7話
いかにも客対応に慣れた傘士の口調だったが、その条件を提示した時、成葉ははち切れそうなほど心臓の鼓動が早まっていた。
「お客様。いかがでしょう?」
成葉は静かなトーンで続けて問いかけた。もしこれを拒まれてしまったら今度こそ打つ手がなくなる。
拒否されてしまうと、客の小秋とは血液のみの関係となり、会う頻度が極端に減るばかりか、津吹からの特命の依頼を達成できずに信用を損なうだろう。小秋への制作の催促も、次に会えるまで二ヶ月も待たなければならないし、四度目となる次回に許可してくれる望みは最早ないと思っていい。これがラストチャンスなのだ──。
両者の間に、
自分の中で血を巡らせる心臓の音に身体を支配され、成葉は息を呑むことすら難しい有様だった。
「……本当に貴方はお父様にそっくりですわ」
沈黙を言葉でもって貫き抜いたのは、小秋の方だった。彼女は窓辺へ顔を背けた。
「いつだって、そんな風にわたくしのお願いを完全には聞き入れてくれずに避ける──ずるい人なんですもの」
父親以外の傘士が手がけた義足には、一片の興味すら示そうともしない小秋らしい発言とも受け取れるが、成葉には彼女がそのことだけを言っているようには聞こえなかった。
だとすれば、この違和感はなんなのだろうか。小秋への返答とセットで考えたが、上手くまとまらなかった。
「分かりましたわ」
困り果てたように黙る成葉に、小秋は窓から視線を戻して、そう言った。微かに呆れと疲れを帯びさせてはいるものの、気のせいかいつもより一段と清澄な言葉遣いだった。
そのような反応が拝めるとはついぞ思ってもいなかった成葉は、驚いて顔を上げる。
「それって──」
「貴方がたった今ご提示された条件をわたくしが受け入れる、ということですよ」
それを聞き、成葉はみるみるうちに心臓の音が大きくなったのを感じた。
「本当ですかっ?」
「ええ。ですから今回の件、何卒よろしくお願いいたします」
小秋は柔和な表情でぺこりと頭を下げた。視線を元の位置に上げてから、右手を真っ直ぐ、対面する成葉へと差し出した。窓のレースカーテンから漏れる弱い陽の光がその白い腕に伝わっていく。それを眺めた成葉は深い安堵に包まれた。
「ご理解いただき、ありがとうございます……お客様!」
喜びが湧き上がった。いても立ってもいられず、成葉はソファから腰を上げて、差し出された小秋の白い手を両手で握った。白色のオペラグローブをはめた少女のそれは冷たかったが、陽に照らされて眩しく見えた。その手は成葉にとってはまさに希望そのものだった。逃がさぬように強く掴んだ。
青年の両手の感触に恥じらったように固まる令嬢だったが、手を収めようとはせず、じっとしていた。成葉は、そこに初めて彼女の親切な厚意のようなものを感じた。どうやら互いに落ち着くところで折り合えたようだった。
二人の間で長い握手が交わされた後、成葉は小秋へお辞儀してからソファに腰を戻した。
「正直なところ──もう諦めかけていましたが、胸のつかえが取れました」
「まあ、そうでしたの……貴方はお優しい方ですのね。父の会社の方とはいえ、わたくしとお父様の関係に気を配ってまでお仕事をする必要はございませんのに」
「私はおふたりのお役に立てるならそれで良いのです。そのためには、お客様の普段の生活を向上させるのが先決であることに変わりはありません」
「嬉しいお言葉ですわ。ですが……お父様を説得する手立てが貴方にあるんですの?」
小秋の質問に、成葉は口ごもった。そのようなアイデアは全く持ち合わせていない。あんな条件でも出さなければ小秋が義足に理解を示すとは思えなかったのだ。だからこれは成葉にとって賭けに他ならなかった。客の彼女が呑んだことで第一関門はくぐり抜けたといって良いが、津吹の方はそう簡単にはいかないだろう。
「……今は思いつきません」
「そうですのね──。でも、わたくしはあくまでもあの条件で承諾したのです。お父様からの義足を保証してくださらない限り、安心できませんわ」
