雨籠もりの吸血嬢

園山制作所

第1章 血と雨傘

1話

 “あなたの豊かな気高い血が世界中のどんな良薬よりも尊く、効き目の確かな血が、あたしに生命を取り戻させてくれるんだわ”


 ──ゴーチエ『死霊の恋』



 “残酷な恋、不思議な恋でね。わたくしあのままでいったら、命をとられたでしょう。恋には犠牲がつきものなのね。犠牲には血がつきものだわ”


 ──レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』



 “僕は自分の血をしぼって ペリカン鳥のようにあなたに捧げた”

 

 ──ハインリヒ・ハイネ『お別れ』



 ざらついた雨が住宅街に降っている。

 その中を遮二無二しゃにむに走る少年はとっくに全身がずぶ濡れだった。額を伝う水滴が汗なのか雨水なのか、区別がつかないほどに。呼吸が切れそうになりながら、時折後ろを振り向いては再び前へ首を戻し、休むことなく足を動かし続ける。血の流れる両足に雨がしみて痛かった。

 空から降る雨が赤くないことだけが幸いだったが、それもいつまで続くか分からない。

 とにかく逃げなければ。少年は恐怖と寒さで震えていた。行く宛てはなくとも、少なくともあの場所にいるよりは──。

 激しい雨が降る、昼間でも暗い日のことだった。

 少年が誰もいない道を走り続けていると、付近の家の門から何者かが出てきた。その人物は元が大柄なのか、それとも重装備の耐雨用の外套がいとうまとっているからか不明だったが──当時貧弱な体躯だった少年にとって、まず間違いなく熊と見間違うほど背丈がでかかった。おまけに道に出てから迷うことなくこちらを見てきたので、少年は思わず小さな悲鳴を上げて足を止めてしまった。

 しばらく互いに様子見するみたいに立ち尽くしていたが、やがて大男の方が一歩前に出た。


「そこの坊主」


 雨を防ぐための彼の外套は灰色の空と重なって、鎧のようにも見えた。

 頭部を覆うフード部の布地から、低くしゃがれた声が篠突しのつく雨の中へと響く。


「どうしたんだ。こんな雨の中……外套もなしに──濡れてしまってるじゃないか。それにその怪我は?」


 追っ手の一員かもしれない。その大男が全く無関係であることは頭の中で理解していても、理屈で否定する前に恐怖が勝った。少年は再度走り出そうとした。だが、足がもう言うことを聞かなかった。既に体力は底を尽きていた。尻が濡れることもいとわず、膝から崩れ落ちる。ばちゃりと不愉快な水の音がした。無機質な水たまりは、雨粒による波紋で月面のクレーターのような円状の衝撃痕を延々と繰り返し描いていた。


「大丈夫、大丈夫だ。怖がらなくていい。危害を加えるつもりはない」


 大男は少年をひょいと抱きかかえると、家の門の方に一目散に走っていった。

 このままでは連れていかれる。少年は咄嗟に抵抗しようとしたが、耐雨用であろう大男の分厚い手袋から感じたのは、微かな温かさと、今まで知らなかった優しい父親の強さだった。それらに抱かれてすぐに力が抜けた。

 門をくぐると広い緑の庭があった。丁寧に世話されていそうな毛並みの良い芝も雨でぐったりとしているが、正面玄関へと続く飛び飛びの石畳は小島のように浮かんでいた。自分だったらここをジャンプして渡っていくだろうな、と他愛もないことを考えた。しかし大の大人の足は早かった。大男は変わらず少年を腕に抱えた状態で石畳を無視し、真っ直ぐに玄関へ進んでいく。

