第4章 二人で歩く
20話
“あたしはあなたが好き、あなたを神さまから横取りしたい”
──ゴーチエ『死霊の恋』
“吸血鬼が特定の人達に、次第に激しく取りついていくのは恋情によく似ております。いったんこうと思いさだめた目当てのものには、たとえどんな邪魔が起ころうと、実に執念深い忍耐と計略をもっておいかけてまいるのです”
──レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』
“よりよい血がわたしに活力を与え、やきもち焼きの老いが、
──ウェルギリウス『アエネイス』
*
「わたくしを遊びに連れて行ってくださいませんか?」
小秋からその申し出があったのは、十一月末──土砂降りの瘴雨が県内全域を襲う日の夕方だった。
かねてから重ねている小秋の本義足のリハビリは、義足の方の最終調整さえ終われば大方クリアし、医療施設での時間外にも二人は義足について細かな打ち合わせをするため、その日も屋敷にて落ち合っていた。
新しく紅茶を作り直した小秋は、台所から盆に載せて運んできていた。紅茶を成葉の方に差し出して、ソファに腰を下ろすと、「駄目ですか?」と念を押すように再度訊ねてくる。ふわりとした軽やかな笑顔だった。
「この足の良い調子を外でも感じてみたいのですが、家で雨籠もりをしていると物足りないではありませんか。わがままな話になってしまいますけれど……成葉様がお暇な時に、わたくしを外に連れ出してほしいのですわ」
「かしこまりました」
成葉は快諾した。小秋の誕生日の際、傘士の自分のことは自由に使ってくれて平気だと伝えたように、客の「足」として貢献できるのなら、目的地がリハビリ施設以外の場でも請け負うつもりだった。たとえ現在がそれなりの繁忙期であってもだ。
「嬉しいですわ。ありがとうございます。それでは……次の日曜日は大丈夫でしょうか?」
「その日は空けておきますよ。どちらへ行かれたいのです?」
「名古屋の方の地下街の中にあるスケート場です」
お淑やかな雰囲気を拭うことはなかったが、小秋は珍しく明るい様子ではしゃぐように言った。成葉は表情を曇らせる。
「スケート?」
「そうなんです。わたくし、足があることをきちんと実感したいのですわ。と申しますのも、実は幼い頃、お父様と一緒にあの場所で滑ったことが──」
「小秋さん。申し訳ありませんが、それは無理な申し出です。傘士として認可することは致しかねます」
「……あら?」
小秋はきょとんとして、少女めいた喧騒をぴたりと止めた。成葉は、なるべく深刻にならないように小秋に頭を下げると、花園と化したテーブル上から、ピンク色のギモーヴをひとつ摘んで食べた。
「第一に、あなたの義足は調整中です。それに……そちらの足はフィギュアスケート用の製品ではありません。氷上で滑るというのは不安要素が大きいのです。ご理解を──」
「ご心配には及びませんわ」
成葉の言葉を遮って、小秋もピンク色のギモーヴに手を伸ばした。柔らかなその菓子は、彼女のしなやかな指に挟まれて凹むと、吸血鬼の犬歯が生えた、小さな口の中に品よく運ばれていく。
「わたくし、吸血鬼なので身体は強くありませんが……以前にもお話したようにバレエや日本舞踊を習っていましたから、足腰や体幹には人一倍自信がありますの。成葉様を
「そういう慢心が命取りになります」
成葉は心を鬼にして、冷たく言い放った。
どうしても、小秋が悠々と氷上を楽しそうに滑っている姿が思い描けなかったのである。持ち前の体幹やバランス感覚は、義足制作やリハビリ過程で知っていたから頷けなくもなかったが、小秋の足は、健常者の足と比べて見劣りする義足であるのは間違いない。客が怪我をしてからでは遅いのだ。
「それだけではありません。あなたのお体に問題がなくとも、周りがそうとは限らないのです」
「……それはまたどういうことですの?」
