日ぐらい、普段着で来られるものかと思っていましたから」


 小秋は苦笑した。


「お客様との遠出ですからね。これも仕事の一環なので、制服は必須です」


 そう応えながら、成葉は、小秋を車の助手席へとエスコートする。

 日傘を閉じてから車内に身を移し、助手席に座った吸血鬼の少女は、遅れて横に来た傘士の青年に向けて、不満そうな目つきをした。そこには数滴、哀願の色の絵の具が垂らされている。


「お仕事のこと……ちょっとぐらいは忘れてくれても構いませんのに」

「すみません、そう言われましても困ります。仕事ですので」


 それに、と成葉は補足した。制服以外の服は、入社式の際に着てからそれっきりの背広一式と寝巻きのジャージしか持っていないのだ、と。

 小秋はむずかゆそうに、小さくため息を漏らす。


「服に無頓着なところもお父様にそっくりですね」

「私が?」

「ええ。わたくし、礼服と制服姿ではないお父様を見たこと……ほとんどありませんもの」


 言われてみると、たしかに幼少期から今に至るまで、記憶の中にいる津吹はみんなスーツか、そうでなければ傘士の制服を着ている姿しかなかったことに気づいた。

 エンジンを入れて車を発進させ、目的地の名古屋港にある水族館に向けて走るようになっても、その話は続いた。


「服をあまり持ち合わせていないとなりますと、お休みの日はどうなさるんですの?お出かけはしないのでしょうか」

「どうって……そうですね。休日、私はいつも会社の寮にいますよ。外に遊びに行くことはありません」

「そうでしたの」

「はい。だから特に服がなくても困ったことがないのです」


 成葉は、休日の過ごし方について話した。支社長から勧めてもらった本を読むか、そうでもなければ会社に顔を出して雑用をしたり、後は新製品の義肢パーツのカタログに目を通して仕事の時に活用できるようリストアップしたり……というものだ。

 休日に遊びに出かけている男女の談笑にしては無味乾燥とした内容だったが、小秋は飽きることもなさそうに、健気に相槌を打った。


「……働き者ですのね。ですが、成葉様はお若い殿方ですわ。お付き合いされている女性がいらっしゃったりすると、そうもお仕事ばかりを念頭に置くことはできないのではありませんか」


 小秋のその質問を聞くなり、成葉は柄にもなく、皮肉っぽい笑い声を上げた。かつてリハビリ施設にて、小秋の主治医から彼女が綺麗だからって手を出すなよとからかわれたことを思い出したのだ。


「小秋さん、私はどなたとも交際はしていませんよ。傘士なので仕方ありませんね、こればかりは」


 交際、彼女、結婚。

 最後のひとつはまだしも、少なくとも前者の二つは、大抵の若い傘士には縁遠い話だった。

 小秋は、よく分からないとでも言いたげに青い目を細めた。


「仕事の話ばかりになってしまいますが、水族館はまだ先です。その間に、私の方からこのことについてご説明いたしましょうか?」


 成葉が営業時の溌剌はつらつとした口調で問いかけると、小秋は黙りこくって、顎を引くように静かに頷いた。


 配血企業の社員の主業務として挙げられることの代表格に、吸血鬼向けの全血製剤の原料となる血液の採取がある。献血だ。

 配血企業は、採血課なる社内機関を設け、赤十字社と協働して可能な限りは社員から血液を集めている。したがって配送課の配達員たちや気象観測課の気象予報士も血液を会社に渡さなければならず、義肢装具課の傘士もその規定から逃れることはできなかった。

 その際、社員側に求められるのは「健康な血液」の提供である。客の口に直接入るものなのだ。糖尿病患者の血液を飲ませるなんてことは絶対にしてはならない。ブランデル社をはじめとした、あらゆる配血企業がこぞって格安の独身寮を与え、食事の面でも自社員を管理したがるのはこのためだ。

 そして配血企業の社員として最も忌むべきことは──性感染症など、主に風紀の乱れが起因となってもたらされた悪性によって、献血できなくなるという事態だった。

 全血製剤を製造する赤十字社側は、入念な監視体制をとっているので、そのような問題のある血液が客に出回ることはほぼなくなったが、それでも悪質な血液が審査で弾かれていることに間違いはない。

 事前ではあっても問題が一度指摘されてしまうと、無論、採血からやり直さなくてはならず、配送にも支障が出る。血液を吸血鬼向けの飲用の製剤に加工するのには最短でも数日かかるためだ。重度症状である吸血鬼の客の中には、毎日百ミリリットル以上は摂取しなければすぐに息絶えてしまう者もいる。ほんの少しの配送遅延でも命取りとなるのだ。

 だからといって、採血した血液の品質が悪いと分かった度に、気軽に献血者をころころと変更しては、献血者の名前を覚えている客側からの信頼を大きく損なうことにも繋がりかねない。血にまつわる信用の損失はマスコミやメディアの格好の餌にもなる。

