16話
小秋の要望を聞き入れた成葉は、郊外方面の道から、都市部へと車を引き返した。そちらに小秋が行きたいケーキ屋があるそうだ。吸血鬼になる前に何度か訪れたことがあるという。
渋滞の中に戻る。何度か立ち往生する羽目になるが、抜け道を知っていた成葉は、そこを経由して街中に進むことにした。名古屋周辺を数百キロ単位で張り巡らされた地下道だ。傘士は社用車なら通行費はかからないので、遠慮する必要もなかった。
ゲートを通って地下に入る。トンネル状のその道は広く、真新しく整備された道もあれば、そうではない箇所が目立つ所も混在している。
その昔、交通網整備計画が愛知県で推し進められていた時期に構築が叫ばれたのは、天候に左右されずに走れる地下交通網だった。おかげで地上は今でも、住宅街を少し外れただけの場所ですら不出来な道路が続くが、地下なら快適な道で走れる。
長い地下道から、小秋の道案内に従って、最寄りの出入口へ向かう。
目的地の店が構えるテナントビルに着く頃には、時刻は夜七時を回っていた。小秋によれば営業時間には余裕があるそうだ。
ビル内の地下駐車場に車を停める。車椅子を用意するべく、いつものように先に降車しかけた成葉だったが、助手席にいる小秋へ目をやる。
「どうされますか?」
「あら。何がですか、成葉様」
「ここからお店までどうやって向かわれるのかと。車椅子、使われますか?」
小秋の仮義足をちらりと見下ろすと、彼女は「いえ」と短く答えた。複雑な微笑だった。
「人が行き交うところですもの。歩かないと、お邪魔になってしまうかもしれませんから」
「そんな……小秋さんが気にされることありませんよ。誰もそう邪険になんて思いません。堂々としていればいいんです」
「そうでしょうか」
小秋はぼんやりと返事した。何度か緩慢に瞬き、少女の長いまつ毛が揺れる。
「わたくし、足を無くしてから、人目につく所にはあまり出てこなかったんです。普段のお買い物は家の者に任せっきりでしたし、施設以外の場所に行くのはこれが初めてなのです……」
「それで緊張されているんですね」
「ちょっとだけですわ」
小秋は照れた様子で、自身の左足に手を置いた。
その様子を成葉は懐疑的に思った。ついさっきまで気分が沈んでいた彼女を雨鬱だと考えていたが、今は他に言いたいことがあるように見えたのだ。
「もしお望みでしたら……今から本義足に付け替えましょうか?」
成葉はそう訊ねた。
予備として使っている仮義足は、パイプのような簡素な部品で構成されており、若い女性が身につけていて気分の良い物ではない。
吸血鬼となったこの客の少女は、それを気にしているのではないか──という配慮の声掛けだった。だが、当の小秋は、申し訳なさそうな表情で強く首を横に振る。
「ごめんなさい。その……成葉様がお作りしたこの足が気に入らないわけではないんです」
「無理に気を遣わないでください。小秋さんはお若いし綺麗です。完成された足を付けた方が気分も弾むものですよ」
そのまま成葉は続ける。
「本義足だって私が作った製品で、自信作です。小秋さんが人の目に触れるのでしたら、私としてもあの足を付けていただいた方が、傘士冥利に尽きるというものです」
成葉は後部座席を指さした。後ろの足元には義肢用のアタッシュケースを寝かせており、中には小秋の本義足が収められている。今日のリハビリにおいて内部機構のパーツ変更の話が浮上したので、成葉がブランデル社で直すために持って帰ってきていた。
「……あちらの足は、わたくしが装着してもまだ歩けないのではなかったでしょうか」
小秋は左足を撫でる手を止めた。
「“高く登ろうと思うなら自分の足を使うことだ。高い所へは他人によって運ばれてはならない”──とも言います。成葉様。貴方のお気遣い、本当に嬉しく思いますけれど、わたくしは自分で歩きますわ」
そう言って、小秋は独りで助手席から降りようとした。成葉は咄嗟にその白い手を掴んだ。
「お待ちください」
