9話

「今、わたくしを見ていてくださいました?」


 リハビリ器具の手すりに掴まって歩いていた小秋は、子供のように笑って、すぐ近くにいた成葉へと振り向いた。どうやら異質とばかり思っていた人工物が足にフィットしたことを実感し、高揚しているようだった。

 明るい笑顔を浮かべる少女に、傘士の青年は硬かった表情を緩めた。


「もちろんです。小秋さん、この数日でかなり上達されたようですね」

「ありがとうございます。わたくしもそう思っていたところでしたの。成葉様、待っていてくださいませ。今度は……もう少し早く歩いてみせますから」

「焦らなくても大丈夫です。着実に歩ければそれだけで充分ですよ。ほら、危ないですし──前を向いて歩いてください」

「……はい」


 美しい白い髪を揺らし、前方へと顔を戻した小秋は、自身の両側に伸びる平行棒をそれぞれ握って、再び歩き出した。

 不安定な面が残る身体を懸命に支えながら、小秋は一歩ずつ慎重に歩行を進めている。その横には担当の理学療法士の女性がいつでも少女に補助の手を出せるよう、目を光らせてスタンバイしていた。

 その光景を眺めながら近くで立っていた成葉は、足に問題はないことや、小秋の笑みを拝めたことにほっとした。彼女が歩行の練習に集中し始めると、成葉は邪魔にならないよう部屋の隅へと退いた。

 型どり作業から三週間近くが経過したその日、夕方に小秋の学校のオンライン授業が終わってから、成葉は彼女を連れて、近くの瘴雨患者向けのリハビリ施設を訪れていた。

 常日頃も行っている歩行のリハビリも兼ねていたが、今日は前に制作した仮義足が小秋の左足の切断部へ適切に馴染んでいるかどうか最終確認するためである。


 傘士によって義肢が瘴雨患者──吸血鬼の自宅へ届けられる時代になったとはいえ、リハビリと、完成した製品が患者に適合しているのかを審査する過程だけは、医療機関にて医者の観察下で実施されなければならなかった。

 吸血鬼の送迎も配血企業の傘士の業務だ。成葉も、担当である小秋が希望したタイミングで送り迎えをしていた。

 成葉の視界には、相変わらず真剣に歩くことに取り組んでいる小秋が映っていた。繁忙期のため他の仕事も無視できなかったが、彼女が練習で歩く様子はなるべく見るようにしている。

 小秋が歩く度、仮義足は金属のぎしりとした音を立てた。仮義足とは、比較的簡素なパーツ構成で作った足だ。本義足が完成するか、歩行に慣れるまでの期間に扱う訓練用の製品である。型どりした物を元に、切断部の太ももに装着するソケット部の成形後、ブランデル社にてストックされていたパーツで組み立てた初歩的な物だが案外しっかりとしていた。しかし見た目は鉄パイプのようであり、若い女性が身につけていて気持ちの良い物ではないのが心苦しい。

 早く、本義足も作ってあげなければ──。成葉は口に出さずに、いや、と自身の考えを切った。


 ──別にあの子にとって、私の本義足もではないか。


 成葉の義足は前座に過ぎない。それが本製品であれ仮製品であれ、いずれにせよ津吹が手がけた義足が届きさえすれば、成葉の物は捨てられる運命にあった。

 それは別に構わなかった。小秋を不自由なく歩けるようにし、彼女が真に望む義足を与えてやる。それだけが成葉にとって必要なことに思えたからだ。けれど、傘士としての使命感を深くまで掘り返してみると、支社長として慕う津吹のためでも、客の小秋のためでもなかったことに成葉は薄々気づいていた。それは、昔から長く想うたった一人の女性のためだった。


 ──母さん。


 ついぞ心の中でそう呼びかけてしまい、成葉は呼吸を潜めるようにその考えをかき消した。

 その女性とは血の繋がりこそなかったが、成葉はあの雨の日、自分を名付けてくれたあの恩人の女のことをそう見る他なかった。凄艶せいえんとした、あの吸血鬼の女のことを。


「大分歩けるようになったみたいだな、あのお嬢さん」


 独り悶々としていると、付近の男に声をかけられた。

 成葉はそちらを横目に見る。男はカルテを片手に、リハビリルームの隅で立っていた人物。小秋の主治医だ。


「そうみたいですね」


 理学療法士と歩行訓練をしている小秋からは一切視線を外さず、成葉は返事した。主治医も彼女の方を見ていた。

 主治医の男とは、この施設ではそれなりに知った仲だった。以前にも成葉は何人かの義足を用意した際、製品の適正審査を彼にチェックしてもらったことがあった。津吹との信頼関係も厚いようで、主治医は関係者の中では数少ない──小秋が津吹家の人間であると知っている人間だった。


