2話

 フードを外し、成葉は顔を見せてお辞儀を返す。

 水滴が飛び散らないよう細心の注意を払いながら手早く外套を脱ぐ間、小秋と名乗った少女から来客に対する興味津々といった感じの目線を浴びた。

 成葉の身体には緊張が巡っていた。

 油断したが最後、少女に魅入られてしまいそうだった。少女の青い瞳、白く透けた艶やかな髪、上品な言葉遣いは、否応なく恩人の女を脳裏に想起させる要素であった。

 決定的だったのは小秋という名前だ。それを聞いて、成葉はこの屋敷に住む少女の正体を把握した。本件の真意が読めた気がした。


 この少女は──あの人たちの娘だ。


「はじめまして。私は、民間配血企業ブランデル愛知支社の義肢装具ぎしそうぐ課で傘士をしている──」


 制服姿になった成葉は所属と本名を言い、名刺を小秋へ渡した。彼女は受け取った紙上に目を落とし、不思議そうに首をかしげる。


「あら?あの……すみません。お名前をもう一度うかがってもよろしいでしょうか」


 再度告げると、少女は微笑の表情のままではあるが困ったように片頬に掌を当てた。


「わたくし、本日は成葉という方がお見えになると聞いたのですけれど……違うのでしょうか?」


 どうやら支社長の伝達ミスらしい。彼としたことが、部下の紹介に職場での愛称を使ってしまったようだ。成葉としてはそれが嬉しかった。彼にとって私とは他でもない成葉なのだ、と再認識できたからだ。だが、ここは紛れもない職場外である。仕事先だ。慌てて事情を説明すると、小秋は納得したように小さく笑った。人懐っこいというより、あくまで礼儀正しい笑い方だった。


「父から時折、貴方のお話を耳にします。こうしてお会いできて光栄ですわ。お疲れでしょう、どうぞ上がってください」


 耐雨用の長靴を脱ぎ、室内用のスリッパを履く頃には、少女は車椅子の車輪を手で動かしながら、早くも廊下の奥へ進んでいた。

 すぐに少女に追いつき、車椅子を押そうかと手を伸ばしたが引っ込めた。彼女が振り向いたのだ。その表情は明るくない。


「お気遣い感謝いたします。ですが結構です」


 有無を言わさない毅然きぜんとした物言いだった。


「ところで……あの、父はいつこちらに来ますの?」

「はい?」



 灰色の空を映す窓ガラスには、水滴が止まらずにっている。

 客間に移った成葉と小秋は、テーブルを挟んで互いに困惑していた。各自簡単な自己紹介を経た後、早速依頼の件を話題に上げたのだが、さきほどから話が微妙に噛み合わない。いざ整理してみると、自分たちが置かれた状況というのが見えてきたので余計に混乱していたのである。

 温かい紅茶で満ちたティーカップを受け皿に戻し、成葉は失礼のないようにおずおずと言葉を紡ぐ。


「まさか……このようなことになるとは思いませんでした」

「わたくしも同感です」


 小秋はふふっと笑った。その笑顔は、母親譲りの素晴らしい微笑みだった。今となってはいくら願っても拝めない恩人の女の幸せそうな顔と重なって見えた。成葉は反射的に姿勢を正した。


「本当にずるい人ですわ。お父様も」


 肩をすくめる仕草をしてから、小秋は独り言のように呟いた。それから彼女は、大腿だいたい部より下がぽっかり存在しない自身の左足を眺める。

 三ヶ月ほど前の梅雨期に、出先で高濃度の瘴雨しょううを浴びて吸血鬼となった小秋は、その合併症状として壊疽えそした左足の切断を余儀なくされたそうである。その後、血液と義足を欲する中で、大手配血企業・ブランデル愛知支社の長である実の父親の津吹がそれらの準備をすると言ってくれたという。だが、その件が成葉へ丸々投げ出されている。

 小秋が聞いていた話によれば、義足は津吹が直接制作し、成葉は付き添い兼助手として制作過程を見学するだけという手筈だったとのこと。今回の訪問もてっきり父親がいるものだと思っていたらしい。