「止めなくてもいいではございませんか?わたくしも、早く一人で歩けるようにならないと……」
「たしかに私は以前に、自分の力で立っている人間が強いと小秋さんに言いました」
小秋は振り向いたものの、何も言い返さず、青い瞳をじっと差し向けただけだった。
「だからと言って……すぐにおひとりで立てるようにならなくても別にいいじゃないですか。他の動物たちは生まれて間もなく自立しますが、私たちは人間です。成熟の遅い、欠陥動物なんです──小秋さんだって、ゆっくりで問題ないじゃないですか」
「……あら。ふふ。お生憎、わたくしは人間を辞めてしまった吸血鬼ですよ」
「
成葉は小秋の
小秋が自身の身体的な欠損と、それを軽口でごまかして受け入れようとしない姿が、日常では聡明なはずの彼女と比較して、成葉にはとても哀れに映ったのだ。そして、それは否応なく、吸血鬼だった彼女の母親への侮辱のように感じられたのである。
諭される立場になった小秋は、控えめなその表情を固くした後、ついに目を伏せた。途端にいたたまれなくなり、成葉は彼女から手を離す。
車内に沈黙が降る。
徐々に気まずさが増していく。成葉にはそれは二人が共有するものではなく、自分一人だけの問題のような気がした。
──私は、何をしようとしていた?
心の中でその疑問が果てなく反響を起こす。
小秋に対して、あの本義足を付けようと提案したのは、本当に傘士としての責任感のみから発生したものだったのか。他にもっと、後ろめたいものがあったのではないだろうか──。
成葉は何度も自問した。彼は答えを持っていたが、無意識に分からないふりをした。青年の胸の中ではガラスの靴が踊って落ちて、粉々に割れている。
ガラスの靴。不意に、津吹の顔がよぎった。
夜遅くの制作部屋で、十年以上前の義足パーツのカタログ本を読んだ時の──あの苦悩と嫌悪を混ぜた顔。それはもう二度と見たくない、憧れの人物からの隠された激情だった。
今の小秋が本義足を拒む理由は、なんとなく津吹のそれと似通っていたように思えた。成葉は、そのことを心の中で強く否定したかった。
時間にして数十秒ほどだが、重い空気を払いたかった成葉は、おずおずと発する。
「すみません。傘士風情が……出過ぎた真似でした。小秋さん、お店に行きましょうか」
小秋は相槌を打ってくれなかった。再度、何か声をかけようとした時、ようやく小秋から反応があった。
「……成葉様、少しお待ちくださいませ」
「え?」
小秋の方を見ると、彼女は何やら足元で手を動かしていた。あろうことか仮義足を外そうとしていたのだ。
「考えてみたのですけれど、貴方のおっしゃる通りですね。そうですわ、せっかく人目がある場所に行くんですもの──美しい足があるなら、そちらの方がいいに決まっています」
リハビリの最中で、自力でもスムーズに脱着できるようになったらしい小秋は、左足を外すと、成葉に微笑みかける。今しがたの暗い顔つきとは違い、それは晴れ晴れとした女性の笑みだった。新しい洋服か靴でも手に入れたかのような。
突然のことに成葉がどう切り出せばいいかと考えあぐねていると、小秋はいたずらっぽく微笑した。
「どうされたんですの?わたくしに本義足を付けてはくださらないのですか、傘士さん?」
「あ、いえっ。すみません。今、準備します」
「お願いしますね。それから、車椅子の事なのですけれど──」
「はい?」
「成葉様……おしていただけますか?」
*
テナントビルの七階にそのケーキ屋はあった。スイーツ系統の店にしては珍しく、夜遅くまで開いているようだった。
本義足の装着作業を終え、店先まで、小秋を乗せた車椅子をおして歩くことになった成葉だったが、周囲を歩く人たちからは予想以上に視線を受けた。小秋がとびきり美人の吸血鬼だからである。