 その時、少年の目から涙が垂れた。

 初めから追っ手なんていなかったことを呑み込んだのである。自分の足でここまで逃げ切れた訳ではなく、最初から相手にされていなかっただけなのだと。

 とめどなく涙が溢れる少年をよそに、大男は焦るように何度も玄関扉を叩いた。


「すまん!開けてくれ、俺だっ」

「どうされましたの?」


 間もなく扉が内側から開かれると、暖かな室内には美しい女性が扉に体重をかけるようにして立っていた。


「門前にいた子だ。怪我をしてる……早く手当を」

「まあ大変」


 肌ばかりでなく、髪も白い女性。彼女は落ち着いた調子ながらも、そう返事した。

 少年は女性と目が合った。玲瓏れいろうたる彼女の青い瞳は、装飾品の宝石というよりかは、陽の光を受けた秋の海を彷彿とさせるものだった。


 その後、怪我の応急処置が済むと、シャワーと着替えを与えられ、更には客用らしい寝室で身体を休めるよう勧められた。

 少年はベッドに腰かけていた。広い部屋で、壁際には本がぎっしりと並んだ本棚が整列している。室内に他の家具は多くはなかったが、掃除は行き届いていて清潔だった。

 軽いノックの音。「はい」と返事を投げた。廊下から盆を持った女性がするりと入ってくる。あの白髪の女だった。


「怪我の方はまだ痛みます?」

「ちょっと」

「そうですか。早く治ると良いのですが……」


 女性はベッド脇にあるサイドテーブルに盆を置き、少年の隣に腰を下ろした。


「サンドイッチを作りましたの。お腹を空かせているのでしたら遠慮せず召し上がって」


 盆の上には女性が言うようにサンドイッチが載っていた。空腹だった少年はそちらに飛びつきたくなったが、横にいる彼女の足の異変に気づく。

 ロングドレスから覗く、足首より下が血の通った人間のそれではなかった。女性の左足は硬質の素材で固められていたのだ。

 義足──。少年はまじまじと見つめすぎたことを悪く思い、うつむくように頭を下げると、女性は小さく微笑み返した。


「わたくし吸血鬼ですから。なんて……ふふ。少々古風な言い方ですね。ごめんなさい」


 女性はほっそりとした綺麗な手で少年の頭を撫でた。初めての感覚に、少年はどう反応すれば良いのか分からず、じっとしていた。手はしなやかで温かい。


貴方あなたお名前は?」


 少年は答えなかった。

 身元の発覚を恐れたからではない。自分の名前が嫌で、これまで誰かに名乗ったことがなかったからだ。親という邪悪な存在から与えられたそれが自分を表すものだなんて、一ミリも信じたくなかったのである。

 ふるふると力なく首を横に振る。


「……どうしても名乗りたくないのかしら?それとも自分の名前が嫌い?」

「嫌い」

「そうでしたのね。事情は分かりませんが……貴方のお考えですもの、わたくしそれを無闇に否定することはしませんわ」


 けれど、と女性は続ける。


「名前がないのも不便なものですよ。わたくしは貴方のこと、なんてお呼びすれば?」


 少年は思考を巡らせたが、あだ名のようなものも思い浮かばなかった。困って部屋の隅にある本棚に目をやると、シェイクスピアの『マクベス』があった。ちょうど良かったのでそう名乗った。しかし女性は静かに微笑んだだけだった。


「あれは悲劇の主人公の名前ですわ。あえて借用する意味はあまりないと思いますよ」


 少年は黙る。そうだとは知らなかった。

 見かねた女性は、ゆっくりと少年の頭を撫でた。


「……実はわたくし、ついこの間、女の子を産みましたの。今は隣の部屋で眠っていますけど──」


 何の話だろう、と少年はぎこちなく顔を上げた。


「それで、あの子の性別が分かる前に男の子の名前も考えていたんです。使わずに終わってしまいそうですから……もし貴方がよろしければ、しばらくの間そう名乗っては?」


 女神のような深い笑顔を前に、少年は頷くことの他には何も出来なかった。その様子がおかしかったのか、女性はくすりと嬌笑きょうしょうした。

 それは少年にとって、大男の腕の力強さと同様に初めて感じるものだった。母親の、女の、全てを包み込む慈しみの笑い。雨で冷えきっていた少年の心は溶け、眼前の彼女が本当の母親のように思えた。


「素直な子ですね。では、今から貴方の名前は──」



成葉なるは


 名前を呼ばれたことに気づいた青年は、これまで特に意図もなく向けていた視線を窓の外から車内へと戻した。雨降る郊外の景色はどこか億劫な雰囲気を放っていて、見ているだけでやる気がなくなりそうだった。

 荒い運転に揺られながら、目的地に着くまでの間の回想。この青年──成葉は、覚醒と睡眠のちょうど境目の領域で、もう随分と昔の出来事を思い出していたのだ。

 十六年前のあの日。今日と同じ秋の雨下。濃い灰色の空から落ちてくる透明の雨粒に打たれながら、酷い孤独と不安に溺れていたこと。そこからひと組の夫婦と出会い、心身共に救われたことを。


「もうすぐ着くぞ」


 運転席でハンドルを握る同僚が淡白に告げてきた。

 助手席から返事もせず、成葉は欠伸をする。その後、重苦しそうにシートベルトを外し、自席の足元から正方形に畳んだ耐雨外套を取り出した。


「おい?別に『瘴雨しょうう』じゃねぇぞ」


 同僚の男が退屈そうな声で雨支度を制してくるが、お構いなしに外套のジッパーを開いていく。軍服と一昔前の車掌の制服を足して二で割ったような外見ばかりの会社の制服の上から、今度は宇宙服とダイビングスーツの中間に位置するかのような外套。動きづらいし暑いが、雨の日は仕方なかった。


「知ってる。今の雨はノーマルだ。雨粒を見れば分かる」

「だからそう言ってんだろ?そんなモン着なくても」

「どのみち雨が強い。お客様と顔合わせって時に制服が濡れたら元も子もない」

「ああ、つまり第一印象は大事ってワケか?」

「そういうこと」


 外套の着用を終えて支度が済んだ頃、雨の中を走る車は郊外からやや外れた地域に差しかかった。タイヤから伝わってくる振動が微かに小さくなる。窓越しに地面を見下ろすと、舗装のアスファルトが大分しっかりとした造りになっていた。郊外から更に遠方──都市部とはかなり距離があるというのに、この辺は交通網整備計画の該当地区なのだろうか。

