第2章 雨脚は強まる

8話

 “みなぎりわたる大海原の海の水ならこの血をきれいに洗ってくれるか?いいや、この手のほうが逆に、つねりにうねる大海の水を朱に染めて、あの青さを赤一色に変えてしまうだろう”


 ──シェイクスピア『マクベス』



 “現代になって初めて血液は排泄物扱いになった”


 ──エルヴィン・シャルガフ『自然・人間・科学』



 “君があの吸血鬼に接吻すれば

 しかばねはたちどころによみがえってしまうだろうよ!”


 ──ボードレール『吸血鬼』



 翌日から成葉の仕事が始まった。傘士の本業務である義肢──もとい義足の制作だ。

 正午近くに小秋の元へと向かうと、挨拶もそこそこに採寸と採型と呼ばれる作業に着手した。

 静寂に包まれた屋敷には唯一、秋の雨音が凍てつくように響いていた。

 広い客間の隅に椅子やテーブルの設置など、仮設の作業スペースを確保し終えると、二人は互いの次の言動を探るように口を開けずにいた。各々、気まずかったのだ。いつまでもそうしている訳にもいかないことは互いに分かってはいたのだが。

 成葉が石膏せっこう包帯の準備をする最中、小秋は自身の白いドレスの裾を摘んで苦笑した。


「あの、成葉様。わたくしのこの服ですと……貴方の作業の邪魔になってしまいません?」

「……そうですね。素敵なお洋服ですし、万一汚れてしまってもいけません──丈の短いものがありましたら、そちらに着替えてきていただけますか?」

「分かりましたわ。少々お待ちくださいね」


 車椅子を手で進めて反転させると、小秋は客間を後にした。着替えてくる彼女を待ちながら、成葉はぼんやりと手元の包帯の束を見下ろした。僅かに手が震えている。

 義足を作ることになったのはいいが、まさか採寸や採型まで自分がやるとは──。

 成葉は緊張していた。それは彼だけではなく、今から始まる作業の内容を知っている小秋も大方そうなのだろう。会った時から両者の間にはよそよそしい空気が漂っていた。


 採寸・採型とは、どちらも部位のサイズを測る作業のことだ。義足制作には欠かせないものである。特に採型は、皮膚と人工物の接点となる切断部を型どりをするので、ここで狂いがあると義足にも影響してしまう。採型は義足の全てと言われるぐらい重要な仕事だった。当然ながら、両方とも患者の肌に触れる作業だ。

 成葉はどぎまぎする胸の鼓動を抑えた。これは業務なのだ。なにも下心ややましい感情などありはしないと言い聞かせつつ、ビニール手袋を両手にはめていく。

 今回制作することになった義肢は、大腿義足と呼称される物だった。欠損した太腿辺りから下の部位をカバーするそれは、文字通り義足に該当する代物である。足が悪くなるケースが多い吸血鬼には馴染み深い製品で、成葉も何度か制作経験があった。

 津吹からの特命という都合上、この大腿義足は採寸・採型、一連の制作、仮合わせから最終調整に至る全ての工程を可能な限り成葉一人で行うことになった。傘士として、これまで培ってきた技量を発揮できるだろうかと成葉は不安になるが、気を取り直すように深呼吸する。


 配血企業の特色を表す成葉のような傘士は、かつては義肢装具士と呼ばれた──身体障害を抱える人の義肢ぎしやサポートのための器具である装具そうぐを作る職業だ。

 経口輸血療法に扱う全血製剤の品質が赤十字社に一任されている以上、配血企業が他会社との差別化を図り、より多くの顧客を獲得するためには、傘士のサービスをいかに充実化させるかに多くがかかっている。

 ブランデル社の場合、義肢を求める顧客のデータを業務提携している医療機関と共有し、採寸・採型、義肢の仮合わせなど、本来は医師との立ち会いの元で行う業務の大部分を吸血鬼が自宅から出ずに行えるようにした。現在も、同社が東京や愛知などの日本の人口ボリューム層の地域に住まう吸血鬼たちから同社が支持を得ているのはこのためだった。


「お待たせしました。成葉様、こういった服装でよろしかったでしょうか?」


 成葉が振り向くと、車椅子に乗った小秋がいた。ラフなシャツとショートパンツの格好で、普段着用しているドレスのかしこまった印象はなかった。

 小秋の丈の短いパンツからは、絹のように滑らかな白い生足が剥き出しになっている。当然ながら、左足は丸みを帯びた切断部位が姿を覗かせていた。


「構いませんよ。こちらもちょうど準備が整いましたので、今から始めていこうと思います」

「……よろしくお願い致します」


 設けていた作業スペースに小秋が車椅子で来た。採寸用のメジャーを手にした成葉がそこへ近づくと、彼女は微かに肩をこわばらせた。やはり彼女側も気にしていたのだろう。

 傘士の青年は思わず半歩下がった。


「ご希望がありましたら……女性の傘士を今からこちらに派遣させますが、いかがいたしましょう?」


 型どり作業自体は、別の傘士が行っても別に構わないものなのだ。会社にもよるが、型どりと義肢制作を完全に分業化しているところもある。

 ブランデル社はどっちつかずで、状況によって単独で制作するのも可能だった。傘士の途中交代の主な理由は、患者との性別の不一致が最多だ。傘士は今なお男社会なのだ。


「お気遣いは結構ですわ。どうぞ始めてください。成葉様がお作りになる義足ですもの……」


 小秋は含羞がんしゅうの混じった笑みを浮かべて言った。成葉は「そうですか」と言葉を濁す。

 小秋は父親の話でこの制作過程も認知していたはずだ。それでも尚、そう言うのならこちら側も遠慮する意味はないか──。成葉は一礼する。


「では始めさせていただきますね。失礼します……」


 成葉は小秋の足に触れた。まずはメジャーを使って、衣服の採寸と同じように足回りのサイズを測っていく。ビニール手袋越しではあったが、彼女の体温と柔らかい肌の張りに吸い込まれそうになった。