一般的に吸血鬼になると髪は脱色して白くなり、瞳は青に染まる。日本人にはまずこの姿は似合わないが、小秋は、女学生の割に長身で比較的端正な顔立ちをしているばかりか、一朝一夕では身につかない気品溢れる良家育ちの佇まいや風格が功を奏して、可憐な女性という吸血鬼像を見事に完成させていた。それは常に道行く人が振り返るほどの華やかさだった。
その評価の中に、成葉が作った本義足が何パーセント加味されているのかは定かではないが、通行人の主婦同士の話し声に「素敵な足ね」という感想があったことは、成葉を多少なりとも元気づけた。
入店し、様々なケーキが並ぶショーケースを前にした二人は、早速注文した。帰り道が待ち遠しいという理由で、
「すみません。本当に助かりますわ、成葉様」
関節が駆動しないので全面的に助けを借りて、車椅子から身体をソファへ移した小秋は、車椅子をたたむ傘士へ小さく頭を下げた。
「いつものことですから」
成葉も座った。対面するテーブル席は、喫茶店のような造りで
注文したいちごタルトと紅茶がふたつずつ運ばれると、小秋は目を輝かせた。
「懐かしいですわ。このタルト……昔、こちらでお父様とお母様と一緒に食べたことがあるのです」
「いい思い出ですね。それでこのお店を希望されたのですか」
誕生日を祝うには、同じいちごでもショートケーキを食べる印象が強かった成葉には、注文の時から意外なセレクトに思えたが納得した。
「そうなのです。でも、無理を言ってしまってごめんなさい。なんだか……遅くまでわたくしに付き合わせてしまう形になってしまって」
「どこにでもお連れすると言ったのは私ですよ。それに、本日は小秋さんのお誕生日です。傘士としてはこれくらいのことしか出来ませんが、喜んでいただけたのなら何よりです──。小秋さん。改めまして、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。とても嬉しいですわ」
小秋は口元を隠し、気恥ずかしそうに上目遣いで頷いた。
傘士と吸血鬼は、いちごタルトと紅茶を口にしながら談笑した。店先に予約はしていなかったので、
固く香ばしいタルト生地と、果実が転がるどろりとしたいちごソースは品の良い甘さだ。
「美味しいですね」
「同感です。それにしても久しぶりですよ、こういうお店で甘い物を食べるのは」
「あら、そうでしたのね。お父様といい……やっぱり傘士の方はいつもお忙しいのでしょうか?」
「忙しいのもありますが……私が念頭に置いているのは血液のことです」
「血液、ですか?」
「そうです。私たち配血企業の人間は、献血ができないと会社に居場所がありません。糖尿病が難敵なので、甘い物はあまり摂らないようにしているのです」
「そういった事情があったのですね……では、日々のお食事でも注意されていらっしゃいますの?」
「食事に関しては自分で作ることがあまりないので……そこまでは。私は会社の独身寮に住んでいますので、大体の食事は会社側に管理されています。食事管理と、二ヶ月ごとの健康診断と合わせて、血液の品質問題を無くす取り組みが我が社の特徴で……」
「とても徹底されているんですのね。初めてお聞きしたものもあって、大変面白いお話でした……文字通り、身を粉にする思いでお父様の会社を支えていらっしゃるのですね。わたくし、少々驚きましたわ」
「慣れればこれも普通ですよ。傘士なら当然です」
小秋はフォークをかたりと皿に置くと、寂しそうに苦笑する。
「これからは成葉様にお出しするお茶菓子も、お砂糖の含有量が少ないものに変えましょうか?」
「……それはまた、別問題です。お客様とのそういった楽しい場に私たちの事情を押し付ける訳にはいきません」
「うふふ。まるでお釈迦様みたいでいらっしゃいますこと。肉食を良しとしないのに、説法のお礼にごちそうさせてほしいと言った信徒からの肉料理を食して腹を下された……」
小秋が薄く笑った。成葉は胸の前で手を振る。
「そう高尚なものではありませんよ。私はただの傘士です」
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