10話
わたくしは好きですよ。
小秋はたしかにそう言った。
雨が好きだと。
あの雨を?いや、そんなことは──。
黒い窓を打ちつける雨の勢いは安定せず、
彼が使うエリアのみ電気で照らされ、そこだけが灯篭の淡い光のように浮かび上がっている。
周囲には、数時間前に他の傘士たちが手がけた、作りかけの義肢が何本もある。それらは固定具で直立した状態で放置されており、傍からはこの部屋は解体したマネキンの手足を収めた倉庫のようにも見えるだろう。昼間の休憩時間に人が掃けた制作部屋を目にすると現代アーティストの工房か何かと思えるが、それも真夜中では不気味でしかなかった。
作業を一時中断し、成葉は雨が垂れる窓の方を眺めた。特別耳を澄ませなくとも、ざあざあと豪快な音色が聞こえてくる。窓は赤くなかった。
残業で作業や調べ物を制作部屋で行う際、傘士は人によって、音楽やラジオ番組などを聴きながらやる者もいるが、成葉にはそういった習慣はなかった。装備品として携行している無線端末も、今は電源を完全に落としているので、気象観測課が社員向けに四六時中発信している天候のニュースも届かない。
今夜もひたすら、天から雨が引力に導かれ、なされるがまま流れていく。
ふと、小秋の母親を思い浮かべた。何度思い返したか数え切れない、あの昔の記憶を。名前をもらった時のことを。本に囲まれた部屋で、静かな笑みで優しく語りかけてくる女の存在を──。そして、その時にも降っていた雨を。
「……あの人も、雨がお好きだったっけ」
世界に初めて赤い雨が降ったのは、米ソ冷戦下の1972年だった。
アメリカ西海岸を襲ったハリケーンが運んできた雨雲から、地表に注がれた赤い雨。そこには、検出されたことがない正体不明の微生物が潜んでいたのである。人体のみに有害であり、その他の動植物へのネガティブな影響は絶無。森林や土壌、海中環境へのダメージも存在しない。この奇妙な微生物は雨粒に潜んで地表を襲い、瞬く間に人類の生存を脅かした。
赤い雨を浴びた症状の個人差は大きいものの、大抵の人体は急激に血流機能が阻害され、数時間足らずで四肢のいずれか、特に血管の集中する脚部の壊疽が始まる。また、体内のメラニン色素生成にも深刻な影響を与えるために重症患者の髪は白く染まり、瞳は多くが青か群青色へと変貌する。理由は現在でも掴めていないが、八重歯が極端に伸びるなどの異常な人体変異も発現する。
更に全身へ微生物が波及すると吸血鬼化が本格的となり、数ヵ月から半年後には、直射日光を極力避けねばならず、定期的に他人の血液を口から摂取しなければ生きていられない虚弱な身体へと作り替えられてしまう。
冷戦という人類未曾有の非常事態に呼応するかのように突如として出現したこの雨は、日本でも1974年に愛知県にて初観測。その後は気象庁改め気象省により『瘴雨』と命名された。
それは社会問題とされていた売血が国内から完全に無くなり、輸血医療に扱われる血液製剤がすべて無償の献血由来のもので賄われるようになった記念すべき年の出来事だった。
当然ながら世界は激しく揺れ動いた。
多くの国は血液の確保に苦心し、売血が部分的に復活した。人の良心が破壊され、血液事業の過剰な営利化に伴って、献血が廃止された国もある。
吸血鬼という新たな人々が社会に現れたことによって、世界中で、特にキリスト教圏の国や地域の秩序は完全に崩壊した。高まった差別感情が原因で殺人や暴動が日夜続いたのである。反吸血鬼を宣言した過激派組織の結成や、連続殺人などの大事件は日常のものとなった。大国間でも何度か軍事的な衝突もあった。日本などの宗教の影響が比較的緩やかな国でも、白髪と青い瞳を持つ身体障害者への排他的感情が強まり、血液提供への抗議デモなどが飽きることなく繰り返された。
必然的に瘴雨の克服が叫ばれた。雨という脅威に対抗するため、各国はもちろんのこと、冷戦時代の東西陣営二大国は国策で高高度・宇宙開発を推進させた。
瘴雨の解決こそが次の世界のリーダーを決める。それは誰の目にも明らかだった。
ベトナム戦争敗戦による喪失感と、人類初の月面着陸という偉業による愛国心が
窓から視線を外し、成葉は散らかった作業机に顔を戻した。
欠伸をする。眠気と闘いながら、細かな部品類をひとつずつ精査する仕事を再開することにした。技術者向けの詳細な説明が記載されたカタログを片手に、別で取り寄せた部品を手にして、作りたい義足に適するかどうか判断しては分けていくという気の遠くなる作業をしていた。小秋の本義足に扱うパーツ選定だ。
日付を越えて二十分ほどが経ったところで、今回扱う物を一応、見極め終える。
「やっとか……」
