テオ視点 レオナルドの軌跡

※誤字脱字、探せていません。

 なにか見つけても、見なかったことにしてください。

 もうしばらくこの見苦しい言い訳が続くと思います。


■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □


 まず真っ先に感じたのは寒さだ。

 シンと差し込むような寒さに体を丸め、寒いからと丸まっている場合ではないと思いだす。

 では寒くても体を起こすか、と決意を込めて背筋を伸ばせば、どうも狭い場所に寝ていたようで、ゴチンっと頭が壁にぶつかった。


「……痛っ」


 反射的に頭を押さえると、利き腕が何かに滑る。

 続いて痛み始めた肩に、違和感を覚えて逆の腕で肩を探った。


 ……血?


 生暖かく黒い液体が指に付着しているのを確認し、ゆっくりと状況を理解していく。

 どうも狭い場所に寝かされていたらしい。

 利き腕は使えそうにない。

 指に纏わり付いた黒い液体は、血だろう。

 かなりの出血だ。

 それから、本来赤いはずの血が黒く見えるということは、今は夜なのだと思う。

 もしくは、狭い部屋に閉じ込められていて光が入ってこないのだ。


 ……なんだ? 何が起こった……?


 怪我をした覚えなどない。

 ということは、意識を失っている間になんらかの事件や事故に巻き込まれたのだろう。

 まずは自分のおかれている状況を確認したい、と閉じ込められている場所の広さを確認するために足を伸ばせば、足は自由に伸びた。

 どうやら、狭い場所に閉じ込められたというのは俺の勘違いだったらしい。

 丁度壁際に俺が寝ていたせいで、狭い場所に感じられただけのようだ。


 ……とはいえ、怪我をして放置されているというのは穏やかな話じゃないな。


 どう考えてもおかしい、と体を起こし、引き続き情報を求めて耳を澄ませる。

 怪しげな相談をする声などは聞こえてこなかった。

 しかし部屋の外には人がいるようで、穏やかな話し声が聞こえる。

 内容までははっきりと聞き取れなかったが、本当に穏やかな雰囲気だ。

 もしかしたら、怪我人おれがここにいると知らないのだろう。

 となれば、俺を傷つけた犯人が、穏やかな日常を過ごす一般人の家へと俺を運び込んだのかもしれない。

 家人たちが肩から血を流す俺を見つければ驚き、何ごとかと恐怖を味わうことになるだろう。


 ……誰か近づいてくるな。


 耳を澄ませてると、娘のものと思われる軽い足音が近づいてくるのが判った。

 慎重さもなにもない足音に、ここに怪我人が転がっているだなんて知りもしないのだろう。

 俺のこんな姿を見つければ驚くだろうか、とは思ったが、逃げる必要があるのかどうかも判断に困るため、相手の出方を窺うしかない。


 せめて相手を驚かさないようにと体を起こして扉が開くのを待っていると、扉を開けて部屋に入ってきたのはランプを持った娘だった。

 黒髪を綺麗に纏めた姿は使用人のものだとすぐに判るのだが、その娘の顔に俺の方が驚かされる。


「ミルシェ……?」


「え? レオナルド様……じゃ、なくてテオ?」


 そんな馬鹿な、と驚いた顔をして、ミルシェが俺の近くへとやって来る。

 ランプに照らされてお互いに顔を確認するのだが、娘の顔はどうみても妹のミルシェだ。