 しかし本当のところ、津吹は技術交流会と義肢技術の視察を目的としたドイツへの長期出張を目前に控えていた。彼は数ヶ月前から外回りや義肢制作に関わる仕事は一切受け付けていない。それはまるで、本件への参加の意思がないようだった。


「……私がお客様の義足を制作する、ということなのでしょうか?」


 現状つまりはそういうことになる。

 成葉は気まずそうにたずねたが、小秋の方は悩むような反応をするわけでもなく、温顔を保ったまま目を逸らした。


「父はどうやらそうさせたいようですね……」


 無表情の小秋は、ため息のように小さく息を吐くと、成葉へ深々と頭を下げた。


「雨の中こちらまでお越しくださった貴方には大変申し訳ありませんが──義足の件はお断りさせていただきます」


 淑女然とした言い方だった。依頼の拒否に、成葉は驚きのあまり何度か瞬きする。


「ご所望ではないのですか?義足を……」

「“足が不自由なのは足の妨げとなるが、意志の妨げとはならない”とも言いますし、幸いなことにわたくしには右足が残っていますわ」

「そうは言いましても、生活に支障が出てしまうのではありませんか?」

「もちろん承知の上です。退院してから今日までここでそうしてきたのですから、きっとこれからも大丈夫ですわ」


 小秋は手にしているティーカップを軽く上げた。たしかに、彼女は二人分のお茶の準備に手間取らないぐらいには片足でも動けるようである。

 もっとも、それはあくまで現時点での話だ。残された右足がいつまで無事なのか保証はどこにもない。吸血鬼──瘴雨患者にとって、足の機能不全は常に隣り合わせのものだ。片足に負担が集中すれば尚のことだった。現実の現代社会における吸血鬼は、フィクションのように強靱な存在ではない。

 そういう訳で、成葉は釈然としなかった。かたくなに義足を拒み始めた彼女の心情を上手く汲み取れなかったのだ。初めから作り物の足が嫌なら、津吹に対しても血液のみを要求すればいいはずである。しかも玄関で出迎えてくれた時は穏やかで和やかな印象だったが、今の彼女はどこかぎこちなく、笑いも乾いているように見えた。剥き出しにこそなっていないものの、テーブルを境として敵愾心てきがいしんに限りなく近い圧をかけられているようにさえ感じ取れる。

 そういえば、と成葉は一旦話題を変える。


「お客様はこちらのお屋敷にお住いで?」

「ええ。そうですわ」

「……おひとりで?」

「はい。退院した後は実家ではなくこちらに住んでいますの。父の許しを得ましたから」

「そうだったんですか」


 成葉はゆったりと部屋を見渡した。この屋敷は敷地の割には地味な内装だ。豪奢とか豪華絢爛の文字とは違う。格調高いアンティークなどはない。そのくせ庶民のような醜い生活感めいた気配は全く見受けられず、妙に瑞々みずみずしい空間だった。

 まるであの日からぴたりと時間が止まったかのようだった。ふと外からの雨音が鮮明に聞こえた。

 そうだ、あの時も秋雨が止むことなく──。

 心の奥底で過去の情景が蘇る。

 ここの空気は変わっていない。そう、今にも、廊下の方から白い髪をなびかせてあの女性が歩いてきそうなほどに。そしてまた、打ちひしがれて無力な自分のことを無償の愛で救ってくれるのかもしれない……。

 成葉は、思わずそのまま意識がどこかに遠のいてしまいそうになったところを空咳をしてごまかす。


「なぜご実家ではなくこちらに?使用人の方もいらっしゃらないようですが」

「……色々と理由があるのです。他人ひと様にはお話できないようなお恥ずかしいことですから、どうかお気になさらずに」


 自己紹介の際、過去の経緯すべてを話すわけにはいかなかったが、成葉は名家たる津吹家のことを昔から個人的に知っており、ブランデル社に勤務するのも津吹支社長との縁とだけ小秋には伝えていた。

