第5話 獣と人形

※ひとによってはちょいグロ回。ご注意ください。


■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ 


 吐瀉物で汚れた服を着替えるために風呂へ入り、そのあとに袖を通したのは寝間着だ。

 ストレスか、お腹の中がグルグルと掻き回されているかのように気持ち悪く、ついでに熱も出てきたようで頭も痛い。

 こんな状態で起きて話の続きを聞くことなど不可能だ、と夕食もとらずに眠ることにした。


 ……あ、夢だ。


 夢だ、とは思うのだが、これはきっとアルフレッドの話の続きだ。

 嫌な予感に全身を包まれているのだが、逃げ出すことも、振り払うこともできない。


 カチャンッと何かが割れる高い音がして、部屋の中に強烈な香水の臭いが広がる。

 ジャスパーが何かを言いながら、白い布を私へと投げて寄こした。

 それをカリーサが受け止め、私の口へとあてる。

 そこで意識を失って、次に目が覚めた時にはどこか堅い物の上に寝かされていた。


 ……ジャスパーのベッド、じゃないよね?


 私が寝かされているのだから、どこか部屋のベッドだろう。

 堅いベッドなので、それほど物はよくないはずだ。

 ならば部屋の主であるジャスパーのベッドか、と一瞬だけ考えたのだが、すぐにそれは違うと判った。

 鼻が拾い取った臭いが、ジャスパーの部屋のものではなかったのだ。

 ジャスパーの部屋は掃除の回数が少ないのか、少し埃っぽい臭いがする。

 それに、薬師という仕事のためか薬草の匂いも混ざっているのだ。

 そのどちらもが、この場所にはない。


 ……どこ?


 明らかにおかしい。

 そうすぐに感じ取り、目を開けたくなる衝動を抑える。

 自分の置かれている状況が気を失う前から変わっており、どんな状況にあるのか判らない以上は、より多くの情報を拾い取るために現状を維持した方がいい。

 気を失った振りを続けた方が、周囲も油断するはずだ。


 ……何か、音? と、女の人のうめき声……?


 女性の声が聞こえる、と思った瞬間に、その声がカリーサの物であると判った。

 いつも私の傍にいてくれる、日によってはレオナルドよりもよく聞く声だ。


 ……何? カリーサが、苦しそう……?


