3話

 成葉は沈黙に耐え切れず、先に二件目の話を進めることにした。

 一言だけ断りを入れると、会社から持参してきた鞄を探り、説明用の資料を取り出してテーブル上に並べた。客である小秋が読めるよう置いた。対面して座っている成葉側から文字を読むのは困難だが、全ての文章とその意味は頭に叩き込んでいるので苦労はない。

 客が誰であれ、いつもと同じように決まった説明をするだけだ──。


「お客様。義足の件は一旦保留にして、血液の定期契約についての説明に移らせていただきたいのですが……よろしいですか?」


 まさか血液まで断るだなんて馬鹿を言わないでくれよ、と成葉は内心ヒヤヒヤした。小秋は変化に乏しい顔つきで「はい」と返事する。


「わたくし、なにぶん変わった血液型なのでご迷惑をおかけしてしまうかと」

「いえいえ。もちろんご用意できますのでご安心を。では全血製剤ぜんけつせいざいの配送契約についてご説明しますが──その前に、経口輸血療法けいこうゆけつりょうほうならびに血液全般についてある程度、お客様にも知っていただく必要があります」


 展開した資料の中から、小秋に一番近い所に広げているパンフレットのページをめくった。初回契約時、患者にしなくてはならない事前説明だ。医師もしくは患者の担当になった配血企業の社員が行う規則となっている。


「瘴雨患者としての心得や生活において気をつける点などは、既に病院でお聞きしましたか?」

「入院中にお医者様から……あの、すみません」


 小秋はパンフレットの文面を確認するなり、顔を上げた。


「この内容でしたらお父様から以前に聞いたことがありますから、省略していただいても結構ですよ」

「お気遣いありがとうございます。でも、この事前説明は業務上の決まりですので……お客様には退屈な話になるかもしれませんが、ご了承ください」


 早速、成葉は資料を活用しながら小秋への説明を始めた。

 血液全般の予備知識を含めれば大分長くなるが、主要な箇所は抜かりなく説明しなければならない。患者の命と生活に関わることなのだから。まず説明したのは、瘴雨患者──吸血鬼には生活を支える義肢ぎしの他にも、定期的な血液の摂取が絶対に必要となるということ。


 吸血鬼になると、消化吸収器官が細胞ごと根こそぎ新しく作り替えられ、他人の血液をある種の栄養として分解・吸収することが可能となる。だが、その代償として恒常的に貧血症状にも似た体調不良に悩まされることになる。血液の不足が身体の不調を呼ぶのだ。

 個人差はあるが、吸血鬼化から数ヵ月後の時点で血液への衝動が強まるという。吸血鬼化してから三ヶ月ほど経過している小秋が血を欲しているのは自然なペースだった。

 これを「経口輸血療法」と呼ばれる方法で解消する。血管へ針を差し込んで行う従来までの輸血とは区分されるもので、簡単に言い換えれば、定期的に他人の血を飲む──たったそれだけの療法だ。当然ながらこれは吸血鬼にしか効果はない。また、血液欠乏状態の吸血鬼は直接の輸血で回復することはない。逆に過剰な輸血となることが確認されているため、経口輸血と従来型の輸血は異なる療法であることが生物学的にも医学的にも証明されている。

 とはいえ、法的に経口輸血療法が従来までの「輸血」という概念に該当するか否かは各国でも未だ議論の的である。

 何故かというと、経口輸血療法には直接輸血との共通点もあるからだ。例えば、血液型による血の適合と不適合が存在する。A型の吸血鬼にはA型の血液(緊急時にはO型も可)しか飲用させることはできない。フィクションの吸血鬼にようにやたらめったら見境なく人の血を飲むわけにはいかないのだ。その他の血液型に関しても一般人の適合方法とまったく同じだ。万一、吸血鬼に不適合の型の血液を誤って飲ませてしまった場合、深刻な拒絶反応で最悪死に至る。


