18話

 小秋の誕生日から十日後の日曜日。

 その日も朝早くから雨だった。正午を過ぎても雨勢は強まっている。通常雨だが、瘴雨を含む可能性がある雨雲が上空に多数点在しているため、気象観測課からは、外回りの配送時には外套を必ず着用するよう勧告されていた。

 そんな中、成葉は、同僚の配達員である高田たかだと立ち食いそば屋に来ていた。小秋の元に行く前に、適当に腹ごしらえを済ませておくためだ。

 九月に行った初めての経口輸血療法から二ヶ月と少しが経ち、二度目となる輸血の時期となった。そこで今日の午後の時間帯に、小秋の屋敷に来訪する予定が組まれていたのである。


「やだよなぁ、今日も雨じゃん」


 高田がねぎ抜きのかけそばを食べながら、話を振ってきた。


「そうだな」


 成葉もそばをひと口、すすってから答えた。

 椅子がない、昔ながらの立食式そば屋のカウンターで、傘士と配達員は並んで食事していた。ブランデル社と目と鼻の先の場所にあるこの店は、アクセスのしやすさからよく利用する。

 屋根を打つ雨。厨房の大鍋がぐつぐつと湯を沸かす心地よい音が耳に響く。コンクリート造りの足元はひやりと寒い。


「今年もなんとか無事に台風の時期が終わりそうだ」

「これで少しはそっちも楽できるだろ」

「どうだか……もうじき年末だし、血ぃ以外にも何か運ぶ羽目になるだろうよ。今日だって、それで午前中潰れたし」


 高田は面倒そうに言った。配送課は血液の配達がなくとも、吸血鬼の客向けに生活用物資を届ける業務がある。

 成葉のような特例は別として、基本的に血液を介して客と継続的に顔を合わせ続けることになるのは、本来は高田のような配達員なのだ。彼らも配血企業を支える大切な存在である。


「ほらぁ、俺A型だもん。客が──」

「お客様」


 成葉は、横に立つ同僚を軽く睨む。


「はいはい。で、俺はA型だからさ。お客様がたっぷりいるんだよ……その人たちの血じゃない荷物もついでにこっちに回ってくるってわけだ」


 配達員も傘士と同じく、客が経口輸血療法を実施する際には、客と同じ血液型であることが求められる。輸血後、万が一に起きるショック症状に備えるためだ。A型は国内の人口比が高いので、それに伴って、配達員や傘士もその比率が高まる。


「そればっかりは私もご愁傷さまとしか言えないな。今年は手伝う暇もなさそうだし。せいぜい給料分働いてくれ」

「薄情だなぁ。お前のとこもやっぱ忙しいの?」

「このシーズンだからね。梅雨の分と合わせて、今年の秋雨で吸──患者さんがかなり急増したんだ。義足担当班は私も含めて、土日も出勤の傘士ばっかだよ」

「ふぅーん」

「なんだよ?」


 高田があまりに生返事だったので、成葉は割り箸を動かす手を止めた。


「なんか、元気だなって」

「誰が?」

「お前だよ。なーんかさ、昔は背筋伸ばして無理してバリバリ頑張ってる感があったけど、最近のお前ってこう……明るいような、幸せなように見えるんだよな」

「そうか?」

「そうだよ。自分じゃ気づいてないかもしれないけど、ちょっと変わったぞ。ここ一ヶ月ぐらい……もう少し前か?町外れの屋敷の──例の秘密のお客様の担当になったぐらいからさ」


 屋敷に住まう吸血鬼の顔を思い浮かべた。

 成葉はそばに七味をかける。


「……関係ないよ。高田の気のせいだろ」

「ホントか?宇田の奴も言ってたぞ。成葉は堅物のクソ真面目でつまらない奴だったのに、最近は笑ってることが多いって」


 高田と宇田は出身高校が同じそうである。職種が違うので仕事で会うことはないが、プライベートで繋がっているらしい。

 なんだか同僚たちに冷やかされてる気分になって、成葉は居心地が悪くなった。それは二十数年の人生で感じたことのない類の感情の揺れ動きだった。


「余計な詮索は流儀じゃないって、高田が言ったんだろう?どのみち、私からあのお客様について喋れることはない」

「守秘義務でもあんの?……でも、俺は知ってるぜ」

「何が」

「お前とお客様は、同じレアな血液型だってこと」


 高田は成葉の足元を顎でしゃくった。そこには二百ミリリットルの全血製剤を保冷する収納ケースが置かれている。小秋用に採血し、先日、赤十字社から納品された商品だ。車内に放置するのが怖くて、成葉がそば屋まで持ってきていた。