「にしても、あんなお若いお嬢さんの傘士に選ばれるとは成葉くんも運が良いな。さぞ綺麗な足だったろう」

「人聞きの悪い……。これも仕事ですよ。そんな馬鹿なことは意識しません」


 口ではそう言ったものの、先日触って目に焼き付いた小秋の蠱惑こわく的な白い肢体を思い浮かべてしまった。熱く、滑らかで、仄かに甘い香りがして──。成葉はその雑念を咄嗟に噛み殺した。これでは傘士失格だ。


「おまけに大腿義足とまできた。ご令嬢のお身体を一体どこまで触ったんだ?」

「しつこいですよ。そういう発言、同性でも最近はセクハラになりますから気をつけてください」

「時代だね。でも今も昔も、配血企業が男社会なことに変わりはない。だからつい野暮なことも聞きたくなる」

「逆に訊きますけど、先生は女性の身体を触る時によこしまな考えをお持ちで?」

「まさか。客だぞ、客。大事な患者クライエント様。相手するだけでもう精一杯だ」

「ですよね」


 成葉と主治医はそこでようやく顔を見合わせて、喉の奥で苦笑を交わした。

 義肢を作る傘士と身体を診る医者。分野の違いはあれど、患者という客を相手にする医療職の男同士、思うところは近い。

 その後も、部屋の隅から男二人で見守っていた小秋の歩行はとても順調なようだった。時折、彼女は成葉の姿を探しては視線を投げてきた。どうですか、とでも言いたげな可愛らしい無言のたずね方だった。

 どうやって応えるべきか迷うものの、成葉は手を軽く振って目礼を返した。


「随分と仲がよろしいみたいだな、成葉くん」


 主治医はおちょくるように言った。成葉もそれは分かっていた。リハビリで屋敷と施設を往復するようになってからというもの、小秋との距離がぐっと縮まったように思える。


「これでも私も苦労したんですよ。あのお客様に義足をお勧めするのには」


 愚痴というより、遠い昔の話をするかのような口調で成葉はぼそりと呟いた。小秋と出会ったのはたったひと月ほど前なのに、もう彼女とずっと一緒にいる気がした。

 隣にいた主治医は「ふぅん」と相槌を打つ。


「若いお嬢さんに、メタリックな足を付けろってのも酷な話だからね。難しいものさ。そういえば……どうして成葉くんがあのお嬢さんの義足を?こういう時は津吹さんが率先して作りそうなものだが──」


 数週間もの間、そのことについて主治医は何も触れてこなかったが、彼も気にしてはいるようだった。


「……あの、先生」

「どうした?」

「そのことについてちょっと相談が……。今からの話、ここだけのものにしてくれますか?」

「構わないけど」


 成葉は、津吹と小秋、この父と娘の義足を巡る出来事と疑問を包み隠さず話してみた。話を聞くなり、主治医は顎に手を当てる。


「ほう、そんなことが。んー……残念ながら僕もその辺の事情は全く聞かされていないな。さっぱり分からん話だ」

「先生もご存知ないのですか」

「みたいだな」


 お手上げ、という仕草をしてから、主治医はカルテの中から書類を何枚か引き抜いて成葉に渡した。義足の適正を認めることを記した紙面だった。


「どのみち僕がしてやれるのはこれぐらいだ。色々あるんだろうが頑張りたまえ。またあの子を連れて来なさい。足のリハビリはこれからだから」

「そうさせてもらいます。今日はありがとうございました、先生」


 成葉は、壁掛け時計を見上げた。時間が過ぎるのは早いもので、とっくに午後七時を回っていた。そろそろ施設の職員が夜勤組へと切り替わる頃だ。目当ての物も頂いたので、成葉は小秋を連れて帰ることにした。

 リハビリルーム中央にいる小秋の方へと向かおうとしたその時、主治医に制服の肩を掴まれた。


「成葉くん、いいかな?言い忘れてた」

「はい?」

「いくらあのお嬢さんが綺麗だからって……手、出すなよ」


 彼がにやりと口角を歪めて言った。耳にした言葉の意味が瞬間的に分からなかった成葉は、訊き返そうとしたところで、やっと読み取る。呆れてしまい、わざとらしくため息を吐く。


「お客様にそのようなことはしません。仮にそうしようと思ったとしても、絶対に出来ませんよ。血液のことが──」

「ああ、それもそうか。悪い……それも傘士の宿命だったね」


 主治医は気まずそうに笑ってから、成葉の背中をぱしっと押すように叩いた。



 施設の地下駐車場にて、成葉と小秋は緩やかな足取りで車に向かっていた。

 仮義足での歩行が板についてきたとはいえ、未だ長距離の移動が難しい小秋は、普段は車椅子に乗るよう主治医に言われている。

 ブランデル社用の車に着くと、成葉は小秋へ手を差し出す。


「手伝いますよ」

「あら……ありがとうございます」


 車椅子から小秋を降ろし、車の助手席に乗せる手助けをする。その後は折りたたんだ車椅子を後部座席に収納し運転席へと戻った。

 成葉は、施設にてもらった書類を鞄から出して隣の席の小秋へと見せる。


「こちらをどうぞ。今日付けで無事に仮義足の適合審査が完了しました……合格だそうです。主治医の方からも問題はないとお墨付きをいただきました」


 「まあ」と息を漏らした小秋は、小さく微笑んで、足元を見下ろす。


「それでは、この足はもうわたくしの足に?」

「そうです。まだ仮義足ですけど……今のうちから足に慣れておけば、支社長がお作りになられた物にもすぐに馴染むと思いますし。これからもリハビリ、一緒に頑張りましょう」