 幼い頃に別れた妹のミルシェが十年もすれば、目の前の娘のような感じになるだろう。

 そして、その十年という年月は、そろそろ過ぎる。

 ミルシェが無事に育っていれば、丁度目の前の娘ぐらいの年齢になっているはずだ。


「なんで、ミルシェが……」


「それは私の台詞っ! なんでテオが……テオが……? あれ? やっぱりレオナルド様?」


 マジマジと俺を見つめるミルシェに、俺の方もミルシェを観察する。

 痩せて薄汚れた子どもでしかなかったミルシェが、今はいいところの使用人とわかる作りの良いお仕着せ姿で目の前に立っていた。

 気のせいでなければ、立ち居振る舞いも下町育ちとは信じられないほどに洗練されている。

 これが本当に妹のミルシェだろうか、と疑問に思っているのはお互い様だろう。

 俺だってミルシェが知らない間に白銀の騎士となった。

 使っている名前も違う。

 見違えているのは、ミルシェだけではない。


「あれ? テオ、怪我してるの?」


 すぐに治してあげる、と言ってミルシェがポケットへと手を入れる。

 中から飴玉を二つ取り出したかと思うと、足元に現れた不思議な生き物へと俺の怪我を治すように頼み始めた。


「これは……」


「精霊だよ。……テオは初めて見るの?」


 ごく普通の顔をして、不思議な生物をミルシェは『精霊』と呼ぶ。

 どうやらおれの知らないうちに、妹は精霊を見る巫女にでもなっていたようだ。

 あまりにも当たり前だという様子で物を言うものだから、俺の方こそ物を知らない気がしてきた。


「最近にやってようやく私も精霊の声が聞こえるようになったんだよ。おかげで、このぐらいの怪我ならすぐに治してもらえるんだから」


 少し痒くなるよ、とミルシェが前置くと、精霊と呼ばれた不思議な生物が俺の腕に飛び乗る。

 不思議と重さはないようで、怪我をした腕に乗られているというのに、痛くもなんともない。


 そして次の瞬間に、宣言されたように猛烈な痒みに襲われることとなった。







 怪我がすっかり塞がると、ゆっくりと立ち上がる。

 その間にミルシェが部屋に明かりを灯したので、室内を見渡すことができた。


 部屋の中は、どこにでもある普通の居間だ。

 大怪我をさせた白銀の騎士を転がしておくには、少々どころではなく違和感のある普通さである。


 ……なんだ? 何が起こって、俺はここにいたんだ?


 何かがおかしい、と自分がたった今まで寝転がっていた床を振り返る。

 狭い部屋だと一瞬考えたのは、寝かされていた場所が暖炉だったからだ。

 火の入っていない暖炉に、御伽噺の一節を思いだす。

 神王祭の夜に、精霊に攫われた子どもが戻ってくるのが、家の暖炉だったはずだ。


「神王祭の夜だから、テオは暖炉から出てきたんだね」


「……納得するようなことなのか?」


「いつものことだし?」


 何を言っているの? と俺の指摘へとミルシェは変なものを見る目で首を傾げる。

 どうやら疑問に思う俺の方がおかしいらしい。


 ……なんだ? 何か変だぞ?


 生き別れた妹のミルシェと突然の再会にも驚くが、そのミルシェの驚きが少ないことの方が気になる。

 俺を『テオ』か『レオナルド』かと呼び方で戸惑ってはいるようなのだが、ミルシェの口ぶりから察するに、ここはグルノール砦の主に与えられる館で、ミルシェはそこで雇われているようだ。