 こういった背景から、配血企業では結婚を除いて、性交渉を伴う関係となった人間ができた際には、申告するよう規定されている会社が多い。避妊具の有無は関係ない。性交渉そのものを全面的に禁止しているわけではないが、把握はしようとする姿勢だ。献血の際に不良品の血液を提供した社員に即刻、懲戒免職処分をくだすことも法的には可能となっている。以前にはこれが不当なプライバシー侵害として、九州方面を拠点とする配血企業・レッヒェ社を相手取った裁判も開かれたが、年々増えつつある吸血鬼に、安心できる血液を飲ませるためには必要な処置であると判断されて、最高裁は原告側の傘士の訴えを退けた。

 要するに、どうしても他人と性交渉をもちたいのなら──性感染症の類を持ってこない真面目な人間を伴侶にして結婚するか、そうでなければ会社を辞めろということである。

 この極端なまでの血液に対する品質至上主義の蔓延の結果、傘士や配達員などの男社会では、若者はことさらリスクをとらず、また安い独身寮にも住み続けたいから、異性と恋愛感情を募らせた交際もしなければ、結婚もしない人間が大半だった。

 成葉もそのうちの一人だった。別の職種に就いた高校時代の友人たちからは「お前は山奥の修行僧か?」と同情の声が上がったものだが、彼自身は昔から恋愛に縁がなかったから気にしたことはなかった。


 その話を聞き終えた小秋は、仄かに頬を赤くし、ぷいっとサイドガラスの方へ顔を逸らした。


「……成葉様は、女性の方とお付き合いされていないのですね」

「今も、これから先も多分そうですよ」

「これから先も……。さっきのお話ですと、一途な方と結婚をすればなにも問題はないはずではありませんの?」

「誰かとそういった関係になるのは、献血者としてはリスクの塊ですよ」


 さらりと言う成葉に、小秋は「でしたら」と食い下がった。


「成葉様は今後も、どなたかと家庭を築く……こともないのでしょうか?」

「よく分からない質問をされますね」


 傘士の青年は、信号で止まったタイミングで助手席へ首をひねった。吸血鬼の青い瞳はぴたりと彼を見据えていた。


「ブランデル社にいる以上、私は傘士です。住む場所も業務も、食べる物から頭にある小さい困りごとまで、すべて会社が決めます。我々はそういう人間です。そうでなければ……小秋さんのような吸血鬼の方々を支えられないんです」

「そうなのでしょうか……?成葉様のそのお考えは立派なことではありますけれど……なんだか、わたくしにはちょっとだけ窮屈な気もしますわ」


 小秋のその言葉には、高校時代の友人たちからは感じられなかった、鋭い侮辱の含みがあった。それが自分自身に向けられたものではないと成葉は直感的に思ったが、では一体、誰に投げられたものだったのだろうか。思案し、アクセルを踏んでからも、その答えが出ることはなかった。

 その後二人はしばらく沈黙したが、どうせ外に出てきているのだからと、どちらから発することなく、互いになんとなく話題を変える。

 今日は良い天気……否、それではない。成葉は、向かっている水族館の話を振る。


「まずは何を見ましょうかね。小秋さんはお目当ての生き物がいたりすんですか?」

「これといった生き物はあまり……海洋生物には詳しくないのですわ」


 該博がいはくな文学少女の小秋でもカバーしていない分野があるらしい。この日に備えて、何か本でも読んでくるべきだった、と成葉は思った。


「わたくし、水族館のあの雰囲気が好きなのですわ。水に囲まれているのに、圧迫感はほとんどなくて……透き通った幻想的な空気で満たされていると言いますか、ああいった場が」

「なんとなく分かるような気がします」

「理解していただけたようで良かったですわ」


 小秋はにこりと笑みをつくった。


「楽しい思いを詰めただけの感動ではなく、生命の厳かな神秘や躍動がそのまま並べられているようで──。そうですね、良い映画を見終えた後には、ぼうっとした衝撃があるではないですか。水族館というのは、常にああいった何か掴みどころのないものを肌で感じられるのですわ」

「詩的ですね。そういうことを聞いてると……なんだか私も楽しみになってきましたよ、水族館」

「あら?わたくしの話を聞くまでは楽しみじゃなかったかのようにお話しなさいますのね」


 いたずらっぽく小秋は微笑んでみせた。

 前方の車との車間距離に注意を払いながらも、成葉は隣の少女を見た。


「決してそういうわけではありませんが……義足のことで頭がいっぱいでした」

「成葉様らしいお考えですこと。ふふふ」

「でも、小秋さんのお話を耳にしてしまってはそうもいきませんね」


 当初よりも、成葉が遊びに行くことに乗り気になってきたのは本当だった。

 小秋との縁は、これまで自分なりに育ててきたブランデル社の傘士という役回りを介してのものだった。それなのに、いざ彼女と喋っていると、なんだかこれまでの自分とは違った存在になれるのでは、と思えて仕方がなかったのだ。

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