ジゼル視点 白き役立たず 7

 少しでも気が紛れれば、と用意したボビンレースは思った以上の効果を発揮してくれた。

 クリスティーナの起きている時間が格段に長くなり、起きている時間のほとんどはボビンレースを織っている。

 最初のうちは有り合せの道具で作った糸巻ボビンに、クリスティーナはやり難そうにしていたのだが、今は慣れたようだ。

 コロコロとしたいい音は響かないのだが、クリスティーナは動作にほとんど詰まることなくボビンレースを織り続けた。


 気分がいいらしい時には鼻歌まで出てくるようになったことは、喜ぶべきかもしれない。

 しかし、少し弊害も出てきた。

 ボビンレースに夢中になりすぎて、散歩へ連れ出すことが難しくなったのだ。

 秋から冬にかけて、庭へ出る機会が減ったこともその理由である。

 ボビンレースに夢中になり、歩くことの減ったクリスティーナは、悪い意味で順調に筋力を落としていった。

 春から夏にかけて維持させた筋力は、冬に目覚めた頃に戻っている。

 さすがに起き上がれない程ではないが、いつかのように一人で走ることはできないだろう。


 ……ここにコクまろがいてくれたら、背中にボビンレースの枕を括りつけて、クリスティーナお嬢様に追わせればいい運動になりそうなのだけど。


 この城にも犬がいることにはいるが、あれらは番犬だ。

 黒柴コクまろのような愛嬌はないし、黒犬オスカーのようにクリスティーナを主人としているわけでもないので、鉄格子より向こうへと入り込めばクリスティーナが相手であっても牙をむく。

 番犬たちはクリスティーナを守っているのではなく、クリスティーナの逃亡を防ぐために配置されているのだ。

 あくまで番犬たちの主は、エドガーと世話をする訓練師ということなのだと思う。


「システィーナ様、この文字は読めますか?」


 ジャスパーがニホン語と思われる書付をクリスティーナに見せ、それに対してクリスティーナは無言を貫いている。

 集中している時のクリスティーナはプリン以外の誘惑は耳に入らないようで、聞こえていたとしても気が向かなければ無視をする。

 無理矢理気を引こうとボビンレースを取り上げれば、取り返そうとこちらへ意識を向けるのではなく、『それで終わり』だ。

 取り上げられたボビンレースへは、見向きもしなくなる。


 今のクリスティーナは、主張らしい主張はほとんどないのだが、その分強制されることを極端に嫌うようだ。

 誘導はできても、強制はできない。

 少しでも何かを強制すると、クリスティーナは拗ねて動かなくなる。

 変なところで、とんでもなく頑固だ。

 今のクリスティーナに何かをさせたかったら、うまく誘導するしかない。

 そして、クリスティーナ付の薬師として城に滞在するジャスパーもまた、これに気がついていた。


 ……そんなものでクリスティーナお嬢様の気が引けるのだろうか?


 書付をクリスティーナに読ませることは諦めたようなのだが、だからといってニホン語を読ませることを諦めることはできない。

 ジャスパーはニホン語と思われる文字を塗板こくばんや紙に書いて、部屋のそこかしこに忍ばせた。

 なにかの拍子にクリスティーナの目に留まり、うっかり読み上げれば儲けもの、とでも考えたのだろう。


 そしてこの作戦に、クリスティーナはひっかかった。

 離宮でも時折塗板を使っていたクリスティーナは、同じものではないとはいえ塗板に反応したようだ。

 塗板に白墨チョークで書かれた文字を目で追い、「……の、お……は……として?」と実に久しぶりに言葉を発してくれた。

 私としてはそれだけでも快挙だったのだが、ジャスパーにとってはクリスティーナの反応は何か頭を抱えることがあったようだ。

 平仮名しか読んでいない、と顔を凍りつかせていた。


「……幼児返りか? いや、システィーナが八つの頃から知っているが、こんな様子ではなかったぞ……」


 健康診断を兼ねていると思うのだが、脈を取ろうと首へ手を伸ばしたり、頬へ触れたりしてくるジャスパーがうるさかったようだ。

 クリスティーナはおもむろにジャスパーの指へと噛み付いた。


「痛っ!? ……いや、これは確かにやっていたか?」


 私は十一歳からのクリスティーナしか知らないので、クリスティーナが人を噛むところなど見たことがないのだが、ジャスパーとしてはクリスティーナには『ありえる行動』だったらしい。

 少しお転婆ながらも淑女として振舞えるよう努力してきたクリスティーナしか知らないので、まったく想像できなかった。


「しかし、本当に幼児返りだったら……時間はかかるが、保護者の上書きができるかもな」


 それができれば扱いやすくなっていいのだが、と見事な歯形のついた指を擦りながらジャスパーがクリスティーナを見つめる。

 やっと光明が見えてきたような顔をしているが、私としては非常に困っていた。

 クリスティーナの中で保護者が上書きされてしまえば、クリスティーナはレオナルドの元へと帰れなくなってしまうような気がしたのだ。

 周囲から見れば『攫われたクリスティーナが元の家に帰れた。よかった』という状況のはずなのだが、クリスティーナから見たら『誘拐された』と認識されてしまう可能性もある。


 ……は、早くっ! 早くなんとかしませんとっ!


