第3章 吸血鬼の足

14話

 “されどなんじ 吸血鬼となりて地を徘徊せんは

 まず墓をあばかれ、

 亡霊の姿して汝の家を探し、

 家族一同の血をことごとく飲みほすべし”


 ──バイロン『異端者』



 “その血は私をいちばん愛してくれたものを

 海のなかから呼びもどすことはできないのだ”


 ──リルケ『立像の歌』



 “私はむなしく涙を流すが 血もこれほどつらくはない あなたのためなら、心から血を流しもしよう”


 ──シェリー『エピサイキディオン』



 曇り空の下、正午を迎えた街外れには、冷たい空気が立ちこめていた。昨夜の台風で地上にばらまかれた瘴雨は時間経過で無害化し、地面に浮かぶ水たまりはアスファルトと空の色だけを浮かべている。

 花束を抱えた傘士の青年は、駐車場で社用車から降りた。他には誰もいない。彼はフードを外した外套姿で、通い慣れた道を独り歩き始める。

 十月三十一日。成葉はとある墓地に訪れていた。

 愛知県岡崎市の北西にあるその場所は、瘴雨の対抗策として1980年代から始まった国家規模の巨大土木事業──交通網整備計画の一環で生まれた土地区画のひとつだ。大きな商業ビルが建設される予定だったが破棄され、今は富裕層向けの墓地を収めている。霊園と言った方が表現としては近い。

 瘴雨発生以降、墓地と墓参りは姿を変えていた。天候を問わず、外出に忌避感を覚えた人々が増えたので室内墓地が主流となり、従来までの墓参りは、使用人や代行サービスの人間を使う余力のある家に限られたのだ。交通網整備計画により、点在していた地方の墓地解体が必然性を増したことも日本人の「墓離れ」の加速を手伝ったらしい。

 灰色と人工的な緑からできた茫漠ぼうばくたる墓場は、もの寂しかった。

 雨を警戒しつつも、成葉は迷うことなく歩き、最奥にある墓へ向かった。津吹家のものだ。そこだけ他のエリアよりも地面が一段高くなっており、囲う生垣も丁寧に管理されているのが分かる。


 津吹家は戦前よりも遥か昔から脈々と続く、指折りの旧財閥だ。現在も津吹グループという企業群として存在している。

 同グループは、教育、医療、建設分野はもちろんのこと、自動車・造船産業でも堅実な成果で影響力を放っている。瘴雨以後は、需要が高まった気象観測衛星や宇宙探査機の開発も手がけ、瘴雨解明プロジェクトを推進する先進国や組織へロケットブースターなどの技術を提供し、瘴雨で悩む国には物資や土地開発の事業を支援するなど──目覚ましい活躍ぶりは国際的にも認知されている。国内最王手と言われる配血企業のブランデル社ですら、グループ内では所属するひとつの駒に過ぎない。

 瘴雨以後、特に雨の多い日本では人の移動が減り、地方経済は各方面の企業群が実質的に支配しているという事情もあるため、東海地域を含む多くの地域で津吹グループに逆らえる者はほとんど存在しなかった。それは例え相手が国家権力であってもだと噂されるほどだ。


 成葉は周りに人がいないことを確かめると、その津吹家の墓の前で膝をついた。白い花束を供え、墓石を仰ぐ。


「こんにちは。奥様」


 柔らかい声で挨拶を投げた。

 返事はないが、それも構わずに成葉はここで眠り続ける女へ話す。


「奥様がお好きなツツジの花をご用意しました。こちらに置かせていただきますね……。以前にもお話ししましたが、残念ながら今年は旦那様が出張でいらっしゃいません。それで、代わりに私が参った次第です」


 吸血鬼の優しいあの笑い声は聞こえない。悲しい気分が湧く前に、成葉は意識して笑顔をつくる。


「なんて、すみません。そうでなくとも奥様にはお会いしていましたね。毎年……この日には」


 ツツジの花弁が手に触れ、成葉はふと目を落とした。すると一輪の薔薇が墓石の脇に供えられているのが見えた。

 手を伸ばして薔薇を掴むと、棘で親指を少し切ってしまった。真っ赤な血がぷつりと溢れる。B型のRhマイナス。希少な血液。それは涙の雫のように、ぽたりとツツジに垂れた。