「小秋さんが義足で滑れたとしても、もし周囲の人とぶつかってしまっては……事故につながるということですよ」
気づいた時には、小秋の顔は暗くなっていた。
誤解を招くような言い方をしてしまった、と成葉は瞬時に悔いた。
つい数週間前、小秋の誕生日にケーキ屋に向かう際、車椅子で向かうか義足を履き直すか、ちょっとした口論になったばかりだった。あの時、足が不自由なことを気にすることはない、堂々としていればいい、と励まして使い物にならない本義足を彼女に装着させていた。
それなのに今の物言いでは、せっかく外出を望んだ小秋の気持ちを蔑ろにしたように聞こえたのではないか──。そう思い、成葉はすかさず「すみません」と弁解する。
「語弊のある話し方をしてしまいました。なにも義足を付けた小秋さんが周りに迷惑をかける、という意味ではありません。周囲で滑っている他の方々が、小秋さんにぶつかるかもしれない……と思ったのです」
それを聞いた小秋は、若干ではあるが笑みを取り戻した。
「今の貴方の理屈では、誰も街中の人混みを歩くことすらできません」
「氷上とアスファルトは異なります。移動する速度だって……。小秋さん、あなたが問題なくとも、周りの人があなたにぶつかってきたら、私一人では対処できない可能性があるのです」
「あまり憂慮すべきことではありませんわ。万が一、わたくしが怪我を負うようなことがあっても、他でもない成葉様がお傍にいらっしゃるのなら心強いですもの」
「ご冗談を!怪我を負われる前提での遊戯など、やはり傘士としては認めるわけにはまいりません」
「あら、成葉様は負傷したわたくしのことを助けるつもりはございませんの?」
「揚げ足をとらないでください。もし小秋さんがそういった状況下で輸血が必要になれば、私は失血死してでも、あなたに血を飲ませる所存です」
成葉はそう語気を強めたが、真剣そのものだった傘士に向けられたのはくすくすと押し殺した女性の笑い声だった。耳障りとも、心地よくも思えるそれは、激しい雨音には掻き消されずに客間に響いた。
笑われた意味が分からず、成葉は懐疑的な視線を送った。小秋をそれを受け取ると、軽くお辞儀を挟み、口角を上げる。
「気を悪くされたのなら申し訳ございません。これでもわたくし、成葉様のことは信じていますわ」
小秋は、祈りを捧げるように胸の前で両手を組んだ。
「貴方がどれほどお父様の会社に忠を尽くしているかは存じておりますもの。その信念は尊いものです。貴方が傘士として、ご自身の命を捨ててでも……客であるわたくしを救ってくださる光景を思い浮かべるのは簡単なことですわ。けれど、それは一体どなたのために?」
笑い声が消え失せ、低く艶然とした小秋のその声もぽつりと止まると、外からの雨音が勢いを取り戻したかのように、成葉の耳にどっと流れ混んできた。
沈黙を予期していたらしく、小秋は両手を解き、すらりとした左右の手をそれぞれの
吸血鬼の少女を眼前にした傘士の青年は、沈黙の最中、自分の背中に結露のような冷や汗が出ていると感じた。
相手からじっと口を閉ざされてしまった小秋は、小首を傾げてから、足を撫でるのを止めると、白い片頬に艶かしい動作で左手をやった。
「“血が燃えあがれば、魂もめったやたらと口に誓わせるもの”……。成葉様。貴方には、わたくしのためだけに血を捧げる傘士でいていただきたいのです」
「……そのつもりですが。小秋さん、さっきから何をおっしゃってるんです?」
心の奥底まで小秋に見透かされたように思えて、成葉は内心焦った。吐き出す呼吸の途中で、呻くようにとぼけるのが精一杯だった。
小秋は満足したように紅茶のカップを持ち上げる。
「ふふ、そうですわね。たしかに話が脱線していました──今回のところは諦めようと思います」
「ご理解いただけたようでなによりです」
「それはそうと、やっぱり足の調子を施設以外の場所でも試してみたい気持ちに変わりはありませんわ。もうじき冬が来ますし……。成葉様、スケートが駄目なら、わたくしをスキーに連れて行ってください」