「……ここまでは大丈夫でしょうか?」


 血液と吸血鬼の関係を簡単なおさらいを述べて、理解できたかどうか小秋に聞いてみた。


「問題ありません」


 明るい返事に、成葉も一安心する。


「分かりました。では次の説明に移りますね」


 次は、実際の経口輸血療法とそれに扱われる製剤について。


 現実の吸血鬼が血液を飲む方法は、なにも他人の首根っこに噛みついて下品に血を吸い上げることではない。首に噛みつくなんて第一に不衛生的すぎる。何より時間がかかる。しかも人間には当然ながら採血限界というものがあるため、何ミリリットル抜き取ったか不明瞭な直飲みなんてものを主流にするのはご法度だ。

 そこで吸血鬼の経口輸血には「全血製剤」と呼ばれる、ヒトからあらかじめ採取した血液に保存液を加えて品質を維持している血液パックを扱う決まりになっている。

 通常の輸血もこれと同じように、ヒトの血液を原料に製造された医薬品である輸血用血液製剤を活用している。輸血用血液製剤とは、採取した血液をそれぞれの成分ごとに分離させて単位化したものである。赤血球を元にしたものを赤血球製剤、血小板なら血小板製剤という。手術などに際して、現代では患者に不足している成分に対応した製剤を投与することで集中的に効率よく回復させることができる。

 かつての輸血は全血製剤が一手を担っていたものの、便利な製剤たちが作られてから状況は変わっていった。全血製剤は一般的な輸血医療の観点からは非効率的すぎるということで、いずれ消えゆく運命に立たされたのだ。

 そこに再び変化が起きた。1970年代に突入して瘴雨が降り始めたのだ。そして世界規模で吸血鬼となった人々が血を求め始めたことから、構築されつつあった血液製剤による医療体制は大打撃を受けた。その現実に追撃するかのごとく、吸血鬼が飲用して効果のあるものは、輸血用血液製剤の中では全血製剤のみだった。その他の便利なはずの製剤は一切効果がなかったのだ。

 こうした事情から、2016年現在でも吸血鬼向けの輸血は全血製剤のみが使用されている。

 もちろん他人の生き血を飲むという方法もあるが、血液を介した性感染症などの危険は高く、除去されていない白血球およびリンパ球も輸血を受ける患者にとっては脅威となる。したがって他人の血をそのまま経口摂取する行為は緊急時を除いて承認されていない。全血製剤の場合、赤十字社の血液センターが製造時に病原体の検査や放射線照射などを徹底的に行い、これらのハードルをほぼクリアしているため心配はない。


 以上、かいつまんで話し終えると、喋り慣れている成葉でもやや疲れを感じた。規則とはいえ、一人一人の患者に対して直に話をしなければならないのは気苦労が耐えない。


「今後、お客様に提供するのも全血製剤と呼ばれる物です。さきほどお話させていただいたように、あなたの血液型に適合する血液で製造した製剤をお届け致します」


 その後、ようやく契約の件に入った。

 保護者記入の欄は除き、小秋には一通りの書類へ次から次に署名してもらった。育ちの良い綺麗な文字だった。

 最後の説明に差しかかった時、成葉の言葉をさえぎって、小秋が口を開く。


「……もしかして貴方の血液型は、わたくしと同じ──B型のRhマイナスなのでしょうか?」


 どうやらそれについても津吹経由で耳にしているようだ。


「そうです」


 成葉は、左の長袖を軽くまくると腕を少女の方へと差し出した。左手首にはリストバンド型の社員証が巻かれており、そこには確認用のバーコード、本名、社員IDと本人の血液型が記載されている。


「支社長が私をお客様の担当にしたのも、これによるところが大きいかと思います」


 成葉はリストバンドの『血液型:B型RhD陰性』という文字を一瞥した。日本人ではそこそこ珍しい血液型だ。小秋の青い双眸そうぼうもその文字をじっと見下ろしている。


「──私がお客様とご一緒の際、万一にお客様の身に何かあり、緊急の経口輸血以外にお客様の生命を保証できない場合は……私の血液を直に提供することになります。どうかご理解のほどよろしくお願いします」


 成葉は胸元に付いている会社のバッジを外すと、そこに収納されている小型の刃先をちらりと出してみせた。カッターの刃の欠片のようなそれは、切手ほどのサイズではあるが鋭利な刃で、使い方次第では容易く肌を切り裂ける。

