11話

「それは……」


 成葉は口ごもった。

 青年とは反して、津吹の目は鈍く光っていた。彼はページの背表紙を確認すると、その目を痛いほどに見開いた。冷めた表情で、口からは咳ともため息とも言えない細い息が漏れる。

 気づいたのだろう。部下の傘士が義足制作を介して行おうとしていることを。成葉の頬はかっと赤くなった。

 義肢よりも遥かに重く、硬い沈黙。雨音が二人の傘士の仲裁人となる頃、成葉は唾を呑んでから「すみませんでした」と発した。


「これは……私が勝手に、独断でやっていることです!お嬢様のご要望ではありません。もし支社長をご不快にさせてしまったようでしたら、どのような方法でも謝罪を──」

「いいや、いいんだ。君のことだ……悪意がないことは分かってる」


 津吹は手にしていたカタログを成葉に返し、こわばっていた顔つきをほころばせた。そのはずなのに、表情に差した険悪な影は彼の顔から去ろうとはしなかった。

 失望されてしまったのだろうか、と成葉は項垂れそうになる。


「本当に申し訳ありません」

「……やっぱり成葉も、まだ忘れられないんだな」

「え?」

「あいつのことだよ。そうか、今年で九年か」


 乾いた口調だった。成葉は気圧されて黙ったが、諦めて薄く笑う。


「……奥様はどなたよりもお美しく、素敵な方でした。私に名前を与えて下さいました。それだけではありません。あの方は、私の……」

「俺にとってもそうだった」

「……」

「あいつは、本物の吸血鬼だったんだ。今ならそう思えるよ」


 ふっと煙になって消滅してしまいそうな声で言い終えた津吹は、上着を持ち直し、背を向けた。着用している制服の単調な色の布地が成葉の目に映る。それはいつの日かに見上げた、大きな背中だった。


「待ってください!」


 成葉は、退室しようとする津吹の手を咄嗟に掴んだ。優しい父親を思わせる手。大人の手。それを自分から逃がさぬよう、強く手繰り寄せた。


「支社長も同じです」

「同じ?」

「奥様と同じ──私の命の恩人です。そうですよね?」

「……だから散々言っただろう、そのことはもう忘れろ。恩は仇で返されなかっただけマシだと思うこと──。客商売の傘士として、一番初めに教えたじゃないか。俺は君に、恩を返してもらおうなんてこれっぽっちも思ってない」


 津吹は淡白な感じで言った。


「でも私は返したいのです。これからも……だから、ここに入社して傘士になったんです」


 いつの間にか、成葉は自身の語調が駄々をこねる子供のようになっていると察した。相手のごつごつとした手を握りしめ続ける。


「君に傘士になれと言った覚えはない。他人の人生を決めつけて縛るつもりなんて、俺には……」


 振り向いた津吹は、青年の手を覆うように右手で包んだ。砂利でも噛んだような苦しげな表情だった。


「成葉。ブランデル社を辞めたくはないか?」

「……何をおっしゃるのです?そんなことは絶対にありません」


 力を込めて首を振った。成葉は、津吹の言葉の意味が分からなかった。


「津吹家への忠誠心のつもりで働いてるのなら、辞めてくれていい。君には君の人生がある。いつまでも過去に囚われるな」

「違います、支社長。傘士として生きる道は自分が選んだことなんです!どうか信じてください」


 実の親子ほど年齢の離れた二人の傘士たちは、数秒、腹の底を探り合うように視線を交わした。間もなく年上の男の方が引く。


「君が入社した時、俺はこんな言葉を教えたよな。“われに純潔と……」

「禁欲を与えたまえ”、ですよね」

「覚えていたか」

「支社長のお言葉ですので。しかと記憶しています」

「ありがとう。本当に会社を辞める気がないなら、今は、何も言わずにその言葉を胸に仕事をしてほしい……仕事だけを。お願いだ」

「ですが支社長、お嬢様の……」


 小秋の義足の話を出そうとしたが、津吹の眼差しにあてられた成葉はそこで言葉を切った。父親に怒られた息子のように、肩を縮める。


「それでいい。もう俺に対して何も言うな」


 津吹は成葉の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「“決して女を見てはなりませんぞ。いつでも地面を見つめて歩きなされ”──。君は何事にも縛られなくていい。我々にも……」


 津吹は上着を羽織うと、今度こそ部屋を後にした。彼の温もりが瞬く間に霧散し、成葉の手から抜け落ちていった。



 その日、朝から雨は止むことはなかった。一時間あたり六ミリ前後で、愛知県のほぼ全域に低濃度の瘴雨が降っていた。

 車を付近に停め、耐雨外套を纏うと、成葉は外に出た。深呼吸する。嗅ぎれ慣れた特殊なビニール製の外套の匂いと、雨で蒸れたアスファルトの匂い。それらが鼻腔を突いてくると、仕事中であることを実感した。手にした鞄の重みを再度確かめ、歩き出す。

 小秋の屋敷へと向かっていたが、辺りはさながらゴーストタウンだった。

 街中を進むのは少数のトラックのみで、人影は全くと言っていいほど見かけない。雨の日は、物資全般の配送に携わる職種か、血液配送を行う人間以外は誰も外を出歩かないので当然の光景だが、改めて眺めていると恐ろしいものだった。

 空からの雨は、アスファルトの道路を赤く濡らしていき、そこに血溜まりのような雨潦うろうをいくつも生み出している。

 瘴雨の雨粒が赤い理由は定かではないが、一説には、水滴を住処とする例の微生物の構成物と酸素が化学反応を起こすことによって、数時間の間は赤く染まって見えるらしい。しかし微生物の寿命が非常に短いのか、瘴雨の水たまりといえども半日もすれば人体にも無害で無色透明な元の水質へと戻る。といっても、一日中も雨が降り続くような日の外出が危険であることは否定できないのだが。