 すぐに起せる行動などなかったので、できることから始めようと思う。

 まずは、すっかり落ちてしまった筋力をどうにかしようと、クリスティーナが目を離すたびにボビンレースの位置を移動させることにした。

 具体的に言うと、プリンを目の前へと持っていって「机の上を片付けましょうね」とクリスティーナの了解を得てボビンレースの道具を遠ざける。

 後はプリンの皿をできるだけゆっくりと片付け、ボビンレースの道具が机へと戻ってくるのを待ちきれなくなったクリスティーナが道具を取りに行くのを待てばいいだけだ。

 道具を取って元の机へと戻ってきたのなら、クリスティーナは往復歩く。

 そうでなくとも、少しの距離とはいえクリスティーナが歩くことは重要だ。

 この方法でなら強制はしていないので、クリスティーナは案外素直に歩いてくれた。


 ……微々とした距離ですけどね。


 クリスティーナの体力作りということは伏せて、室内で飼える仔犬をエドガーに用意させることはできないだろうか。

 近頃のエドガーは、クリスティーナを着せ替え人形だとでも思っているようで、人形と揃いでいくつものドレスや靴を贈ってきていた。

 クリスティーナの情操教育に、とでも言えば案外簡単に用意されそうな気がする。







 今朝のクリスティーナは、目覚めた瞬間から不機嫌だった。

 普段は促されるままに手をあげてくれたりとして着替えさせるのが楽なのだが、今日はうんともすんとも言わない。

 それでも町から雇い入れられた子育て経験のある女中メイドはクリスティーナの機嫌を取るような真似はせず、「小さい子にはよくあることよ」と笑いながらクリスティーナを着替えさせていた。


 日課の日光浴をさせようと、窓辺の長椅子へと自分では動かないクリスティーナを運ぶ。

 ジッと動かないクリスティーナは、そっくりに作られた人形と並べておくと本当に人形みたいだ。

 もとから体格が小さいのと、筋力が落ちて手足が棒のように細くなっているのも、人間味を薄れさせている一因になっていた。


 ……あれ? 今朝はなにか……違和感が?


 何かおかしいと思うのだが、その何かが判らない。

 長椅子に座ったクリスティーナをジャスパーがいつものように診察するのを見守って、室内をゆっくりと見渡してみた。

 絶対にいつもと違う箇所があるのだが、それが判らない。

 が、もしかしたらクリスティーナはこの微妙な違和感に気がついていて、今日は様子がおかしいのかもしれなかった。


 ……? なんの音?


 クリスティーナのための薬湯を用意しに部屋から出て行ったジャスパーを見送っていると、コツコツと音が聞こえる。

 誰かが机でも叩いているのだろうか、とワゴンに載せた茶器でお茶を淹れている年配の女中を見てみるのだが、特に何かを叩いているような様子はなかった。

 ではいったいどこから、と音の発生源を探し、惹かれるままにクリスティーナのいる窓辺へと近づく。

 音は、クリスティーナのいるすぐ近くから聞こえていた。


 ……何か動いた?


 何かが動いた気がして、じっと目を凝らしつつ音の発生源を耳で追う。

 チラリと視界の隅で物が動いたような気がして意識をそちらへと向けると、窓の下の方で動く何者かの手があった。


「ふふふふううううううぅっ!?」


 不審者発見、と叫ぼうとしたのだが、咄嗟に覚えた既視感が待ったをかける。

 窓の向こうで頭を下げて隠れていた男と、一瞬だけ目が合った。

 その顔に、覚えがある気がしたのだ。


 結果として口から出てきたのは奇妙な雄たけびだったが、クリスティーナの見張りへと異変を報告することにも、侵入者を逃がすことにも役立ったようだ。

 見張りの男が窓辺へとやって来る頃には、窓の向こうの男が走り去る足音が聞こえていた。


 ……なんで、どこかで見た気が……? あれ?


 赤毛の眼帯を付けた男が、窓の向こうから覗いていた。

 身なりは薄汚れていて、まず私が知り合うはずのない世界に生きる人間であることはすぐに判る。

 それでも男の顔に覚えがある気がして、違うことに遅れて気がついた。


 ……あの男、クリスティーナお嬢様を『ティナ』って呼んで、いた?