 嫌な予感に唾を飲み込む。

 寝た振りを続けるために視界を閉ざしていたため、聴覚は普段よりも敏感に周囲の音を拾い取った。

 カリーサのうめき声の他に周囲の様子が判らないかと思ったのだが、自分たちが最悪の状態にあるということだけが判った。


 音として拾い取れたのは、カリーサのうめき声と微かな水音、それから獣のような唸り声だ。

 感触として判ったのは、私が堅い物の上にうつ伏せで寝かされていることと、背中に熱い大きくて重いものが載せられていることだった。

 背中の重石に大小六つの支点があると気がついた時、私の置かれている状況も判る。

 私の背中にある重石は、けだものの手だ。


 私を人質として押さえられ、反撃を封じられたカリーサが獣に好きにされているのだろう。


 かすかな水音と獣の唸り声は、そういうことだ。


 ……どうしよう。どうしたらいい? 寝た振りを続けるか、無理を承知で暴れるか。


 私に理不尽な暴力に抗えるだけの力があれば、この状況を打破することもできるかもしれない。

 しかし、残念ながら私にそんな力はなかった。

 私は普通の女の子でしかない。

 というよりも、体格もそうだが普通の女の子よりもひ弱な方だと思う。

 私ひとりが暴れたところで、事態が好転するとは思えなかった。


 ……カリーサなら。


 カリーサなら、どう考えるだろうか。

 私にできることなどたかが知れているので、私がしたいことは脇に置く。


 私がしたいのは、まず抵抗をしたい。


 カリーサを助けたい。


 ここから逃げ出したい。


 どう考えても、私には不可能なことばかりだ。

 抵抗したところですぐに制圧され、より状況が悪くなるだけだろう。

 カリーサもそれを見越して言いなりになっているはずだ。


 ……じゃあ、カリーサが私にしてほしいことを考えよう。


 私がカリーサなら、と考えて、今の私に望むことは、目覚めないことだ。

 気がつかないこと、でもある。

 自分の置かれている状況を知られたくはないし、下手に目覚めて大声を出し、獣たちを刺激されても困るだろう。

 せっかく自分が黙って耐えているのだから、機を見て必ず助けるので待っていてほしい。

 カリーサが考えそうなことといえば、こんなところだろうか。


 ……おとなしく待ってる。レオナルドさんと、お人形のようにおとなしく待っています、って約束したしね。


 迎えに来るまで待っていろ、と言われたのだから、レオナルドが迎えに来るはずだ。

 セドヴァラ教会から私が連れ出されていたとしても、私がいないという異変に気付くことはできる。

 となれば、やはり私にできることは獣たちを刺激しないよう、おとなしくしていることだけだ。


 ……レオナルドさん、早く来て。


 早く迎えに来て、カリーサを助けてほしい。

 そう願いながら私が寝た振りを続けていられたのは、少しの間だった。


 獣たちに私の狸寝入りが気付かれてからは、最悪だ。

 カリーサがされていることを、「おまえのために一生懸命働いている女中メイドの仕事っぷりを見てやれ」と見せつけられた。

 男と女が何をするかは知識として知っていたが、目の前で繰り広げられているものは本質からして違う。

 吐き出したくなる程おぞましい行為だったが、カリーサが耐えているのだからと私も耐える。

 泣いたり、怖がったりと反応を返せば獣たちを喜ばせるだけだと思ったので、あえて心を無にした。


 取り乱さずにいられたのは、ヘルミーネの教育が役に立ったのだと思う。


 感情と思考は切り離し、客観的に物を考えろ、とヘルミーネには教わった。

 今がその時なのだと思う。

 泣きたくなる感情に蓋をして、事態を好転させる機会を探る。

 時間を稼いでレオナルドの迎えを待つべきか、カリーサから獣を引き離すのが先か、と考えている間に順番待ちをしていた獣の一匹ひとりが私へと視線を向けた。


「一度ガキに突っ込んでみてェと思ってたんだよ」


 この言葉が何を意味しているのかは、すぐに判った。

 目を逸らせずにいたカリーサの瞳に、強い怒りの色が宿る。

 私へと獣の手が伸ばされてきたので、顔をあげて獣の顔を確認し、座らされていた木箱から降りた。

 子どもと侮られてか、最初からこれが目的だったのか、私の手足は縛られていない。


 ……私にだって、我慢の限度があるんだからね。


 カリーサが我慢しているのだから、と私も我慢した。

 レオナルドが迎えに来ると言っていたので、もう少しと自分に言い聞かせもしていた。

 臭いのも、嫌なのも、目を逸らしたいのも全部我慢していたのに、獣の手が私へと伸ばされる。


 私だって、たまには自分で動くべきだろう。

 いつもいつも、助けを待っているだけではいけないはずだ。


 なけなしの勇気を振り絞って体を動かす。

 大きく息を吸い込んで、深呼吸をひとつ。

 これで事態が悪化したとしても、私という足手まといさえいなければ、カリーサは自分ひとりでどうとでも逃げられるはずだ。


 ……あっちが酷いことをしてくるんだもん。やり返される覚悟だって、当然あるよね?