どこか重苦しい空気だったのが一転、小秋はころっと気軽に言ってのけた。そんな彼女に、
小秋は賢く非常に悟性的な少女だが、会話の節々に、自分の置かれた立場を理解しきれていないところが多々あった。
社会的弱者の吸血鬼であること。津吹家の人間であること。それに──。
成葉は下唇を噛んだ。
「いい加減にしてくださいよ。スキーなんて危なっかしいこと、私の目が黒いうちは絶対に許しません」
「うふふ。あらあら、成葉様ったら……なにもそう本気にされなくても」
口元に手を添えて、微笑する小秋を眺めた成葉は、なんだか彼女の掌の上で弄ばれてる気がした。年上の男としては
とはいえ、ここで下げるのもどうかと思われた。成葉は小秋に対抗する形で、意識的に客への口調を多少だが砕けたものにする。
「あんまり冗談が過ぎると、お連れできるものもできなくなりますよ?」
「まあ!まさか成葉様がそのようなことをおっしゃるなんて、驚きですわ」
「信じてませんね?口ではこうは言っても、なんだかんだ私なら連れて行ってくれるとお考えで?」
「その通りですわ。だって、貴方はわたくしの素敵な傘士さんなのですから」
小秋はそこで言葉を切って、花束を投げつけるような、はにかんだ表情を成葉に振る舞った。
吸血鬼特有の白髪が揺れ、青い眼が幸せそうに細くなる。控えめに上がった口の両端からは鋭い歯が姿を出し、彼女はそれを恥ずかしそうに手で覆い隠した。生前の彼女の母親とそっくりな仕草だった。
その様子を目の当たりにした成葉は、薄らと赤面した。急に反撃ができなくなった。言葉のやり取りでも、人としての魅力でも、小秋には敵わないことをかつてないほど痛感したのである。青年は顔の熱を放出して冷ますように、二回ほど空咳をした。
「そう小っ恥ずかしいことをよく平然と言えますね」
投げやりに言ったが、その言葉のところどころに嬉々としたものが滲み出ていた。成葉は、嬌笑に快く歪む小秋の顔を見てからそう気づいた。
言葉から真意が漏れてしまう。それはまるで、天井から零れる雨漏りのようだった。本心という雨粒がいかに強かろうと、一人前の大人ならば、たとえ天井が軋んでいても傷んでいても雨粒は必ず防がなければならない。それなのに最近はまるで天井が機能していない。
そう、小秋と出会って日々を共にしてからというもの、自分は少しおかしいのだ、と成葉は羞恥に駆られながら心の中で
高田と宇田が指摘するように、小秋に対して心踊っているのだろう。傘士として本来は生真面目なはずの──あの恩人たちから良い子として認知されているはずの──自己が侵食されている、と成葉は危機感を抱いた。同時に、小秋に義足を渡そうと決心した時点で、ある程度は自分もそれを望んでいたのではなかったのかと自問した。
小秋の笑顔に悶々としていると、やがて彼女の方が「成葉様」と呼んだ。
「日光にも雨にも当たらず、身体を酷使するスポーツを行う場所ではないことを条件にすれば、どんな所にも連れて行ってくださいますか?」
「その条件なら
そう提案するも、小秋は「いいえ」と断った。
「今回は、義足の確認のためのお出かけですもの。成葉様と本屋に行くのも楽しいと思いますが、そうするときっと本ばかりに目が向いてしまいますよ」
「じゃあ、どうされます?」
成葉は苦笑してから意見を乞うと、小秋は黙った。スケートだとかスキーとか、冗談を投げてきただけで、つまるところ特に希望の場所はないのだろうか。代替案はどうしたものかと考える。何気なく顔を上げ、テーブルの向かい側のソファに座る小秋を見ると、彼女は頬を朱色に染めていた。
「……成葉様。その、でしたら……わたくしと一緒に水族館に行きませんか?」
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