 床のそれを一瞥すると、成葉は空になった丼を厨房側の店主へ下げる。


「ごちそうさま」

「あいよ」


 成葉はそそくさと耐雨外套を羽織り始める。


「なんだ、もう行くのか?」

「“客と白鷺しらさきは立ったが見事”ってことわざ、前にも教えたろ。食ったら即離席、これは支社長もおっしゃっていたが大切なマナーだ」


 それを聞いた高田はぽかんとした顔になった。

 厨房内の店主がくっく、と喉の奥で潰れた笑い声を上げる。彼には通じたようだった。


「えー?ね、あれってどんな意味なんすか、おやじさん」


 高田はカウンターのテーブルにもたれるように姿勢を崩し、片足に重心を傾けた。


「客は座り込んでねぇで、さっさと席から立って消え失せろって意味だ。鳥もそうだが、立ってなきゃ美しくねぇ連中だからな」

「げぇ!そんなの酷いじゃないすか。第一、ここ立ち食いそば屋でしょうが」

「普通の店は座るもんだろ。そこで客を立たせて回す。客は早くお帰りって店の願いが、立ち食いそば屋の起源なわけだ……」


 立ち、立つ。足で──。

 これまで高田と店主のやり取りは、仕方なく耳に入ってきていただけだったが、何か引っかかった。成葉は彼らを見る。


「高田。時間によって足の本数が変化するものは何かって言われて、何を思い浮かべる?」

「は?なんだそれ」


 身体の重心をかける足を変えて、高田が振り向いた。


「先日、お客様から聞いたなぞなぞだ。私にはずっと分からないんだ」

「んー……悪いけど俺もさっぱり分からん。なんだそのヘンテコななぞなぞ。二十四年生きてて聞いたこともねぇぞ」

「鳥じゃねぇか」


 店主が気難しそうな顔で言った。成葉と高田は彼を注視する。


「鳥は二本足で立つ。それにだ、フラミンゴとかの特定の渡り鳥は、寝る時に立って寝るじゃねぇか。足を一本、律儀に折りたたんでな。理由は知らねぇが、配血企業のバッジだってどこも鳥のマークなんだろう?成葉、そのお客さんはもしかしたら……お前さんのことを試したんじゃないか?」

「おお。じゃ、絶対それじゃないすか。どうだ成葉、すっきりしたか?」

「ああ……そうだな」


 成葉は納得しなかったが、ひとまず店主の顔を立てることにした。鳥という発想も悪くはない。地上で常に二足歩行を行うのはヒトと鳥類しかいないのだから。だが、問題文では最初は四本足となっている。きちんと問い直そうとかとも迷ったが、止めた。

 時間が時間だったのもあるが、店主が最後に言った──客に試されている、という言葉が何故だか真実のように思えてならなかったのだ。

 成葉はこのなぞなぞは自分で解くことにし、外套を着ると、高田を置き去りにして退店した。



「これで今回の輸血も終わりですね」


 持参してきた全血製剤を小秋が飲み終えるのを見届けてから、成葉は話しかけた。

 立ち食いそば屋を後にした成葉は、小秋の屋敷に訪れていた。いつものように短い茶会の歓迎を彼女から受けた後に、一回目と同じ手順を踏んで、経口輸血療法を行っていた。

 プラスチック製の血液パックを成葉に返却し、小秋は微笑する。

 小秋の口から、ちらりと先端を現す吸血鬼の犬歯は真っ赤だった。彼女は淑女らしくハンカチで口元を覆うようにしていたが、成葉にはその犬歯がはっきりと見えた。


「今回も成葉様の血液でしたのよね?」

「はい。小秋さんからの要望か、会社側での異動がない限りは私の血液を使用しますが……何かありました?」

「ふふふ、いいえ、その……なんでもありませんわ」


 小秋はにこやかに振る舞った。艶っぽく、くねるようなその笑顔に、成葉は思わず見とれそうになる。高田と宇田の冷やかしは、あながち間違っているものでもなかったのだと否が応でも悟った。

 輸血後は、ショック反応が起きないか観察するために一時間ほど客の元に留まることになるので、二人は茶会を再開した。送迎の時と同じような雰囲気だが、やはり広々と落ち着いた室内での方が気分が安らいだ。


「成葉様」


 マドレーヌを食べていると、小秋が視線を送ってきた。

 本義足姿の小秋は美しかった。搭載しているマイコンが日々のリハビリで作動するようになってきたので、最近は仮義足よりもこちらを付けていることが多い。


「なんでしょうか、小秋さん」

「あのなぞなぞは解けました?」

「……それが、全く解けていないのです。まさか十日も考えることになるとは思いませんでしたよ」

「よくお考えになられて?答えはすぐ近く──身近に潜んでいるものです。どんな難問だって、気がつけば簡単なものですわ」

「そういうものですかね……」


 成葉は考える仕草をして、高い天井を仰いだ。

 金持ちを誇示するだけの絢爛で装飾まみれの下品な造りではない屋敷だが、流石は津吹家の建物というべきか、使用している建材は一級品のようで天井の木目も綺麗だった。

 だが目を凝らすと、そこには傷のようなものがついていた。フランス語で文字が刻まれているようだ。


「“わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった”……。小秋さん、一体あちらの文字は?」


 小秋の方を見ると、彼女も天井を見上げていた。


「あら、お気づきになりました?あちらはお母様が生前、使用人に彫るよう任せた文言です」


 思わぬ人物の登場に、ぴくりと成葉の耳が動いた。


「支社長の奥様が……」

「それにしても流石ですわ。成葉様はフランス語もたしなまれていらっしゃるのですね」

「嗜むなんてものでもありませんよ。義肢のパーツを海外から取り寄せることがあって、その一環で読めるよう学んだだけなので……。それで、あれは誰の言葉です?」

「……さあ、わたくしにも分かりませんわ」


 小秋はそう言って、興味のない様子で早々に文字から目を離した。古典の引用に造形が深い彼女にしては珍しい反応だった。


「成葉様。そんなことより、なぞなぞをお考えくださいませ。貴方ならきっと解ける問題ですから」

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