 足に他人の手の感触を覚えることに恥じているらしく、小秋は固く口を噤んでいた。ただ、目だけはじっと成葉の手を捉えて離すことはなかった。

 採寸が終わると、次は採型に入る。水につけた石膏包帯という石膏の付いた包帯を切断部にまきつけていく。

 これは太もも全体を覆うソケット部の作成に必要な工程だ。必然的に、成葉は小秋のその部位に手を触れなくてはならなかったが、この時にもなると彼は緊張を感じなくなっていた。

 歳の近い異性の身体に満遍なく手を這わせることに性的な高鳴りを覚えないわけではないが、傘士の仕事として集中すると、女性の足を扱うのではなく、客の身体を預かっているという意識の方が遥かに勝った。ぴったりと付けた石膏包帯から手を離し、小秋へ顔を上げる。


「お客様、石膏が固まり切るまでしばらくご辛抱を」


 採型のために片足で、壁の手すりを頼りに立っていた客の少女へ告げた。


「わたくしは小秋ですよ」


 彼女に指摘され、成葉は面食らう。


「あ、すみません……つい。小秋さん──足は辛くないですか?手をお貸ししましょうか」

「ありがとうございます。大丈夫ですわ。一本足で立つことには慣れておりますから」


 小秋は壁の手すりを強く握ると、体勢を直した。

 この津吹家の屋敷には至る所に手すりが設置されている。成葉の記憶によれば、これは以前からあった。なにも小秋がここで暮らすようになってから新たに設けられたものではない。今になって重宝するとは皮肉なものだが、この型どりの作業時においても助かった。


「そうは言いましても、あまりご無理はなさらないようお願いします。石膏に触れないように座ることも出来ますので、辛かったらお伝えください」

「お気遣いに感謝します。でも平気なのです。わたくし、以前までは日本舞踊やバレエを習っていましたから体幹には自信がありますの。ご心配には及びませんわ」


 華奢な身体はぐらつくこともなく、その言葉に否応なく説得力をもたせた。

 成葉は視線を小秋の左足へ戻し、石膏の固着を指先で軽く確かめる。


「“自分を自分の力で支えている人こそが最も強い”とも言いますが、小秋さんは正にそういう方ですね」

「そんなことはありませんわ」


 口について出たような小秋のその声を聞き、成葉はまた彼女を仰いだ。


「小秋さん?」


 沈んだ顔をする小秋の心情が上手く呑み込めなかった。成葉は次に切り出す言葉を考えたが、それよりも早く、彼女の方が明るい語調で「なんでもありません」と言った。


「……それにしても、成葉様はいつから傘士のお仕事を?わたくし、ずっと昔にお父様の職場を見学させていただいたことがありますから、どういうお仕事なのかは知っていたのですが……貴方の手つきはとっても丁寧でお見事でしたわ」

「お褒めに預かり光栄です。私は今年で三年目となります。まだまだ新人ですよ」


 石膏を待つ間、成葉は自己紹介で話した際のものよりも詳細に話した。

 高校を卒業後、義肢装具士の資格取得のため専門学校に入って勉強したことや、その後の就職活動で支社長とのちょっとした縁でブランデル社を選んだことなどだ。それよりも過去の生い立ちは伏せたが、小秋がこれまでになく耳を傾けて聞いているのは成葉にも分かった。相手が自分の仕事に誇りを抱き、津吹を尊敬していると分かると、小秋は大分心を許したらしく、通っている高校や津吹家のことを話した。

 現在の小秋は長期休学中だとばかり成葉は勝手に考えていたものの、実はそうではなく、オンラインで授業を受けており、入院中もそれで出席数を確保していたとのことだった。学校自体は東京にあるそうで、吸血鬼化は関係なく、父親の勧めで元々そういう授業の受け方をしていたようだ。

 話をするうちに趣味の話題になり、それに関して二人とも大変気が合った。

 小秋は両親の影響で読書を嗜んでおり、同じく成葉も、津吹夫婦を真似するように本を読むのが癖になっていた。二人とも同じ津吹家の本棚から本を渡されていたこともあり、読書歴や趣向が近かった。特に瘴雨絡みで出版規制が成されてしまった古典に関して、周りに知っている人間が少ないためか、話が噛み合うと両者とも同好の士を見つけたように思えて嬉しかった。

 だが、目の前にいる少女──小秋に、彼女の母親のことを成葉は決して口にしなかった。自分の心の内を悟られてしまってはいけなかったのだ。

 それからしばらく経過し、型が固まった。

 成葉は小秋の足から石膏のそれを取ると、緩衝材が詰まった型の保管ケースに収めた。そして簡単な掃除と後片付けをすると、今日ここで行う全ての仕事が終わりを告げた。

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