17話
「ご謙遜を。わたくし、心から尊敬していますわ。傘士の方は、自分たちの生活を崩してまで吸血鬼を助けてくださっているではありませんか」
小秋は壁際に広がる大きな窓ガラスから外を見た。成葉もそちらに顔を向ける。
そこには煌々と光を放つ、美しい都市の夜景があった。雨は止んでおらず、付近の歩道には外套姿の傘士と思わしき男たちが数名いるだけだ。
彼らも仕事中のようだが、成葉とは外套のデザインが違った。距離があるので胸元のバッジまでは見えなかったが、おそらくラントシュタイナー社の人間だろう。ABO式などの血液型を分類した学者ことカール・ラントシュタイナーから名をとったその社は、ブランデル社と並ぶ大手配血企業だ。
「……嫌な連中がいますね」
ついそう呟いていた。
「あら?成葉様、それはどういう意味ですの」
「失礼しました。他社の人間でしたので……あそこにいる傘士たち」
「他所の会社の方々が疎ましい存在になりますの?」
「我が社の発展を妨げる原因です」
平然とそう答えたが、小秋は僅かに肩を下げる。
「成葉様。そういう考え方は、なんだかちょっぴり怖いものですわ。わたくし、貴方にはいつものようにお優しいままでいてほしいのですけれど……」
「申し訳ございません。小秋さんを不愉快にさせてしまったようですね。実は、配血企業同士は、ここ最近は競争を一層激しくしているんです。街をすれ違う傘士同士もかなりピリピリしていて」
「そんな。いけませんわ、そのようなことは……」
「悪い習慣だとは承知しているんです。属する会社が違えど、同じ赤十字社と協力して吸血鬼の方々を助ける立場ですから……一応は」
配血企業は、瘴雨による社会問題が出現してから生まれた営利組織だ。かの津吹グループによるブランデル社がその歴史の始まりだ。
元は東京にあった義肢制作の工房を母体に、多額の資金を投じて巨大化したブランデル社は、たった十年近くで各都道府県へ支社を設立した。利益の独占を目論んだ同社を阻止する形で、三十年前から全国各地に別の配血企業が乱立すると、企業間で客の奪い合いが始まった。
特に愛知県をはじめとする東海地域は、日本の東西を隔てる交通網の要所であり、吸血鬼も多数在住していることから、激戦区となっていた。
老舗たるブランデル愛知支社に籍を置く傘士の成葉と、その会社の代表の娘である小秋にとっても、無視するのは難しい話題だった。
雨は少しずつ強まっていく。
二人は互いに複雑な気持ちで、時折、窓の外からあの傘士たちを眺めながら話した。
「ラントシュタイナー……。血液型に関する人物でしたよね?」
配血企業は、社名に血液にまつわる偉人の名前を拝借する傾向がある。小秋はそれを言っているようだ。成葉は無言で頷いた。
「わたくし、お父様からお聞きしたことがあるのですが……昔は血液型で性格が分かる──なんて、おかしな占いが人気だったそうですよ。成葉様はご存知でした?」
「私も支社長から教えていただいたことがあります。けど、性格が血液型なんかで分かれば苦労はしませんよね」
成葉が力なく笑うと、小秋も似た笑みで応える。
「成葉様とわたくしは同じB型ですね。聞いたところによるとB型は酷い評価しかなかったみたいですわ。変わり者とか、協調性が欠けているだとか」
「そうらしいですね。反してA型は真面目だとか几帳面とか、神経質を除けば、全体的にすごく高い評価があるみたいです。正直、釈然としません」
成葉は、ふと同僚の配達員を思い浮かべた。土日の仕事後、運良く昼で仕事が終わると、共に立ち食いそばを食べに行く人物である。彼はA型だが大変ずぼらで、部屋は汚いし、お客様のことを「客」と呼び捨てにする。
小秋はさえずるように笑った。その後、彼女はかしこまったように、ただでさえ綺麗な姿勢をより正した。
「こんな一節を思い出しました──“奇妙なことではないか。われわれお互いの血は、一緒にすれば、色も重さも温かさも、まったく区別がつかなくなるものであるのに、 それを非常に大きな隔たりがあるもののように扱うとは”」
「シェイクスピアですね」
「ええ、その通りでございます。成葉様のようにすぐにお分かりになる方とは、こういった会話をする甲斐がありますね。ですからわたくし、その……」
「なんです?」
「貴方がわたくしの傘士になってくださって、本当に幸せですわ」
言われたことの意味を噛み砕き、呑み込んだ成葉は、慣れていない正面からの感謝の念に、固まってしまった。小秋は恥じらって顔を背ける。
「血液型占いは嫌いですが、血液型というものはたしかに存在しますもの。それによって繋がる人も、世の中にはたくさんいらっしゃいますわ。わたくしの場合……それは成葉様でした。血液型を発見したラントシュタイナーには感謝しなければいけませんね」
視線を外したはずの小秋から、青の光が成葉に刺さった。彼女の双眸が再び成葉に向けられたのである。
男なら一瞬で魅入られてしまう女の瞳。それは非常に美しいが、ともすれば恐ろしい眼差しだった。