 開かれた屋敷の門をくぐり、玄関扉をノックする。少しして、かちゃりと音を立てて扉が開き、室内から小秋が顔を出してくる。訪問者を見るなり彼女はにこりと微笑んだ。


「ごきげんよう。成葉様、雨の中お疲れ様です。ご無事なようで安心しましたわ……」


 小秋のリハビリは順調だ。最近の出迎えは、仮義足を装着して車椅子から立ち上がっている方が多い。成葉はそれが例えようのないぐらい嬉しかった。

 誘われるようにして屋敷へ入る。小秋は労いの言葉とタオルを渡そうとしてきたが、成葉は薄く笑顔を返すと、その手を制すように半歩退いた。


「小秋さん、危ないですよ。瘴雨の水滴が飛び散るかもしれないので離れてください」


 赤く染まる耐雨外套の肩にグローブをはめた手をやった。外套の表面には、瘴雨性微生物の働きを抑える耐雨物質が塗布されているものの、油断は禁物だ。


「先にお部屋の方でお待ちください。私はこれを脱ぎますので」

「あら……申し訳ございません。気が利かず──では、タオルはこちらに置いておきますので、よろしかったらお使いください」


 小秋はどこか残念そうに苦笑した。


「毎度ながらすみません」

「お気になさらず。わたくしはお茶を淹れてきますね。実家の方から良い茶葉を頂いたんです」


 壁際の手すりに片手を伸ばし、小秋はそれに掴まりながら廊下を進んで行く。以前ほどそこに身体を預けている素振りはなく、自力で歩けるぐらいに彼女の身体は快復しているようである。

 何歩か進んだところで、小秋は一度立ち止まり、ちらりと振り向く。その視線を感じた成葉は外套を脱ぐ作業を中断した。


「……先日、お父様の方から連絡がありました」

「支社長からですか」


 思わぬ人物の名前を聞き、成葉はくぐもった声で返事をした。


「はい。義足のことで」


 小秋はぽつりと言った。

 ついにその話題が出てきてしまったか、と成葉は静かに息を呑んだ。

 深夜の義肢制作部屋での津吹との会話から、既に半月が経過し、とっくに彼はドイツへと渡っていた。見送りはいらないという津吹の意向で、彼と会うことが叶わなかった成葉と小秋は、互いになんとなく津吹の存在を出すことを避けた。義足の話にも触れず、リハビリとその送迎の日々を淡々とこなしたが、成葉の頭の片隅には、小秋と義足をめぐる津吹とのやり取りが住みついて離れることはなかった。津吹の発言の意図を汲みあげようとしていたのもあるが、例の約束を進展させられなかったことに対する小秋への罪悪感もあった。

 それに小秋との約束の反故は、義足の破棄に直結している。血液製剤を除いて、この屋敷と彼女との縁を紡ぐのは足において他ないのだ。

 焦る気持ちで小秋の左足を見た。仮義足。自分が作った、彼女のための足。外套を脱ぐ前、床に置いた鞄を見下ろす。中には一本の足が収められている。他の仕事の合間を縫って、連日夜通しで制作したそれは、今日、小秋の身体に合わせることになっていた。

 そう、彼女のための……。

 玄関の方向へ完全に身体を向き直すと、小秋は成葉へ丁寧に頭を下げた。九月初めの頃、義足制作を断った彼女の冷たいお辞儀が思い出される。

 今すぐにも契約書の客用の控えを返却されるのかと身構えそうになる。だが、どうも客の少女は喜ばしそうな様子だった。


「成葉様。本当にありがとうございます」

「……すみません、一体何のことで?」


 自分が感謝されている理由が分からず、成葉は困惑した。約束を果たせなかった以上、こちらは怒られ、追放される立場にあるのではないか。

 廊下に立つ小秋は「ご謙遜を」と小さく笑った。彼女の雪花石膏せっかせっこうのように美しく滑らかな白い肌の口角が上がり、吸血鬼の鋭い八重歯が一瞬だけ外に姿を覗かせた。


「国際電話でお聞きしたんです。わたくしの大腿義足を準備してくださるよう、お父様を説得して下さったそうですね。本当に何と感謝を申せば良いのでしょうか……わたくし、大変嬉しく思いますわ」

「……え?」


 外套の蒸れで出た額の汗が、冷や汗となって頬まで伝った。心臓の鼓動が瞬間的に遅くなり、途端に早くなったように思えた。

 小秋はいつの時の話をしているのかと釈然としなかった。約束を守れなかった後悔の念で、津吹との会話を幾度となく反芻はんすうしていた成葉にとって、それは確信に近いものだった。

 義足について津吹と話をしたことはある。小秋との初回契約後に、寮の前で待っていた彼と血液配送の契約書を渡した際や、それこそ半月前の深夜に制作部屋でばったり会った時に。

 だが、直接の形で小秋の義足を制作するよう説得したことは一回たりともなかった。


「私が、支社長を説得したというのですか?」


 おそるおそる訊ねると、小秋が弾かせていた笑みを不審そうに落ち着かせた。


「もしかして違いますの?」

「いえ、そういう訳では……ないのですが」


 津吹を説得すると過去の自分が豪語したこともあったので、おいそれと簡単に事情を打ち明けるわけにはいかず、成葉は小秋の話に合わせた。

 どういう訳か、津吹はあれほど拒んでいた娘の大腿義足を作るよう心変わりしたらしい。


 でも、どうして──?


 成葉は、絵画を眺めるような遠い目で白髪の少女を見た。雨天とあってか仄かに暗い室内で、彼女の二つの青い瞳が微かにきらめいた。


「そうでしたか。うふふ……おかしな成葉様」

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