 小さく窓を叩いて、確かに『ティナ』と呼んでいた気がする。

 ということは、あの赤毛の男はクリスティーナの迎えだ。

 クリスティーナの迎えが来たということは、私は今、声をあげるべきではなかった。


 ……遅っ! 今頃気がついても遅い! 私っ!


 頭を抱えて落ち込みたいところだったが、駆けつけてきた見張りの男に私の内心など悟られるわけにはいかない。

 クリスティーナに迎えが来たのなら、できるだけ警戒は緩めておいた方がいいだろう。


 ……あれ? 人数が少ない?


 今さら気がついたのだが、先の違和感の正体はこれだろう。

 部屋の外と中を合わせて常時六人はついていた部屋の見張りが、今日は一人しかいないようだ。

 もしかしたら外の扉を守っているのかもしれないが、それでも奇妙な悲鳴に対して窓辺へと駆けつけたのは一人だけである。


「何があった!?」


「は? あ、えっと……庭に、犬が迷い込んでいたみたいで……」


 クリスティーナの迎えが来たようだ、などとは当然言えないため、男の逃げていった方角とは逆を指差しながら適当なことを言っておく。

 番犬が檻から出てきたのではないか、クリスティーナが襲われたらどうするつもりだ、と少しだけわざとらしく怒ってもみせた。

 しばらく騒いでみたのだが、部屋の中の見張りが増える様子はなかった。

 今日は本当に、見張りの数が少ないらしい。







 ……思いだした! ジャン=チャックとかいう黒騎士っ!


 赤毛の不審者の顔をどこで見たのか、とずっと考えていたのだが、答えが出てきたのは就寝直前だった。

 今日の不寝番は別の女中がしているため、早めに休もうとベッドへ体を横たえた瞬間に思いだした。

 あの顔は王都で一度、二度目はヴィループ砦で見ている。

 クリスティーナが「ジャン=ジャック」と呼ぶのに対し、「ジャン=チャック様だ」と毎回訂正をしていたはずだ。


 ……あれ? でも、ジャン=チャックって、眼帯を付けている方が違ったような……?


 一瞬だけ見た不審者の顔と、ヴィループ砦で見た顔とを思い浮かべて比べる。

 クリスティーナの護衛として彼女が会う人物の顔と名前を覚えるようにはしてきたつもりなのだが、記憶にあるジャン=チャックの顔と今日の不審者の顔には明確な違いがあった。

 眼帯を付けている側が、左右逆なのだ。


 ……やっぱり別人? でも、変装の一環ということも……?


 眼帯の左右を変えただけで、すぐには誰かわからなかったのだ。

 変装として眼帯の左右を変えた、ということもあるのかもしれない。


 ……クリスティーナお嬢様に、迎えが来た……?


 私一人ではクリスティーナを安全にイヴィジア王国へと帰すことは難しいが、黒騎士が動いているとなれば話は別だ。

 黒騎士が動いているということは、レオナルドやアルフレッド王子が指示を出しているはずである。

 ということは、私が考えるよりも余程確実性のある方法をもって、クリスティーナを取り戻しに来てくれるはずだ。


 ……ということは、やはりクリスティーナお嬢様の筋力を取り戻さないと。


 今のままでは、いざという時に逃げることもできない。

 黒騎士がクリスティーナを見つけてくれたのだ。

 救いの手が差し伸ばされる日も、そう遠い日ではない。


 ……あちらも少しでも多くの情報を集めているはず。どうにかしてクリスティーナお嬢様の現状を伝えないと……?


 クリスティーナの状態は、伝えておいた方がいいと思う。

 いざクリスティーナを確保したとして、今のままでは常に抱き運んで逃げることになるのだ。

 それなりの準備が必要になるはずである。


 ……そうだ。手紙! 手紙を書いて、ジャン=チャックに渡せれば!


 クリスティーナへの接触が、今日の一回だけで終わるはずがない。

 機会を窺って、必ずもう一度こちらへと接触を図りに来るはずである。

 あちらが私に気がついてくれたのなら、手紙を渡すこともできるかもしれない。


 まずは手紙を書こう、とベッドから体を起して机に向う。

 明かりをつけると何かをしていると部屋の外の見張りに悟られてしまうため、ボビンレースの図案を描くふりをして誤魔化すことにした。

 最初に作った図案はもうクリスティーナも覚えてしまっているようなので、丁度いいだろう。


 図案を描いた紙に隠しつつ、クリスティーナの現状を手紙に綴る。

 目覚めてからの様子がおかしいこと、食が細くなったこと、筋力が落ちていることなどを綴り、小さく折ってポケットへと忍ばせた。

 こちらからは連絡の取りようがない以上、手紙を渡すことは難しい。

 となれば、次にあの顔を見つけた時が勝負だ。

 必ずクリスティーナと接触を取ろうとしてくるはずなので、その時に手紙を渡すしかない。


 ……早く『次』が来ますように!

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