「はい。今後ともよろしくお願いします……。でも、お父様は本当にわたくしの左足を作ってくださるのでしょうか?」

「大丈夫ですよ。その件は私に任せてください」


 元気づけるように言ったが、小秋はそれを聞いても俯きがきちに頷くだけだった。

 沈黙が重くならないうちに、成葉は車を出した。

 二人を乗せて走る車は、濡れたコンクリートの坂を昇ると、夜のとばりが下りた街へと飛び出していく。施設は栄えた都市部近辺に位置しているため、小秋の屋敷がある郊外の更に外へ進もうとすると、バックミラーに繁華街やビルの群れが映った。闇に沈んだ世界を照らす人間の光は、美しくも無機質だった。まるで小秋が手に入れた作り物の足のように。

 二人の間には不思議なほど会話がなかった。気まずいわけでもなければ、互いに後ろめたいことがあるわけでもなかったので、成葉はこの無言の時間を耐え難く思った。

 普段は親しい関係を保てているが、いざ例の──津吹の義足の件になると、なんとなく噛み合わなくなっている。

 結局のところ、津吹を説得してもらえると期待されていないのだろうか。成葉はそんな不安にさいなまれた。津吹は出張で来週には日本を発つが、仕事に追われる成葉には、彼を引き止める術も説得材料も用意できてはいなかった。

 不意に、施設で歩いていた時の笑顔や、仮義足の適合審査の結果を聞くなり喜びの声を上げた小秋の姿が目に浮かんだ。そのくせ今みたいに、例の件の会話になると、枯れたように萎えてしおらしくなる。両親の昔話に花を咲かせている時は心底幸せそうだったのにも関わらず。

 そんな事だったから、小秋が実の父を心から慕っているのか、憎んでいるのか──たったそれさえ成葉には掴めそうになかった。精巧な飴細工と同じく複雑で、まばらな雨みたいにちぐはぐな少女。血で繋がれた母親とは万華鏡の模様が変わるように大きく違っていた。

 長い信号で止まる。エンジンの鈍い振動と、少し前から降り始めた雨の音、ウィンカーのランプ音が腹の底へと低く流れ込む。


「小秋さん」

「なんでしょうか、成葉様?」


 用件はなかったが、ふと小秋を呼んでいた。ここでなんでもないと引き下がるのも変だったので、考えていたことを口にする。


「前に支社長とお会いした時にあの方はこんな風におっしゃっていました。腐っても俺は傘士なんだ──と」

「傘士……。お父様がそのように?」

「そうです。支社長と小秋さんの間にどんな事があったのかは私には分かりませんが……あの方が傘士で、あなたが吸血鬼で──娘である以上は何も恐れることはないかと思います」


 小秋側から返事はなかった。ずっと待っていたが、先に信号が青に切り替わった。成葉は余計なことを口走ってしまったと後悔した。ウィンカーの音と交代させるように、フロントガラスのワイパーを動かし始める。

 走り続けていると、雨が強くなってきた。

 天気予報を聞こうと車載ラジオをつけようとしたところで、車内に短く雑音が走った。無線機に連絡が入ったのだ。


『気象観測課より外回り中の社員へ緊急連絡。尾張旭市、瀬戸市、長久手市一部地域にて中濃度の瘴雨確認。雨量、九ミリから十ミリと推定。名古屋北西方面からの強風により、瘴雨の雨雲の群れは急速に南下し、県内一帯に離散する模様。繰り返す──』


 瘴雨。その言葉に成葉は驚くこともなく、無線が繰り返す伝達に耳をそばだてる。


「……雨、ですね」


 助手席の小秋が呟いた。暗く沈んでいない、いつも通りの優しい様子で。ちらりと隣を見る。断続的に過ぎていく外の街灯と、夜景の光に照らされる雨粒の窓の模様は、色とりどりのカーテンとなって、小秋の白髪と横顔に重なっていた。視線を察した彼女と目が合いそうになり、成葉は車の進行方向へ顔を戻す。


「どうやらこの辺にも降るそうです」

「……今夜は誰も、吸血鬼にならなければ良いのですが」


 まったくです、とでも言うべきだろうが、他でもない吸血鬼の客の少女に対して発するのは躊躇ちゅうちょした。そんな成葉の心情を掴んだのか、小秋はにこやかに窓の外を向く。


「成葉様。貴方、雨はお好きですか?」

「え?雨ですか……。好きかどうかと言われましても」


 再びしり込みしていると、小秋はくすりと笑った。


「わたくしは好きですよ」

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