 その雇い主の名前が『レオナルド』で、俺が王都で名乗っている今の名前と同じものだった。

 ならば一度その『レオナルド』にミルシェの兄として挨拶をするべきかと考えたのだが、ミルシェによると俺がその『レオナルド』らしい。

 俺は確かに『レオナルド』と名乗っているが、黒騎士ではなく白銀の騎士だ。

 グルノール砦の主になど、なった覚えはない。


 何かがおかしい、とミルシェから話を聞いているうちに砦へと報せが行ったらしく、黒髪の男とアルフがやって来た。

 アルフまでが王都を離れていることに驚いたのだが、その驚きを口にするより早く黒髪の男の方に力いっぱい抱きしめられる。

 自分がおまえの父親だ、と。


 突然のことに驚きはしたが、俺の親は名付け親のサロモンだけであり、養父や義父希望者はこれ以上募集していない、と男を引き剥がした。

 これ以上もなにも、最初から募集などしたことはないのだが、近頃は俺を養子にという話が多くて少し煩わしい。


 引き剥がされた男は少し淋しそうな顔をしていたが、その顔が少し俺と似ていると思った。

 突然父親だと名乗り出られても困るのだが、ほんの少しだけ話を聞いてみようかとも思ったのだから不思議だ。

 この手の話は多すぎてうんざりしているのだが、なんとなく聞かなければならない気がした。


 ……まあ、それよりも、アルフが妙に老けているのが気になるんだけどな。


 気のせいか、アルフが老けている。

 俺より二歳年上だと聞いていたはずなのだが、二十代前半になったかどうかという年齢のはずなのだが、二十代後半に見えた。

 色々不自然すぎる、と疑問をそのまま口に出すと、アルフは苦笑いを浮かべる。

 自分が老けたのではなく、俺が若返ったのだ、と。


「……ちなみに、レオナルドは自分を今何歳だと思っているんだ?」


「俺は……この春で十七になるはずだが……」


「その春はとっくにすぎて、今は冬だ」


 今日は神王祭だぞ、と言われてようやく少し肌寒くなってきた。

 春物の服を着ているので、冬と聞くと少しだけ肌寒い。


 ……刺繍?


 改めて自分の服装を見下ろすと、自分の服のはずなのだが、あちこち丈が余っている。

 アルフの言っていることが本当ならば、俺が若返ったせいで背丈や筋肉が失われたのだろう。

 元は俺の体の大きさに合わせて作られた服だったはずだ。

 それも、丁寧な刺繍が入った服だ。


 ……これは、春華祭の贈り物か? 貰った覚えはないんだが……。


 丁寧な針仕事だと、ひと目みただけで判る刺繍だ。

 記憶が不確かながら、少し前の俺には春華祭に刺繍を送ってくれる相手がいたらしい。

 幸か不幸か、相手の顔も名前も思いだせなかった。







 俺の身に何が起こったのか、世界に何が起こったのか、はアルフが説明してくれた。

 俺の方も覚えていることをかき集め、アルフの話の辻褄を合わせていく。


 俺には『レオナルド』として白銀の騎士になり、王都で国王クリストフに騎士として仕えていた記憶しかないのだが、アルフの知る俺は三十一歳で、グルノール砦の主になったのは十八歳の時だったそうだ。

 俺の記憶が十七歳までだということで、俺がグルノール砦について覚えていないのはこのせいだろう。


「それにしても、精霊か。世界が変わりすぎだろ」


「精霊が溢れたこともあるが、神王領クエビアには神王が戻ったという噂があるな」


 あくまで噂は噂で、神王領クエビアからは何の発表もないらしい。

 これについては、地上に戻ったばかりの神王が休養を必要としているのか、生まれたばかりで外へ出てこられるような状態ではないのではないか、と憶測ばかりが増えているのだとか。