 刃を戻し、バッジを制服の元の位置に収める。小秋は若干怯むように身を引いた。


「はい……分かりました。そのようなことがこの先ないと良いのですけれど」

「まったくです」


 営業時の愛想笑いをし、成葉は斜めに付けてしまったバッジの位置を直した。

 会社のバッジには、血液袋と義足をくわえたホワイトペリカンのマークが彫られている。ブランデル社の物だ。これは、ペリカンの親鳥は自身の血で雛鳥を育てるという欧州の伝説をモチーフにしている。決まりはないが、他の配血企業も「鳥」を使ったデザインだ。

 こういったバッジは、血液関連の企業に従事する人間なら大半が常に身につけている。血液配送などで客と対面する人間ならば、着用は義務だ。


 血液配送は、主に配送に特化した配達員、または『傘士かさし』と呼称される出張型の義肢装具士によって遂行されている。

 この業務の大半は、無人配送や自動化が困難である。輸血後、身体に稀に起こるショック症状への対応として、別の血を飲み直させるしか手立てがないからだ。現状は吸血鬼と同じ血液型の人員を現場に直接向かわせるしかない。たとえそれが激しい瘴雨の真下でもあっても。

 この恐ろしい危険を真正面から被り、手間のかかる血液配送を民間で請け負うのが配血企業だ。現在の国内では、東京に本社を置くブランデル社を皮切りに雑多な配血企業が軒を連ね、各地に点在する血液センターと協働して吸血鬼の元へ血液と義肢を届けている。

 余談だが、日本の配血企業名は慣習的に血液に関する医学や事業で功績のある偉人の名前を拝借する。ブランデルといえば、歴史上記録に残る中で人から人への輸血を初めて成功させたイギリスの産科医ことジェームズ・ブランデルのことだ。


「……大変なお仕事なのですね」


 小秋のそれは、哀れみとも侮蔑とも異なるものの、重々しい言葉遣いだった。彼女は悲しそうに眉根を寄せている。

 義足の話に触れてから、小秋は重い表情ばかりだ。そんな彼女に笑っていてほしくて、成葉はなるべく明るく接する。会社の同僚にも向けたこともないような精一杯明るい顔と声で。


「いえ、大変ですけどやりがいのある仕事ですよ。それにお客様のお役に立てるのでしたら私は満足です」


 歯の浮くような台詞に、成葉は言い終えてから一抹の羞恥を覚えた。小秋は、彼の心を見透かしたかのように固かった自身の表情をほころばせた。彼女は口元を隠しつつも、優しげな調子で玄関で出会った時みたく、にこりと笑った。

 この笑顔だ──。

 成葉は全身を打たれて、どきりとした。小秋の母親と重なるその笑顔は、いつだって可憐で美しかった。この幸せそうな微笑みを守り通せるなら、どんなものでも犠牲にできると思えるほどに。


「お父様も今の貴方と同じことを仰っていましたわ──。昔から、いいえ今も……お父様の頭の中はそのことばかり」


 小秋を笑顔にできた。成葉がそう思ったのも束の間、再び彼女の表情にかげりが走った。

 口にしないだけで、やはりまだ気にしているのだろう。吸血鬼化して片足を失った娘に顔も見せない父親と、彼が作ると約束してくれた代わりの足のことを。

 母親のように一見物静かそうで理性的な空気をまとっている小秋だが、心の内ではきっと泣いているのだ。今年高校生になったばかりの少女だ。実家を離れて暮らしていることも考慮すれば無理もない。


 笑顔でいてほしい。あの人によく似た、この子には──。


 気づいた時には、成葉は行動に出ていた。鞄の内にあるカタログ資料を手に取って、断りもなくテーブルに置いた。持参してきた限りの義足パーツの専門書やカタログの数々を。

 まるでトランプのカードのように並べられていくそれらをぼんやりと見つめていた小秋は、そこでやっと来訪者の傘士の突発的な行動を懐疑的に思ったようだが、止める隙もなかった。彼女は呆気に取られて開いた口元に、上品な白いオペラグローブをはめた手を添え、その光景を見守ることしかできなかった。


「……あの?これは、どういうことでしょうか?」


 テーブルが埋まり、成葉の手が止まったのを頃合に、小秋が当惑した面持ちで言った。

 一方で傘士の青年の方は落ち着いていた。


「よろしければ、私にあなたの左足を作らせてください。お願いします」

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