「申し訳ございません。奥様」


 成葉はハンカチを取り出して血を拭き取ろうとしたが、その手を止めた。


「……奥様。あれからもう九年が経ちました。私はまだ信じられません。ついぞ私の血も……義足も、結局あなたには届かずに終わってしまったのですね。傘士の仕事に慣れてきて、そのことを最近改めてよく考えるのです」


 皺に沿って血に染まる一枚の花びらを眺める。それは砂地をかき分けて流れる川にも、張り巡らされた血管の筋のようにも見えた。


「失礼しました。無駄話でしたね。仕事は……順調です。相変わらず毎日忙しいですが、支障なくやっております。あなたの……お嬢様のこともご心配なく。私にお任せください。お嬢様は大変美しくなられましたよ。初めてお会いした際、私はつい、あなただと見間違えてしまったほどで──」


 そこから先は上手く続かなかった。

 必死に取り繕っていた頬は歪み、大粒の涙が雨となって激しく伝ったのだ。それを振り払うべく立ち上がると、墓で眠る女へ深々と頭を下げた。


「……今は誰も私たちのことを見ていません。奥様……最後に一度だけ、こうお呼びすることをお許しください……」


 成葉は深く息を吸った。


「母さん」



「だからねぇ、男なんて例外なくみーんな馬鹿なのよ」


 消毒液と書類を足したみたいな清潔ながらも硬い匂い。公的施設の空間特有の匂い。その空気を鼻に覚えながら、成葉は、小秋が理学療法士の宇田うだと談笑する姿をいぶかしげに見守っていた。

 時は十一月一日の夜。平日のオンラインの授業後、普段通りに小秋を連れて訪れていた吸血鬼向けのリハビリ施設。

 ちょうど今日から、小秋の本義足に搭載したマイコンに歩行速度を学習させるための訓練と本義足での本格的なリハビリが始まっていた。ただ今日は、リハビリのプログラムが全てが終わってもやや時間が余っていた。

 そこで、残りは宇田とのお喋りを望んだ小秋に付き添う形で、成葉も半ば加わっていたのである。宇田は、仮義足の時からの小秋のケア担当者だ。吸血鬼の歩行訓練を補助する理学療法士という職種の人間で、施設に在籍する若い女性スタッフだった。成葉とは同年代で、他の吸血鬼の客を介して一年ほど前から付き合いがある。仕事はそつなくこなし、連絡も迅速だから彼女には成葉も信頼を置いていた。

 問題があるとするなら、繊細な職種なのにも関わらず、彼女は小秋とは真反対のように粗雑で男勝りな性格であることだ。


「小秋さんに妙な知識を吹き込まないでください」


 世間知らずの令嬢の客に、愚痴めいたおかしな知識を盛られては困る。そう思った成葉は、女性同士の雑談の間に割って入った。

 宇田はあからさまに機嫌を損ねた。


「はぁ?何よ、本当じゃない。男なんていつまでたっても馬鹿なんだから。何歳になってもロボットだとか怪獣だとか、アイドルか戦車とかバイクにハマってる奴ばっかり」

「あなたにとっての男はそうかもしれなくても、それをまだ高校生の小秋さんに擦り付けないでください。可哀想です」

「うっさいわね。あ、そうだ、こんなのほっといてさー。小秋ちゃんは付き合ってる人とかいるの?」

「だから変なことは……」

「わたくし、どなたともお付き合いはしておりませんよ」


 小秋は小さく笑って首を横に振った。はにかむ表情が女性らしくて綺麗だった。ショートの横髪を耳にかける動作も品よく、宇田のそれとは雲泥の差だった。


「ぐぅ、かわいいなぁ小秋ちゃんは〜」


 宇田は小秋の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 相手をどこの誰だと存じてそんなことを──。ぞっと冷や汗をかきながら、成葉は思わず舌打ちしそうになった。


