4話

「おはようございます。お客様」


 三日後、契約した全血製剤の配送が始まった。

 午前中に屋敷に訪れた成葉は、玄関で耐雨外套を脱ぐことに苦労しながらも、車椅子に座る少女へ涼しい顔で挨拶した。

 町外れのこの地域は数日前から雨が続いている。今日も朝から十一ミリ前後の強い雨にみまわれていた。幸いにも前回の訪問時と同じく瘴雨ではなかったが、付近に車を停めて徒歩でここまで移動してくるとそれなりに疲労感があった。


「雨の中お疲れ様です」


 客である小秋は、太ももの上に置いていたタオルを成葉に差し出した。外套の蒸し暑さで湧いた汗を拭うため、成葉はありがたく受け取った。

 微かに手と手が触れる。華奢で細い少女の手は、幼い頃に路頭に迷っていた自分の頭を撫でてくれた女のそれと似ていて、成葉は思わずその手を握りたくなったがこらえた。


「わざわざすみません。ありがとうございます」

「お礼なんていいのです。配送と雨が重なってしまって、わたくし朝から貴方のことが心配で仕方なかったんですから」


 小秋は笑顔ともその反対とも言えない、複雑な表情だった。


「ははは、いやいや……今日のも別に通常雨ですから。そうでなくともご遠慮なく。仕事ですので」


 努めて朗らかに接する成葉だったが、小秋は言葉なく微笑み返しただけだった。

 成葉は、内心では小秋がこちらのことをどう思っているか気が気でなかった。

 この反応を見るに、少女が未だ来客の傘士に心を許していないのは明らかだった。まるで──無理にここに来なくても良いですよ、とでも言われているように思えた。成葉は胸が鈍くきしんだ。


 二人は客間に移動する。成葉が下座に位置する一人がけのソファに腰を下ろすと、小秋は壁に寄り、そちらに付いている手すりに掴まった。彼女は残された右足のみで車椅子からすくりと器用に立ち上がった。


「お茶を淹れてきますので少々お待ちください」

「あ、はい……」


 片足の小秋を引き止めることも、手伝う素振りもできず、別室の台所へ向かうであろう彼女に会釈だけ返した。

 心が痛まないと言えば嘘になるが、手を貸すことはしなかった。これは小秋からの頼みだった。彼女は契約上の関係でしかない成葉が相手であっても、この屋敷に来訪してきた客人である以上は気を遣わせたくはないという。初めて会った時、車椅子を押そうと伸ばした傘士の手を止めたことも、そうした考えからだったそうだ。

 しかし、と成葉は心の中で独り言を呟く。


 ──正直、危なっかしくて見てられない。


 小秋は散歩など距離のあるものこそ歩けないものの、支えとなる壁か物があれば特別不自由はしないようだった。だが、それは家の中に限られる。


 ──あの後……彼女は考えてくれただろうか?


 成葉はそう思いながらも、先に片付けなければならない仕事があったと気づく。

 足元に置いた保管用バッグのロックを外すと、ひやりとした空気が放たれてきた。夏の匂いは消えたものの、まだ涼しいとまでは言えない初秋現在、その冷気は仄白く煙った。バッグ内には全血製剤が収められている。保存に適した温度下で息を潜めるその赤い塊は、一瞬見ただけでは死体から抜き取った心臓のようにも見えた。

 小秋が客間に戻ってきた。小ぶりの杖をつき、片手にはティーセットを載せた盆を持った彼女の線の細い体躯は、美しさにどこか幼さが混じっている。

 他愛もない歓談と紅茶もほどほどに、成葉はタイミングを見計らって、本題のうちのひとつを切り出す。


「……お客様。こちらが今回分の全血製剤になります。ご契約通り、一単位は二百ミリリットルです。血液型はB型のRhマイナスの物で、各種検査、感染症対策済みの良品です。お客様の方からもご確認をお願いします」


 クーラーボックスのような見た目をした製剤保管用バッグからそれを持ち出し、テーブル越しに小秋へ手渡した。

 保存のため二度から六度の間の温度で管理されているプラスチック製の血液袋はひやりと冷たい。たぷたぷに太っているようで、グロテスクなまでに濃い赤色の裸体を部屋の中で誇示している。

 それを両手で大切そうに受け取った小秋は、成葉の方にちらりと目をやる。


「……貴方の血液、ですか?」

「そうです」


 その全血製剤の原料たる血液は、先日、ブランデル社の採血課にて成葉が小秋のために抜き取ったものだった。

 吸血鬼から血液配送の依頼を受けると、配血企業が自社員から抜き取るか、日本赤十字社が近隣住民へ献血を募るかして血液を得る。その後、血液を各地の血液センターへ搬送し、放射線照射やスクリーニングなどの検査・加工を経て製剤となった物を配血企業へ戻す。そして最後に、同血液型の配達員か傘士が吸血鬼の元に届ける──という手順となっている。