 どうやら俺の時間だけが巻き戻っているらしい。


 そんな状況になんとなく慣れ始めた頃、王都からの召集命令が下る。

 若くとも白銀の騎士なのだから、一人で王都まで行けるというのに、何故か護衛として白銀の騎士が三人もやって来た。

 その理由は、王城内にある離宮へと案内されてから知る。

 俺の父親を自称するランヴァルドば死んだはずの王弟で、俺はその一人息子だったそうだ。

 つまりは、王族の護衛として白銀の騎士が派遣されて来ただけということになる。


 あまりの話に呆然としていたら、知らないうちに手続きが完了していた。

 故人であるはずの王弟ランヴァルドに息子などいるわけがない、ということで、クリストフと妃ジョスリーヌの養子として迎え入れられる。

 『テオ』では名前が短すぎる、とここで名前を『テオドール』と改められた。

 養母がジョスリーヌ妃なのは、彼女が高齢でこれ以上は新たに子どもを産めないかららしい。

 国王クリストフは三人の妻を平等に愛し、それぞれの妻に同じ数だけの子どもをもうけた。

 それが年齢を理由にジョスリーヌ妃にだけ子が少なくなってしまう、ということで養子を取ることにしたようだ。

 その養子として、故人であるはずのランヴァルドの子は都合が良かったらしい。

 そんな理由から、俺には突然四歳年下のアンセルム王子という兄ができた。


 ……これは。


 あれよあれよと言う間に『レオナルド』の功績から王爵までいただいてしまい、ランヴァルドに引っ張りまわされてあちらこちらへと挨拶に行く。

 今日の午後はフェリシアが自身の離宮に滞在しているということで顔を出したのだが、その玄関ホールに飾られた絵画にひと目で心を奪われた。


 芸術など俺には無縁のもので、絵の良し悪しなど一生解らないだろう。

 そうなんとなく教養としては身につけても、縁遠いものと片付けていたのだが、見事にひと目だ。

 ひと目で心を掴まれ、呼吸も忘れるほどに目が吸い寄せられる。


「……ああ、この絵か。この絵は父さんが描いたんだよ」


 どうだ、すごいだろうとランヴァルドの誇らしげな声が聞こえてくるのだが、右から左へと聞き流した。

 意識のすべてが絵画に吸い寄せられて、ランヴァルドの声がまともに頭の中へ入ってこなかったのだ。


「あら、テオは梟の姫に夢中みたいね」


 くすくすと姉となったフェリシアの笑い声が聞こえてくるのだが、これもほとんど聞き流す。

 ただ、ランヴァルドの言葉とは違い、いくつかは頭に残った。


「……梟の姫、というのは?」


 絵画に描かれているのは、白い梟の精霊だ。

 梟の精霊といっても、描かれているのは美しい娘である。

 絵に描かれた作り物めいた美貌の娘。

 こんなに美しい娘が実在するはずがない、とは思うのだが、どうしても目が離せない魅力がある。

 ランヴァルドの画家としての腕というよりは、俺の好みに一致しすぎているのだろう。

 女性の顔を見て、こんなにも惹かれるのは初めてのことだ。


「梟の姫というのは、モデルになった少女のことよ。他にも、精霊の姫だとか呼ばれていたわね」


「モデルは……実在する人間なのですか?」


「していなければ困るわ」


 付け加えるのなら、モデルにしたのは少女時代であり、その頃に想像した大人になった姿がこの絵画の『梟の精霊』なのだそうだ。

 ぜひともモデルの素描デッサンが見たいといったら、フェリシアには笑われてしまった。

 モデルになった頃の『梟の精霊』が見たければ、自分の胸を見れば良い、と。

 俺の首から下げたペンダントの中にあるカメオの少女が、『梟の精霊』の少女時代の横顔なのだそうだ。


 ……確かに、子どもらしい頬の丸みが取れれば、似てくるか?