 いよいよ目的地に迫ったようで、車が速度を落とした。外と車内のすれ違いがなくなり、空気が均一化する。その過程で心なしか雨の勢いも収まったように思えた。

 道路の隅に車を停めて、同僚の男は腕時計に目をやる。時刻は十一時を回っていた。


「昼には片付きそうだな。この後は暇してんだろ、蕎麦でも食いに行かねぇか」

「いいね。でも昼前に終わるかは微妙だ」

「はぁ?なんだよ……なあ、今からの客ってどんな奴?」

、ね」


 この仕事は接客態度も問われるものだった。成葉は同僚の言葉遣いをたしなめたものの、「俺はいいんだよ。運ぶだけだから」と職種が違うことを言い訳に、相手からはひらひらと手を振り返された。


「で、どうなんだ」

「知らん」

「いや、知らんってことはないだろ?お前の担当なんだから」

「本当に知らないんだよ。それが私にも分からないんだ。支社長から直々にお願いされて……なんでも助手として名乗れば先方には話が通るらしいんだが」

「変な案件だな」


 目的地付近の住所のみを聞かされていた同僚は、客の家がどこにあるのか探すため外を見回した。住宅街の奥に隠れるように佇む一件の古い屋敷を発見する。


「もしかしてよぉ。あの家?」


 成葉は、同僚の言葉を聞き、事前にもらったメモと屋敷を見比べた。その後すぐに息が止まりかけた。はっとした表情になってしまっただろうか。横目に運転席の方を盗み見るが、隣の席にいる男はまだ屋敷へ意識を傾けていたようで、戸惑いを勘づかれることはなかった。


「……多分そうだ」


 平静を装い、短く言った。


「ふーん……よく分かんないけど訳アリってことか。まぁいいや、不要な詮索は俺の流儀じゃないし」


 同僚の男は背もたれに身体を預けると、つま先で器用に車載ラジオのスイッチを押した。平坦な女性アナウンサーの声が流れる。昼前のニュース。気象省発表の天気情報。

 県内全体と自身の担当区域の一週間予報──。癖でつい聞き入ってしまうが、左耳に装着したイヤホンをはめ直すと、ラジオのその音声は最早どうでもよくなった。


「聞いたか?この辺、十五時頃まで七ミリだってよ。雨雲が大分風に流されてきてる」

「そう」


 二重構造になっている耐雨外套のフードを素早く被り直すと、成葉は生返事して助手席から降りた。ぱららら、と全身を射す雨を弾く心地よい音が、外套という人工の皮膚に守られた蒸し暑いさなぎの中に木霊した。

 荷物を左手に提げ、小走りで移動を始める。ここからだと屋敷までは入り組んだ道を進む必要があるようだった。

 角をひとつ曲がったところで成葉は止まった。同僚の死角に入ったと悟ると、遠慮なくしきりに辺りを見渡す。そこから少し進んで通りに出ると、彼の読みは当たった。間違いない。記憶にある場所だった。


 ──どうして今さっきまで気がつかなかったのだろう?


 成葉は空を仰ぐようにそれを眺めた。

 年季の入った西洋風の屋敷、今にも雨に沈みそうなその建物を。

 あの日──自分を雨から守ってくれたあの家を。



 屋敷に到着する。車内で頭に叩き込んだメモ内の住所と外観は一致している。表札はない。元から名前を聞いていなかったが、まさかこんな事態になるとは思いもよらなかった。

 門の隙間から庭を見ると、雨に蹂躙されている緑の大地がそこには広がっていた。

 成葉は懐かしむが、するといよいよこの仕事がどういったものなのか分からなくなってきた。


「……あの人はもう」


 不意に漏れた言葉を舌を噛むように断ち切った。死者は決して蘇らない。それは分かっている。では、ここの家主は誰なのだろう。

 懐疑的になりながらも呼び鈴を押す。


「はい?」


 門の横にあるインターホンから声がした。女性の声だった。

 成葉はどきりとした。この声は──。燃え上がるような衝撃が全身に走った。雨音に負けじと声を張る。


「ブランデル社の者です。義足制作と血液定期配送の契約の件でうかがいました」

「貴方はどちら様?」

津吹つぶきの助手です」

「……門は開いております。どうぞ正面の玄関までお入りくださいませ」


 そこで会話は途切れた。成葉は敷地に入って、石畳を踏みながら歩いた。いつかどう歩こうか考えたその道を。とはいえ心中は激しい動揺で満たされていた。

 あの声。人を包む優しい風のような囁き。

 しかし、あの人は亡くなられたはずでは……。


 玄関扉をノックすると、少し間を置かれてから開かれた。

 そこには扉に寄りかかるように白皙はくせきの女性──否、少女が立っていた。片足のない、人形のように綺麗な少女が。彼女はぺこりと頭を下げ、成葉へ労いの言葉をかける。

 少女は来訪者に中に入るよう促し、自らは廊下にぽつりと置いてある車椅子に静かに腰掛けた。

 成葉は扉を閉める。正面に向き直り、彼は言葉を失いかけた。そこにいたのは、あの日、自分に名前を与えてくれた女性とよく似た少女だった。


「お初にお目にかかります。わたくしは小秋こあきと申します。貴方のことを心よりお待ちしておりました」

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