 先に手を出してきたのは獣たちの方だ、と私の中の最後の理性を押さえ込む。

 悪いのは獣たちであり、私はただ身を守るために抵抗をするだけなのだ。

 私は悪くない。

 悪いのは獣の方だ。

 抵抗するのは、当然の権利である。

 抵抗されるような真似をする獣が悪いのだ。


 ……私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。


 何度も自分に言い聞かせ、震える拳を握り締める。

 深呼吸とはいえ突然動き始めた私に、獣たちはポカンっと瞬いていた。

 この機に乗じて、私は私にできる精一杯の意趣返しをする。

 心を無にして、丁度目の前にぶら下がっているナイフを、禿頭とくとうの獣の腰から抜き取り、今度は全体重をかけて獣のわき腹へと返却してやった。


 ……気持ち悪い。な感触がする。


 意外にするりと『返却』できた気がする。

 抵抗があったのは、最初だけだ。

 ズクリッと肉を割く感触がナイフから伝わり、吐き気がした。


 人間けだものを刺したゾッとする感触は、たぶん一生忘れないだろう。

 意外と血が流れないものだな、と頭のどこかで冷静な私が思った。

 もしかしたら、刺したナイフが蓋の役目を果たしているのかもしれない。


 ――私の記憶があるのは、ここまでだ。


 横から強い衝撃を受けた気がする。

 次に背中を強く打ち付けて、頭が真っ白になった。


 何も見えない、なにも聞こえない空間に投げ出され、ただ優しい気配が私から遠ざかるのを感じる。

 その気配がカリーサだと解った時には、気配を追って滅茶苦茶に走っていた。

 追いかけて、追いかけて、やっと追いついて抱き止める。

 どこかに行っては嫌だ、置いて行かないでくれとすがると、優しい気配は私を抱きしめてくれた。

 いつものカリーサのぬくもりに気が緩み、そこで意識を手放した。

 全部、悪い夢だったのだ、と。







「……かぁっ」


 あまりの寝苦しさに、目が覚める。

 時間は判らないのだが、周囲は真っ暗だった。

 まだ日が昇るような時間ではないのだろう。


 温かいいつものベッドのはずなのだが、寝汗のせいで妙に熱くて息苦しい。

 毛布をかけているのが暑苦しく、毛布から逃げようと足で蹴る。

 しばらく毛布を相手に暴れていると、天蓋の向こうからレオナルドが顔を覗かせた。


「どうした、ティナ。毛布はちゃんとかけないと、風邪を引くぞ」


「……レオ」


 毛布を蹴って体の上から退かそうとしていたのだが、レオナルドの顔を見たらどうでもよくなった。

 毛布の重苦しさを避けるよりも、確実に嫌な気分が吹き飛ぶ特効薬レオナルドが来てくれたのだ。

 じわりと目頭が熱くなるのを感じながら、レオナルドへと腕を伸ばす。

 レオナルドは私の意図をすぐに汲み取ってくれたようで、私の腕を首にかけて抱き起こしてくれた。


 あとは、夢の続きのようなものだ。

 口から出てくるのは「ごめんなさい」という謝罪である。

 レオナルドの首に抱きついて安堵をえながら、蓋をして忘れた振りをしていた感情ものを吐き出す。

 耳元で突然わんわんと泣き出されたレオナルドにはいい迷惑だろう。


「……ごめんなさいの理由わけは?」


「わ、わたし……わたしが、約束を、やぶったの……!」


 人形のようにおとなしく待っているとレオナルドに約束をして、この約束を私は守らなかった。

 途中までは我慢したのだ。

 おとなしくしていることが最善だと信じ、じっと息を潜めて自分こころを殺していた。

 けれど我慢の限界がきて、おとこたちに抵抗をした。


 目の前にぶら下がっていたナイフで、人間けだものを刺してやったのだ。


 そのあとの記憶はない。

 ただ、激昂した獣の咆哮は聞いている。

 あんな感情いかりを向けられて、私が今も生きているというのはおかしい。


「せ、せっかく……カリーサが、我慢……してたのに、わ、わたしが台無しに……しました」


 夢で見た思いだしたことのすべてをレオナルドに話し、懺悔する。

 言いつけを守らなかった私が悪い。

 おとなしく待っていられなかった私が悪い、と。


 すべてを話し終えてから、今日まで怖くて聞けなかったことを口にする。

 私がここにいるというのに、私の傍にいるはずの人がいないのだ。


「……カリーサは、なんで、いないんですか……? さっきも呼んだのに、来たのはサリーサでした」


 カリーサはどこに行ったのか。

 怖くて聞けなかった言葉を、ようやく口から出すことができた。

 答えが怖くて聞くことができなかったのだが、ずっと聞かずにもいられない話だ。


「……アルフレッド様の話で、女性の焼死体が見つかったというものがあっただろう。遺体の特徴で、サリーサにも確認を取った」


 女性の焼死体は、カリーサだった。

 淡々と告げられる言葉に、目の前が真っ暗になる。


 我慢ができなかった私のせいで、カリーサが死んだのだ。


 スッと血の気が引くように、涙が奥へと引っ込む。

 意識を手放してまたすべてを忘れたい気はしたが、レオナルドにすがることで踏みとどまった。

 なによりも、私はもう先に二年間もこの事実から逃げている。

 二年も逃げたのだから、あとはちゃんと向き合うだけだ。


「……カリーサの遺体は、どうしたんですか?」


 我ながら情けなくなるほど声が掠れる。