 早速ペンダントを取り出し、絵画とカメオの横顔を見比べてみる。

 モデルが同じだと言われてみれば、確かに共通点を見つけることができた。


「……しかし、これだけの美しい姫君だ」


 大人になっているというのなら、婚約者なり夫がすでにいるのではないだろうか。

 そう『梟の精霊』へと傾いていく心を自分で引き止めていると、フェリシアからはこの考えは正解である、と教えられる。

 『梟の精霊』はモデルとなった少女を見つけ出したとしても、すでに婚約者がいるのだそうだ。


 ……婚約者ということは、まだ俺にも機会が……。


 恋人と想い合っての婚約であれば付け入る隙はないが、親が決めた婚約であればまだ俺にも機会はある。

 ポッと出の養子縁組で入った王族ではあるが、それでも王子は王子だ。

 女性を口説く上で、この肩書きは有利に働くはずである。


 ……女性を口説くために肩書きに頼ろうだなんて日がくるとは、思わなかったな。


 なりふり構っていられないというのは、こういうことを言うのだろう。

 『梟の精霊』の視界に入るためなら、多少どころではなく見苦しい真似ができそうで我ながら恐ろしい。

 俺が本当にランヴァルドの血を引いているというのなら、俺にも扱いに注意が必要になる困った王族の血が流れているということになる。

 この血の暴走で『梟の精霊』に迷惑をかけ、怖がられるわけにはいかない。

 少しどころではなく慎重に、冷静になる必要があるだろう。







 フェリシアの離宮から戻ってすぐ『梟の精霊』について情報を集め始めると、アルフレッドが奇妙な顔をした。

 精霊の名前は『クリスティーナ』と言い、俺が記憶を失う時に一緒に行動をしていたはずだ、と。


「クリスティーナにつけた護衛によると、おまえが迎えに来ると言ったかなにかで、迎えに来るまで隠れているつもりらしいぞ」


 さっさと見つけて来い、とアルフレッドに言われても困ってしまう。

 俺には『クリスティーナ』という娘の記憶が何もないのだ。


「見つけて来いと言われても……俺には『クリスティーナ』と言われてもピンと来ないんだが……」


「そうか。十七歳のレオナルドは『クリスティーナ』を知っているはずがなかったか」


 クリスティーナと俺が出会ったのは、俺が二十一歳の時らしい。

 もうすぐ十八歳になる十七歳の俺に、クリスティーナの記憶があるはずがなかった。


「ああ、そうか。『クリスティーナ』で判らないのなら、『ティナ』ならどうだ、テオ?」


 『テオ』としてグルノールの街で暮らしていた頃に、『ティナ』という女の子と出会っているだろう。

 それを指摘され、首を捻る。

 アルフレッドに初恋の女の子の話などした覚えはない。

 覚えはないのだが、こうして指摘されるということは、俺の失われた記憶の中で何かがあったのだろう。


「おまえが恋焦がれる『梟の精霊』がクリスティーナこと、『テオ』の初恋の『ティナ』だ」


 どうだ、俄然探し出す気になって来ただろう、とアルフレッドは笑う。

 今の俺は孤児ではない。

 真偽はともかく父親が見つかり、養父母ができ、本来の地位を得て、父親の違う妹は母親の元を離れて『レオナルド』に保護され、すでに安定した職にもついている。

 さらに言えば、俺はもう子どもではない。

 路銀が尽きれば働いて稼ぐこともできるし、利き腕は怪我の影響か動かし難くなったが、足は二本とも自由に動く。


 俺はどこまでだって、自分の意思で行くことができるのだ。


「確か『テオ』と『ティナ』は喧嘩別れしたままだっただろう」


 喧嘩別れした初恋の女の子に会いたくはないか、と聞かれれば、会いたいとしか言えない。

 あの女の子のことは今でも心に残っているし、あの子を思っていたからこそ、俺は今も生きているのだ。

 会えるのなら、会いたい。

 俺が会いに来るのを待っていてくれるというのなら、迎えに行かなければならない相手だ。


 ……本当に、『梟の精霊』が俺を待っていてくれているのなら。







 探せと言われても具体的な方向すら判らず、王爵としての仕事に忙殺されている間に日々が過ぎる。

 神王祭に暖炉から戻った時には十七歳だったのだが、十八歳も後半に突入した。


 この間に判ったことと言えば、俺が滞在している離宮はここ数年で『精霊宮』と呼ばれ方が変わり、本来の主は探している『梟の精霊』である、ということだ。

 どうりで俺は王子という身分でありながら客間へと通されているはずである。

 離宮の主は別人だったのだ。


 せめて十九歳になるまでには迎えに行きたい、と思い始めた頃、離宮に変化が現れ始めた。

 離宮に変化というか、俺の顔へと寝ている間に落書きされるようになったのだ。


 ――レオのアホ。遅い。


 鏡に映った逆さまの文字をなんとか読んだら、こう書かれていた。

 鏡は逆に映るから読み難い、と何気なく感想を洩らしたら、次にはしっかりと鏡で反転することが計算された文字が書かれていたので、これを書いた人間はどこかで俺の反応を見ているのだろう。


 ――遅ーい。レオのアホ。バカ。


 段々文言が増えていくのは、相手も苛立っているのだと思う。

 これについては「今はレオではなく、テオなんだが……」と呟いたところ、これも次には訂正されていた。


 ――テオでもレオでもなんでもいいから、早く迎えに来ないと、レオのぶんのプリン全部食べちゃうから!