成葉はげんなりと肩を下げた。重たい瞼を乱暴に擦る。手早く片付けを済ませ、帰るため再び立とうとするが、体が一向に言うことを聞いてくれなかった。作業机に突っ伏してしまう。ここ五日ほどはこんな残業を抱えていたので、いい加減、疲れが溜まっていたらしい。
夜の外は、相変わらず
ため息をつく。次いで、自分はどうしてこんなことをしているのだ──と、独り言が漏れるが、すぐさま苦笑に変わった。
彼女のため。成葉の頭にあるのはそれだけだった。
「おぉー、こんな時間に誰かいるのか?」
その低い声と共に、出入り口の扉が開いた。成葉は驚いて作業机から顔を上げる。
廊下から、額に軽く汗を流した男がひょいと軽快な足取りで入ってきたのだ。社の外回りの制服姿の津吹だった。成葉は自分がくたびれていたことも忘れて、「支社長!」と飼い主を見つけた迷子の犬のように立ち上がる。
「どうされたんです?何か緊急の用事でもあったんですか」
「いや、歩いてた」
「歩いてたとは?」
「前と同じだよ。雨が降ってから、傘士として外をほっつき歩きたくなっただけ」
そう言われて、前に男性の独身寮まで、耐雨外套を着用して歩いてきた津吹の顔が浮かんだ。成葉は笑みをこぼす。
「びっくりしました。でもあまり良くないですよ──。瘴雨ではないといえ、真夜中にこんな雨の中を……」
「そうか?成葉だって、夜遅くに仕事してたじゃないか。見てみろ、日付が変わってる。お互い様だ」
津吹は喉の奥で笑い、近くにあった椅子に浅く腰を下ろした。
「それに、俺は今日の昼には発つ。今年はこれが日本で浴びられる最後の雨になる……。ちょっと名残惜しいんで、外套を着て外に出てきたってわけだ。この通り無事なんで許してくれ」
津吹は快活に言ったが、成葉の心は厚い雲で覆われた。
そう、もう時期は来るところまで来てしまったのだ。あれからというもの、小秋以外の客の義足も任されるようになったので時間が作れず、津吹との交渉のチャンスは得られずじまいだった。
津吹の方から来てくれるとは運が良い。今からでも話そうと成葉は思ったが、いざ切り出そうとすると不思議なほど口が動かない。
「あの、支社長」
喋ろうとする唇が震えた。
「ん?なんだ」
成葉にとって津吹との会話は喜ばしいものだったが、小秋絡みのことになると、明らかに緊張に襲われた。その理由が彼にはまるで分からなかった。
「……実は、私から少しお話が──」
「俺もだ。どのみち、空港に向かう前に成葉には会っておこうと思ってたから」
その一言に成葉は嬉しくなって、口から出かかった会話の種火を「本当ですか」とつい踏み消してしまった。
「ああ。もうじき誕生日だろ?今年は当日に渡せそうにないから、先にやるよ」
制服の内ポケットから取り出された小さな紙袋をもらった成葉は、目を輝かせる。
「毎年ありがとうございます!今年も本ですか?」
「そうだ。吸血鬼の小説をまとめた本。出版物の規制法施行以前のレア物だよ。前に出先の古本屋で偶然見つけたから、成葉に……と思って。今後、あの子の話し相手になるから必要だろ?この際、吸血鬼について文学的知見から学んでみるといい」
吸血鬼。あの子。
それらの単語に、成葉はぴくりと身体を硬直させた。憧れの人物からのプレゼントに高揚していた気分がさっと引いた。嫌だったわけではない。津吹から頂けるのなら何だって成葉には宝物だった。
昔、津吹から贈られたサッカーボールを今でも寮で大切に保管しているぐらいだ。ただ、この時の成葉は嫉妬したのだ。他でもない津吹夫婦の愛娘──小秋に。
追い打ちをかけるように、津吹はもうひとつ紙袋を渡してくる。
「これはあの子の今年の分。成葉に預けるから、頼んだぞ」
「……承知しました」
両手で持ったそれを見下ろしながら、小秋にはこのプレゼントの存在を伏せてしまおうかと思ってしまった。成葉は自分自身のそうした考えに動揺した。くだらない邪心を振り払うため、営業時のように明るく声を張る。
「支社長からの贈り物ですか!お嬢様、きっとお喜びになられますよ」
「だとありがたいね。で、あの子とはどうだい?わがままで苦労が絶えないんじゃないか。あんまり君に迷惑をかけてなければいいが」
「決してそのようなことはございません」
「隠さなくていい。今やってた作業だって、あの子の義足のパーツの選別だろ?どれ、最近のだとイギリス製の……なんて名前だったかな、君のとこの課長の奴がね、あの部品をえらく褒めてて──」
片付け損ねていたカタログが作業机にあったらしく、津吹はそれを拾ってめくった。止めようとした成葉だったが、既に遅かった。ページに目を通す津吹の柔らかな表情が段々と固くなっていく。
「……成葉」
一段と低い声だった。
「どうして十年以上も前のカタログなんか見てるんだ?」
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