 このモデルで社会が機能するまでは、国民からの反発も耐えなかったし、配血企業の方こそ営利目的の吸血鬼だと揶揄するマスコミの声もあった。特にRhマイナス型の血液を有する人間が他の国に比べて極端に少ない日本では、希少血液の人材リスト化、それらの層に向けた過剰な献血喚起などが、個人情報保護や自主性の観点で昔から問題視されていた。

 こういった諸々の背景から、必要な血液が希少血液型などの場合、配血企業の社員を使う傾向が強い。世間からの批判を避けること以外にも、社員へ要請した方がスムーズに血液確保が進むという点もある。現に、配血関連の会社の求人情報には「献血要請に積極的に参加できるか」という一文があるところが大多数だ。


 一度、小秋には血液袋をこちらに返すよう促し、成葉は左腕の袖をまくった。リストバンド型の社員IDと、全血製剤の袋に記載された識別番号が同じ数列であることを確認する。

 目視での点検の後、ペン型のバーコードリーダーの光にそれらのバーコードを交互にかざし、電子照合を済ませる。これで経口輸血前のチェックは全て終わった。


「医療機関の診断によると、お客様に必要な血液は年間に九百から千ミリリットル相当だと推測されているようです」

「あら……そんなに必要でしたの?」

「確定値ではありません。大きく見積ってその程度だそうです。八百ミリでは不安要素があるようでして……私が男で助かりましたよ」


 人間は外部に抜くことができる年間血液量に限りがある。

 日本人の場合、男性なら千二百ミリ、女性なら八百ミリリットルとされている。それ以上の採血は血液の品質を下げると共に、献血者の健康を悪化させる恐れがある。


「一般的な輸血もそうですが、一人の患者に対して献血者はなるべく人数が少ない方が良いとされています。人数を増やすと患者の方に感染症などが及ぶリスクがその分増えますから。経口輸血も同じで……もちろんリスクというのはあくまで数字上のことで、そんなことはほぼありませんが」

「わたくしもそれぐらいのことは知っておりますわ。お父様が夕食の場でよく話されていましたから」

「お父様……津吹支社長が?」


 小秋が頷いた。その仕草は軽やかだった。父親の話をする彼女は嬉しそうだ。


「それでお母様にやんわりとお叱りを受けていました。食事の時ぐらい、お仕事から離れてください──って。ふふ」


 艶っぽく笑った小秋を見て、つられて成葉も小さく笑う。


「支社長らしいです。ああ、すみません。なにぶん時間も限られていますので……お客様。こちらをどうぞ」


 成葉は改めて小秋に血液袋を渡した。


「……はい」


 少女の両手に揉まれるように、血液で満ちた袋がきゅっと握られた。渡された意味が分かったのか、彼女の目には不安の雲が立ち込めている。

 背中を押すべきだろうか。成葉は異性への経口輸血の開始を告げるのが気恥ずかしくて、無言で飲んでどうぞ、と目配せしたが、それを察した小秋は視線を床に落とした。

 和やかな室内の空気は硬直しかける。耳を澄ますと、ひっそりと雨音が屋敷を包んでいた。

 一回目。最初の輸血。

 小秋も緊張しているのだろうか。それとも声に出していないだけで、信頼していない男の血なんて汚らしくておぞましいとでも泣き叫ぶばかりに嫌悪しているのだろうか。


 ──いや、どちらでも構わない。


 あの女性の娘が生きている。それだけで十分なのだ。

 そして彼女に生きてもらうために、笑っていてもらうために、自分はやっていくだけだ。

 成葉はそう決心すると、小秋へ経口輸血をするよう促した。



「……それで、お客様。考えて下さいましたか?義足のこと」


 成葉がそう呟いたのは、小秋の経口輸血療法が無事に終わって、一時間ほどが過ぎた時のことだった。

 輸血後のショック症状はないようだったが、初回の経過観察ということで、成葉は念のためもうしばらく屋敷に留まっていた。

 小秋が新たに用意したお茶菓子と紅茶を口にする。時刻は既に昼直前で、以前に同僚の男と食した蕎麦が恋しくなってきた。

 小秋は、左手を存在しない太もものスペースへ降ろした。まるでそこにまだ自分の足を視ているかのように。

 彼女は言葉を紡ぐことなく、頷きもしなければ、首を横に振ることもしなかった。無視をしていたわけではなかったようで、どう返すべきか戸惑っているだけらしい。

 急かすことなく待つことにした成葉は、ティーカップに手を伸ばそうとテーブルへ身を傾けるが、同時に小秋がぽつりと口を開く。


「足ですか」

「はい。お客様の義足──太もも辺りから下の喪失箇所を補う、大腿だいたい義足のことです。前回お話したではありませんか。次の配血の時までにご再考していただければ、と」


 紅茶をひと口飲んでから、成葉は続ける。


「お客様が自分の力で自由に歩くことができれば、その杖をお使いになることもなくなりますよ」


 二人はソファ脇にある杖へ視線を流した。小秋が立って歩く時に使っている物で、短いが上等そうな木製の杖だ。


「……わたくし、今のままでも不便はしておりませんのよ?」


 小秋は目を逸らして言った。

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