 いかにも同情してください、慰めてください、とでも言うような声音に、しゃべることすら厭わしい。

 カリーサの死は、私が招いたことだ。

 私が最後まで我慢できなかったから、人形に徹することができなかったからこそ、招いてしまった。

 カリーサの死について、慰められる権利など私にはない。

 むしろ、私は責められるべき側の人間なのだ。


「カリーサは荼毘に付して、死の神ウアクスのやしろに安置してある。ティナがお別れをしたいかと思って、サリーサと相談して、埋葬はまだだ」


「じゃあ、早く埋葬……してあげませんとね。カリーサも、ちゃんと……眠りたいでしょう。いっぱい、いっぱい……謝らないと、いけませんね」


「謝るのもそうだが、ちゃんとお礼も言おうな。ティナを見つけ出せたのは、カリーサが手掛かりを残してくれたからだ」


「手掛かり、ですか?」


 あの状況で何ができたのだろう、と考える。

 情けないことに私は途中で意識を失っているが、カリーサは武器など持っていなかったはずだ。

 獣たちの意識が怒りで私に向かったとしても、カリーサ一人であの場を制圧することは難しかっただろう。

 それに、本当にあの場が制圧できていたとすれば、私が二年も逃げる必要はなかったはずだ。


「さすがはイリダルの育てた娘というか、カリーサの口の中から指輪の嵌った男の指が出てきたんだ。おそらくはカリーサが誘拐犯の指を噛み千切ったんだろう」


 その指輪を手がかりに誘拐犯を探し、ズーガリー帝国の貴族がこの誘拐を画策したことが判ったらしい。

 二年という時間はかかったが、そのおかげでレオナルドは私を迎えに来ることができたのだと教えてくれた。


「……カリーサが、わたしの居場所を教えてくれたんですね」


「カリーサがしてくれたことは、それだけじゃないぞ」


 見てみろ、とレオナルドが指差したのは、私の足だ。

 骨と皮ばかりのガリガリにやせ細った、とても健康な子どもの足とは思えない細さだった。


「手足はこんなにやつれているけど、カリーサを探して歩き回っていたおかげで、ティナは辛うじて歩けるだけの筋力を残していてくれた」


 カリーサはこの二年の間も私を助けてくれていたのだ、と続いた言葉にまたじわりと目頭が熱くなる。

 これ以上情けない泣き顔を見られるのが嫌で、顔を押し付けるようにレオナルドの首筋へとすがりつく。


「……わたしが全部我慢できてたら、カリーサは死ななかったかな」


「それは難しいだろう」


「慰めてくれなくていいですよ、わたしが悪いんです」


 悪い子である私に慰められる資格などない。

 そう言って顔をあげると、レオナルドの大きな手で頭を撫でられた。


「ティナは悪くないし、慰めているわけでもない。ただの事実だ」


 私の誘拐については無関係の人間が多く殺されている、とレオナルドは先ほど聞いたばかりのアルフレッドの話を繰り返す。

 少なくとも、誘拐犯たちが秘密裏にことを行なっていたのなら、倉庫番はともかくとして桟橋の管理人まで殺す必要はなかったはずだ、と。


「人間を一人攫うためには、連れて行く人数は少ない方がいいからな。ティナだけを連れて行くのが最良で、普通は他の人間まで連れて行かない」


 この場合の『連れて行かない』は、口封じに殺すということになる。

 桟橋の管理人や倉庫番が殺されているのだから、これは間違いがない。


「ティナが最後まで無抵抗でいたとしても、ジゼルかカリーサのどちらかは殺されていたはずだ。それに、ティナも……」


 飲み込まれた言葉の続きは、なんとなく判る。

 私が抵抗をしなかった場合に起こっていたことは、私の死だ。

 私の体は年齢のわりに小さく、まだ女性としても体が完成していない。

 そんな私の体に無体を強いれば、心が死ぬより先に体が壊れていただろう。

 私があの日我慢をやめたのは、生き残るためだったのかもしれない。


「……そういえば、ジゼルはどうしたんですか? わたしがいなくなったから、王都に帰っちゃったんですか?」


 カリーサの他に、ジゼルがいない。

 そうようやく気がつくと、他にもアーロンがいないことに気がついた。

 アルフレッドも、メール城砦から『戻って』来たと聞いていたはずだ。

 誘拐されていたらしい私の他にも、私の周囲にいた人間の姿が消えている。


「二年前、本当に何が起こったんですか?」


 今度はちゃんと、逃げずに聞きたい。

 格好悪いことに、レオナルドにしがみ付いている姿勢は変えられないが、話を聞かねばという覚悟はできた。


 ジッとレオナルドの顔を見上げると、レオナルドは少しだけ困ったような顔をして、それでも聞かれるままにこの二年間の話をしてくれる。

 アルフレッドがボビンレースを流行らせる必要があったと言っていた理由も、フェリシアの突然の結婚も、アルフレッドが避けたがっていた王座につくことになったのも、みんな原因は私だった。

 私を探し出す手段として、この二年間にさまざまな試みが行なわれたらしい。


 すべてを聞き終わる頃には、私はまた夢の中にいた。


 懲りないことに、私は夢の中でまたカリーサを探し歩き、後ろ姿を見つけて追いかけようと一歩足を踏み出す。

 その寝巻きの裾を、低い位置から引っ張る手があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る