 こんな具合に段々と文字数が増えてくる落書きに、そのうち俺の顔どころか全身に落書きが書かれているのではないだろうか、と少しだけ心配になってくる。

 離宮の侍女にそう零したところ、離宮の主ならば本当にやりかねない、と笑っていた。


 そろそろ本気で落書きの犯人を捕まえなければならいだろう。

 そう思って数日眠りを浅く待ち構えていると、夜中に何者かの気配がした。

 ふわりと花の香りに包まれたと思うと、周囲からくすくすと楽しげな小さな笑い声がする。

 これは間違いなく落書きの犯人だ、と現行犯で捕まえようと飛び起きると、周囲には誰もいなかった。

 ただ、暗闇に小さな光が浮かんでいた。

 光は俺を誘うように頭上でくるくると回ると、すいっと俺から離れて部屋を出る。

 誘われていることは判ったので、光を追って廊下へと飛び出した。


 光は迷いなく離宮の廊下を進む。

 元からそういう性質なのか、この離宮の構造を知っているのかは謎だ。

 とにかく精霊のすることなど理屈で考えることは不可能だ、というのが近頃の俺とアルフレッドの見解である。


 不思議な光を追って離宮の主のための春の部屋へと足を踏み入れる。

 すいっと迷いなく進む光は、暖炉の中へと消えた。

 ここに何かあるらしい、と調べると、隠し扉がすぐに見つかる。

 扉から中を覗くと、やはり光が俺を待っていた。


 光を追って隠し通路を進む。

 どこかからか明かりを取っているらしく、夜だというのにランプ無しでも歩くことができた。

 やがて突き当たりに行き当たり、目の前には何故か周囲に比べて新しめな扉がある。


 扉を開くと、その先には緑に包まれた小さな家が立っていた。







「……今は夜中だったはずだが?」


 夜中だったはずなのだが、周囲はすっかり明るい。

 太陽の位置から見て午前ではあるはずだが、どう考えても夜中ではなかった。


 とりあえず落書き犯を捕まえようと、手掛かりになる目の前の一軒家へと近づく。

 すると裏口の扉が開き、中から出てきたのは黒髪に青い目をした美しい娘だった。

 手には洗濯物の入った籠を持っているのだが、そこがまた家庭的で心を鷲づかみにされる。

 こんな気持ちは『梟の精霊』が描かれた絵画に出会った時以来だ、と思ったところで気がつく。

 目の前の娘こそが、その『梟の精霊』だ。

 幼い少女をモデルに、大人の姿は想像図だと聞いていたのだが、絵画に描かれたままの姿をしている。

 むしろ、生きてコロコロと表情が変わるぶんだけ本物の方が素敵だ。


 とはいえ、目の前の娘は俺の顔への落書き犯である可能性がある。

 まずは捕縛し、それから話を聞こうと近づいて、気が付いた時には娘の手を取り、膝を付いて懇願していた。


「俺と結婚してください」


 言う内容を間違えた、と気が付いた時には遅い。

 娘は青い目を丸くして驚き、固まっている。

 出会いがしらに求婚してくる男など、娘の容姿を見れば掃いて捨てるほどいたに違いない。

 もしかしなくとも、そういった手合いには手を焼き、嫌悪もしているだろう。


「あ、間違えた。……違う。そうじゃない」


 どう言い繕って娘の警戒を解くべきか。

 焦って言葉を探す俺に、娘は警戒するどころか、花が綻ぶような微笑を浮かべる。

 不覚にも、その微笑に頭が真っ白になってしまった。


「……あの時と逆ですね」


「あの時?」


「レオナルドさんと初めて会った時。あの時はわたしが大きなレオナルドさんを見上げていたのに、今はレオナルドさんがわたしを見上げています」


 ふふふと笑う娘はたまらなく可愛らしいのだが、一つだけ面白くないことがある。

 どうやらこの笑みを作っているのは俺ではあるらしいのだが、『レオナルド』だ。

 『レオナルド』も俺だとは判っているのだが、今の俺は『テオ』だとも思っているので、別の男が娘の笑みを作っている気がして面白くない。

 俺は『梟の精霊』を前にして、緊張からまともに話もできない状態だというのに、この娘はそうではないらしい。

 自然な仕草、自然な声音で、俺を迎え、俺に笑いかけていた。


 異性を意識しているのは、俺の方だけだ。

 それがなんとなく面白くない。


「……俺は『テオ』だ。誰と勘違いしている」