「承知しております。万一、支社長が帰国後も拒否された時は……私が作った義足を破棄していただいて構いません。そんなことがないよう善処しますが……お時間をいただくことに変わりはありません。それでもよろしいでしょうか?」
「はい。どうかよろしくお願いしますね、えっと──」
小秋がそこで不自然に言葉を切った。
「お客様?」
「申し訳ありません……貴方のこと、わたくしはこれからどうお呼びすればいいのでしょうか?」
その質問がかつての恩人の女のそれと重なって、成葉は強く動揺した。慈しむ女神のような彼女の声が耳元を掠った気さえ起こした。表立って平静さを崩すことはなかったが、その体験は成葉の感情を揺さぶるには事足りた。
言うまでもなく、この母娘はよく似ていた。不意に、小秋を見る自分の目が少年のそれに引き戻されるような不気味な錯覚に陥りかけた。成葉は、胸元のブランデル社のバッジを直すふりをして少女から視線を外した。
初回の訪問の際、本名を記した名刺を渡していたことと、津吹経由で愛称の方が先に伝わっていたこともあって、小秋はこれまでどちらで話すか迷っていたようだ。思い返すと、彼女から未だに一度も名前を呼ばれていなかった。
「ご自由にどうぞ。そうですね、なんでしたら『マクベス』とでもお呼びください」
「どうして悲劇の人物名をおとりになるんです?」
寸分違わずとまではいかないが、その返しも母親を思い起こさせる言い回しだった。
「ちょっとしたジョークですよ。そうですね、仕事場で呼ばれ慣れているので……成葉とお呼びくださると助かります。支社長も私をこの名で呼ばれます」
「そうでしたのね……では、成葉様。どうかお気を遣わず、わたくしのことは──小秋、と気軽にお呼びくださいませ。苗字ですと、場によってはお父様と混合してしまうこともあるかもしれませんから」
「かしこまりました。小秋様」
「……あの、成葉様。わたくしに敬称は必要ありませんよ?」
「敬称抜きでということですか?私の立場としては少々困ります……。それに、私の方にこそ敬称は不要ですが」
「そういうわけにはまいりませんわ。わたくし、成葉様より一回りとまではいかなくともずっと歳下ですのよ?」
「年齢は関係ありません。小秋様、これは立場の問題です。支社長との件があるとはいえ、私は仕事でこちらに来ています……どうかご理解を」
吸血鬼と傘士の関係は、血液と義肢のみが繋ぐのではないことは、成葉もこれまでの仕事の経験から心得ている。互いの信頼関係が絶対に必要であるし、そのためには心から打ち解けないといけない局面も多々ある。親しくなるため、名前に関しては意図的に礼儀を緩やかにするペアもいると耳にしたこともある。
とはいえ傘士の彼にすれば、仮にも自身が所属する会社の社長の娘を相手にして、そのように気軽にはいけないと思うのが自然だ。
小秋は珍しく不満そうに眉をひそめてみせた。半分はいたずらっぽい表情だが、残りの半分には本物の寂しさがあった。
「……実家に住んでいた頃、わたくしの家の者は、両親を除けばどなたも気軽に名を呼んでくれませんでした。皆さん、お嬢様、お嬢様とそればかりでしたの」
「だから……私には名前で、ということですか」
小秋はこくりと頷く。
「貴方はお父様との大切な仲介役です。血液のこともあります。今後も顔を合わせる関係ではありませんか。もう少し打ち解け合っても、お互いに不利益はないはずですわ」
「おっしゃることはごもっともですが……ではせめて、小秋さん、という形でご満足していただけませんか?その代わり、私の呼び方はご自由になさっていただいて構いませんので」
諭されるように言われ、小秋は再び不服そうに表情を軽く歪ませていたものの、立場を気にしなければならない人間が時折する複雑な目つきを成葉にもあると認めたようで、それ以上は口出ししなかった。
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