成葉はまじまじとその瞳を見た。
自分の身体の奥底で、今日まで必死に殺していた情念が鎖から解き放たれたような気がしてならなかった。われに純潔と禁欲を与えたまえ──。呪いのようなそのフレーズを繰り返し、成葉はなんとか気を鎮めた。
「私は傘士ですから、当たり前のことを……仕事をしているだけですよ」
小秋は、柔和と媚態の入り交じった笑顔をこわばらせる。
「……傘士、ですか。そういえば成葉様。詳しくお聞きしていませんでしたが、貴方はどのようなきっかけで傘士になろうと
「きっかけと言われても……困りますね」
成葉は一呼吸置いた。小秋を見るが、その目線をいちごタルトへ落とした。
本当のことを話すべきだろうか。否、許される訳がない──。成葉は営業で培った愛想笑いを返した。反射的に話をひねり出す。
「実はこれといったものはありません。幸運にも支社長とお会いして、勧められるままに。このご時世、就職できるだけでもと……」
「あら?わたくしの記憶に誤りがなければ、成葉様は高校を卒業されてすぐに、義肢装具の勉学をするための学校に入られたはずですが」
え、と成葉は戸惑った。小秋は構わず、静かに剣幕を強める。
「傘士になる動機がなければ、わざわざそういった専門学校に進学することはないと思いますが。それとも高校に在学中の時から、わたくしの父とお会いに?」
成葉は自分の嘘が剥がされかけていることを悟り、ぎくりとした。
傘士になるのに最低限必要な資格を取得するため、高校卒業後に専門学校に進んだ過去は小秋に打ち明けていた。話した時は、その場限りの世間話としてしか捉えられていないだろうと油断していたが、彼女の頭には鮮明に残っていたようだった。
「そんなところです」
成葉は曖昧に首肯した。次の瞬間、小秋の青い瞳が見開いたのが分かった。彼女はしばらく何かを
「あら、そうでしたの──しかと覚えておきます。なんとも面白いこともあるものですわ。つくづく、ご縁というものは不思議なものですね」
ほろりと彼女は表情を緩めたが、その目はどこかまだ成葉に探りを入れたがっているようだった。男を疑う女の目だ。
何か話題を逸らさなければまずい。成葉はそう判断した。小秋に習うように紅茶を飲む。話題を見つけようとしていると、成葉の視界にあの紙袋が入った。
「小秋さん。それはそうと、支社長からのプレゼントはまだ開けないのですか?」
テーブル上の端に彼女が置いた包みに目をやった。
「……すっかり失念していましたわ」
「どんな本なのか、実を言うと私も気になっているんです。もしよろしければ、お教えいただけないかと」
「ふふふ……どうしましょうか」
小秋は包みを自身の方へと寄せて、テーブルから下ろした。足の上に載せたらしい。死角になって、成葉からは全く見えなくなった。
次いで、手元を見下ろす小秋は、ごわごわと紙袋を開けて中身の本を取り出したようだった。何ページか紙をめくる音がしたが、間もなくそれをぱたりと閉じる気配があった。
小秋は本を包みへと戻すと、それっきりだった。彼女はいちごタルトの最後のひと口を頬張る。疑問に思ったが、成葉は拍子抜けて笑う。
「もしかして、 支社長の選ばれた本がお気に召しませんでしたか?」
小秋は首を横に振った。
「いいえ。お父様らしい本選びでした。特に今年は……。けれど昔、読んだことがあるものでしたから。どうやらお父様は、状態の良い古本をわたくしに改めて贈ってくれたようですね」
「どのような本です?」
「なぞなぞ本ですわ」
「なぞなぞ……と言いますと、謎解きの問題集とか、そういう物でしょうか」
変な贈り物だなと成葉は懐疑的になった。もしそうなら、別に古本でなくても良いのではないだろうか。新品が存在しないような本?
対面する傘士の考えを察したように、小秋は穏やかに微笑んだ。
「問題集とは少し違いますわ。この本、たった一問しか記載されていないんですから」
「それはまた……不思議な本ですね。きっとその問題が相当難しいのでしょうか」
もしかして哲学の本か何かだろうか、と成葉が質問しようとすると、小秋はくすくすと笑い始めた。
「小秋さん?」
「お聞きしたいようでしたら、成葉様にも教えて差しあげますわ」
「よろしいのですか」
「はい。原文通りですと分かりづらいので──
小秋はこほんと、咳をした。
「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものとはなにか──。成葉様、これがそのなぞなぞですわ」
「朝は……」
同じ言葉を口にする成葉だったが、全く理解できなかった。なんだそれは──時間によって足の数が変化するものなんて、この世にあるのだろうか、と。
成葉が考え込んでいると、小秋は見かねたように、だが悩んでいる彼のことをどこか愉しそうに眺めた。
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