「そうですね。今は『テオ』でしたね。……テオドール様?」


 なんだか不思議な気分だ、とひとしきり笑ってから、娘は自分を『クリスティーナ』と名乗った。

 クリスティーナという名前だが、昔は『ティナ』と呼ばれていた、と。


「……前は『死ね』なんて言ってごめんね、テオ」


 でも、先に川へと落としたことについては許さない、とクリスティーナは顔を顰める。

 自分が悪かったことは謝るが、俺の方も悪かったのだ、と。


「川に落としたことはごめん。それから……」


 謝ってくれたクリスティーナの暴言を許す。

 そう伝えたかったのだが、口から出てきた言葉はやはり「結婚してください」という求婚の言葉だった。

 どうやら俺はこの精霊の姫君を、本当に手に入れたくて仕方がないらしい。

 誰かに付け入る隙など与えず、今のうちに俺だけが会える場所へと隠してしまいたいようだ。


「誰かから聞かなかったんですか? わたしには婚約者がいるんですよ」


「婚約者は婚約者だろう。まだ夫婦じゃない。付け入る隙はいくらでも……」


「あ、では婚約破棄しますか?」


 言い募る俺へとクリスティーナがあまりにもあっさり婚約破棄を提案してくるので、これを訝しむ。

 愛のない婚約を親から押し付けられたのだろうか。

 これなら俺にも機会がある、と内心で喜び始めている反面、妙に気になるものがあった。


「えっと……嫌な奴と無理矢理婚約させられたのか?」


「いいえ? 違いますよ。大好きな人と、わたしが押し切る形で婚約をしました」


 大好きな人、という言葉に、冷水を頭から被せられたような気分になる。

 この美しい娘が恋をして、婚約を望んだ相手がすでにいるのだ。

 今さら出てきた俺に付け入る隙など本当にあるのだろうか。


 ……いや、でも? 婚約を破棄するかと言い出すぐらいだし、実はこの婚約に後悔しているとか?


 どっちだ、と頭が疑問で埋まる。

 一つの思考に占拠されて答えが判らなくなることなどこれまでなかったのだが、これが恋をすると人は愚かになるということか、と実感もした。

 この娘を手に入れたくて仕方がないと思っているのだが、嫌われるような真似はしたくない。

 クリスティーナの婚約者への現在の気持ちが判らない以上は、下手なことは言えなかった。


「それで、どうしますか? レオナルドさんは、わたしとの婚約を破棄したいですか?」


「……は?」


「これも忘れているようですが、わたしの婚約者はレオナルドさんですよ」


 婚約者に改めて求婚されるというのも、なかなか面白い体験である、とクリスティーナは笑う。

 一度婚約を破棄し、また改めて婚約し直すのも面白そうだ、と。


「俺に婚約者がいるだとか、俺が婚約者だとか、誰からも聞いていないんだが!?」


「当たり前すぎて、みんな言い忘れたんでしょうか?」


 不思議ですね、とクリスティーナは首を傾げているが、アルフレッドが言い忘れるはずはないので、わざとだろう。

 王都にいる王族かぞくはわざと俺が婚約者であるということを伏せ、『梟の精霊』には婚約者がいる、と俺を煽ったのだ。


 見事に遊ばれた、と落ち込みたいはずなのに、いいように玩具にされたという恥ずかしさよりも喜びの方が大きい。

 つまりは、最初から『梟の精霊』は俺の婚約者だったのだ。

 思う相手のいる『梟の精霊』に嫌われる心配も、蹴落とすべき恋敵もいなかったということになる。

 これは喜んでおくところだろう。


「それで、ご理解いただけたようなのでもう一度聞きますが、どうしますか?」


 少し意地悪く微笑むクリスティーナが憎らしかったが、俺の口から出てくる答えなど決まっている。

 婚約は継続で、破棄などしてたまるか。


 そう確かに言うはずだった俺の口は、三度みたび言葉を間違えた。

 俺と結婚してください、と。





■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □


連日更新お付き合いありがとうございました。

エピローグは同日22時に更新予定です。

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