「前々から言おうとは思ってたんですが、お客様に向かってなんて態度なんですか。気が緩みすぎでは?」

「そう?そもそもね、アンタぐらいなもんよ。自分の担当で、しかも仲良いお客さんに対してずっと敬語で通してるの。ま、お客さんの前じゃなきゃアンタだって別にフツーだけど」

「普通も何も、私はただお客様への礼節というものを重んじているだけで……」


 成葉が微妙な反応を示すと、宇田はヘラヘラと笑った。彼女と二人で会話する時、特に言葉遣いは気にしないのは事実だった。他の同僚が相手でもそうだ。

 小秋は「あら」と片手を頬に当てて、首を傾げた。


「成葉様、わたくしがいない場では砕けた口調でお喋りするんですの?」

「……多少、ですが」

「そうなのですか……」

「ほらぁ、小秋ちゃんもなんか距離っぽいの感じてそうだよ?」


 小秋の左腕に宇田が絡む。彼女は媚びるように視線をやってきたが、成葉はそちらには一瞥もくれずに、腕時計を見た。頃合だ。

 成葉は、近くに置いていた折りたたみ式の車椅子を手際よく展開する。


「宇田さんの意見は聞いていません。それにもう時間ですから、我々はこれで失礼します」


 冷たく言い捨てると、成葉は吸血鬼の少女に向き直ってから笑みを取り戻した。手を差し出す。


「行きましょう、小秋さん。足は平気ですか?」

「……はい」



 施設からの帰り道。屋敷に小秋を送り届けるべく、成葉は車を走らせていた。

 道中、まったく雨は降っていなかった。十一月に入ったが、早くも秋雨シーズンが落ち着きを見せ始めたようだ。気象観測課の人間によると、幸か不幸か瘴雨そのものも例年に比べて頻度が低いらしい。


「やっぱり、いけませんか」


 助手席の小秋から声をかけられた。


「何がです?」

「話し方のことです。わたくしにも、もっと自然な言葉遣いで接していただきたいのですが」

「小秋さん、そのことは──」

「立場の問題とおっしゃるつもりなのでしょう?」


 車が信号で止まった。同時に、シートベルトに制限される形ではあるものの、助手席から運転席へ小秋が身を乗り出してきたのが視界の隅に映った。

 目を向ければこちらに近づく透き通る白い肌がそこにはあるはずだった。だが、罪悪感に似た何かが身体の内側から沸騰した成葉は、前方の赤くなったばかりの信号を注視する。


「その通りです。私は傘士で、小秋さんは大切なお客様です。それにあなたは支社長の……」

「ご息女、お嬢様……ですか?わたくし、そういった呼ばれ方はこの短い人生の中にあっても聞き飽きましたわ」


 小秋がそっぽを向き、身を引いたのが分かると、成葉はちらりと彼女を盗み見た。しかし、小秋は横目に青い瞳を運転席へと傾けていた。ぴたりと彼女と目が合う。綺麗な青い瞳。凛とした話し方とはかけ離れた、紛れもない少女の光がそこには宿っている。


「嫌味な言い方になってしまいますけれど、成葉様がその立場を気にされてきたのは、わたくしの傘士になられてからです──せいぜい二ヶ月ほどのことではございませんか。わたくしには遠く及びませんわ」

「否定はできませんが……」

「大切な足を任せる他でもない貴方にぐらい、心を許してほしいと思うのは駄目なのですか?」

「そうとは言っておりません。小秋さんのお気持ちは汲み取りました。これは立場というより……単純に社の規則です。どうかご理解を。今の私には、そうとしか」

「……もう。真面目も過度だと悪徳になりますわ」


 小秋は困ったように苦く微笑んだ。

 前方の信号が青になる。成葉は、会話を遮る口実として快活にアクセルを踏んだ。運転中、小秋の視線は決して離れようとはしなかった。

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