 小秋も何か隠している節があったのを成葉は感じ取っていた。自分が彼女に隠すのと同じように。それとなく探りを入れたが、これ以上の詮索は無礼に当たるだろう。

 生気が抜けたような小秋の曇り空の瞳を見て、成葉の胸の中には、またもかつての記憶と感情が雨のごとく垂れてくる。

 親からの逃走。

 それに相反する親への強い執着。

 過去の自分が体験したそれらが、目の前の少女と自然と結びつく。


「お客様は……支社長に義足を用意してもらいたかったのですか?」


 気がついた時にはそう質問していた。小秋はほんの一瞬、目を見開く。

 見当外れで馬鹿なことを聞いてしまったかとバツが悪くなる。謝ろうとした成葉だったが、小秋は気にする素振りは見せなかった。


「その通りですわ」


 彼女は端的に、鈴を転がしたような綺麗な声で答えた。


「実は、わたくしの母の義足は他ならぬ父が作ったものなのです。今のわたくしがそうであるように、母も吸血鬼で──あら、いけません……失礼しました。古い言い方でしたわ。瘴雨患者と言うのでしたよね」


 それはなにやら覚えのある訂正だった。

 成葉は胸が痛んだ。


「お客様の言いやすい方で構いませんよ」


 事務的に伝えた。それを聞いた小秋は頷いて話を続ける。


「──ですから、幼い頃からもし代わりの足が必要になった際にはお父様に……父に、作っていただこうと考えていたのです」


 小秋は気を落としたらしく目を伏せた。

 この少女のそれは、恩人の女とは重ならなかった。生前の彼女はいつだって慈愛の微笑み以外の表情を見せることはほとんどなかったのだ。

 小秋が落ち込む姿を目にすると、成葉は黙っていることは到底できなかった。彼はソファから身を乗り出すようにして、対面する少女に声をかける。


「ではお客様、こうしませんか?」

「なんでしょうか」

「支社長が次の出張からお帰りになったら本命の義足を作ってもらうことにして……それまでのつなぎとして、私の義足をお使いになる──というのは?」

「え……。良いのですか、そのようなこと」


 震えるように問いかけてくる小秋に、成葉は静かに首肯する。


「ブランデル社の者として、身体上の理由で生活に不自由されている方を見過ごすことはできません」

「大変嬉しいお言葉ですけれど──見ず知らずの貴方にお気を遣わせてしまったようで、本当に申し訳ありません……。それに、時間をかけて足を作る貴方に対して、別の足に替えることを前提に使うだなんて失礼なこと……わたくしにはとてもできませんわ」

「そんなこと気にしないでください。“足でも希望でも、可能な歩幅を知るべきである”とも言います。お客様がおひとりでここで暮らすことも……足を作らないことも、それならそれで結構ですが、あなたの身に何かあってからでは遅いのです」

「……わたくしに何かあっても、誰も心配なんてしませんわ。お父様が今日ここにいらして下さらないのがその証拠です」


 氷のように冷たい小秋の口調に、成葉は苦笑もできなかった。


「おそらく支社長にも事情があるのですよ。出張の準備でお忙しいようでしたので……」

「わたくし、吸血鬼になってからはお父様とはたったの一度もお会いしてないのですよ?義足と血液の件も、病室からわたくしがかけた電話でそれっきりでした」

「なにも、支社長がお客様を気にかけていないわけでは」


 それでも諦めず、思いつめた顔つきの小秋を励まそうとしたが、ついぞ彼女は口をつぐんでしまった。

 事実、津吹の考えは成葉にも分からなかった。娘からの依頼を津吹が引き受ける形で始まったのに、彼本人には義足を制作する時間も意識もない。後任の担当者への説明も一切が省略されている。これはおかしな話だ。

 ましては、吸血鬼化してひとりぼっちで暮らす実の娘のことである。親として気がかりになるのが自然なはずだ。そうでなくとも、まさか入院中の見舞いにまで顔を出していないとは。

 成葉は過去の経験から、津吹が身内の人間を見捨てるほど薄情な人間だとも思えなかったので、今回のことが妙に引っかかった。同時に、自分はどうすれば目の前の少女を本当の意味で助けられるのだろうかと悩んだ。

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