ジゼル視点 白き役立たず 3
『……あの
怒声と同時に天井――馬車に人間として乗っている側からしてみれば床――が大きく揺れる。
天井といえば距離があるように思えるが、実際には狭い空間の蓋となっている板なため、すぐ真上にある。
目を閉じて休んでいたところへの突然の衝撃と大音量の怒声に、驚いた私の心臓がバクバクと音を立てはじめた。
目の前には葉をつけたクリスティーナの顔があるのだが、こちらは相変わらずなんの反応もない。
あれだけの大きな物音だったというのに、目を覚ます気配もなにもなかった。
……夢では、なかった。
精霊がクリスティーナの世話をしやすいように、と少し目を閉じていたつもりだったのだが、すっかり寝入ってしまっていたらしい。
少し夢を見ていた気もする。
……女中って、カリーサのこと?
耳を澄ませて馬車の中の様子を窺う。
私にできることなど本当に少ないので、できそうなことがあるのなら、なんにでも手を出していくしかない。
今できることといえば、情報収集ぐらいだろう。
馬車の中での会話に耳を澄ませ、ひとつでも多くの情報を拾い取る。
……貴族の名前がエドガー、ジャスパーは怪我の手当てに馬車の中に同乗、他の御者は外、と。
いかにも貴族といった風体のエドガーだったが、連れている使用人の数は貴族としては少ない。
その理由は、貴族として隣国へ旅行に来ているのではなく、富豪の商人を装って国境を越えて来たためなのだろう。
このぐらいの設定は、床下で盗み聞くことができた。
なんでも、イヴィジア王国で流行り始めた
ならば国境を越えるためには仕入れたはずのリバーシ盤が必要になるのではないか、と思えば、こちらもちゃんと用意しているようだ。
メール城砦周辺には、森や林が多い。
林業を生業としている村人も多く、すでに彼らへの発注は終わっているようだ。
……リバーシ盤が揃う前に黒騎士が見つけてくれれば、まだクリスティーナお嬢様をグルノールへ返すことができる。
それでなくとも、数が揃うのを待つ間に逃げ出す機会もあるかもしれない。
村人と接触できれば、黒騎士へと現状を伝えることもできるはずだ。
……まずは我慢。相手の油断を誘うためにも、従順に振舞わなくては。
絶対に諦めるものか、と決意も新たに自分へと言い聞かせる。
武力的には役立てない身なのだ。
アーロンが当てにできない今、考える仕事でぐらいはクリスティーナの役に立ちたい。
……指輪、取られた……?
馬車の中の会話へと意識を向ける。
少しでも情報を拾い取ることはできないだろうか、と澄ませた耳に、エドガーのカリーサへの罵倒が飛び込んできた。
『指ごと指輪を取られた! 取り戻しに行くぞ!』
『……冗談でしょう。転生者を連れ去った以上、あとは安全圏まで逃げるだけです。グルノールの街へは近づかない方がいい』
『あの指輪は、我が家の当主の指輪だぞ!』
『そのような大切な指輪を、なぜ人を攫いに来た場所で身につけていたのですか。そのような、奪われれば自分に繋がるような物を……』
『当主なのだから、あの指輪を常に身につけていることは当然のこと……だっ!』
エドガーの言葉の終わりに、天井が大きく軋む。
もしかしなくとも、苛立ちを紛らわせるために床を蹴り、床底の私たちへと攻撃を加えているのだろう。
暗闇でいつ鳴るかも判らない打撃音に襲われ続ければ、普通の精神では持たない。
これが本来ならクリスティーナが一人で晒されることになっていた扱いかと思えば、二人でよかったとも思える。
……クリスティーナお嬢様は、まだ目を覚まさないのだけど。
エドガーが床を蹴ってこちらへと攻撃を加えてこようとも、目覚めぬクリスティーナにはなんの威力も発揮していない。
穏やかな寝顔のクリスティーナに、すでに死んでしまっているのではないかと不安にもなるのだが、時折震える瞼にまだクリスティーナが生きているのだと知ることができた。
……まだ生きている。まだ大丈夫。
一日に一度だけ、仕掛け扉が開かれて上半身だけ外へと出すことが許される。
そこで水と食事を与えられるのだが、世話を焼こうと触れるクリスティーナの体は驚くほど冷たい。
体力を奪われないように、と体を毛布に包まれているのだが、クリスティーナ自身が冷たいので、あまり毛布の意味はないように思う。
「体温が低いな。風邪でも引かれれば厄介なことになるが……」
寝てばかりいるクリスティーナは、自分から食事を取ることができない。
そのため、自分で熱を作ることができていないのだろう、というのがジャスパーの見立てだった。
水分は布に水を浸して
固形物を食べさせることができないので、クリスティーナの食事はクタクタになるまで煮込み、すり潰した野菜のスープだった。
これを
失敗するとクリスティーナが噎せて吐き出し、余計な体力を使ってしまうのが悩ましいところだが、これは世話をする側が慣れるしかない。
眠り続けているからといって、生きている以上は何も食べさせないというわけにはいかないのだ。
……クリスティーナお嬢様は、抵抗しないことで抵抗しているみたい。
連れ去るのなら、連れ去ればいい。
食事の世話も、したければ好きにしろ。
その代わり、自分からはなんの反応も返してやらない。
誘拐犯の意のままになど、絶対になってはやらない。
そんな意思を感じる。
クリスティーナの目が覚める様子は一向になく、頭を打っているために強行軍の逃亡はできない。
一日に一度だった食事を、
しかし、顔の葉は増えなくなったので、精霊による治療は終わったのだと思う。
クリスティーナの様子を見ながらの慎重な動きではあったが、床ずれを警戒して少しずつ姿勢を変えるようにもなった。
少しだけクリスティーナの体を動かせるようになると、水辺に馬車を停めて体を洗うことができるようになった。
なにしろ一日中馬車の床下に閉じ込められているのだ。
出すもの、出るものすべて垂れ流しである。
普通に考えれば床下には悪臭が溜まるはずなのだが、これもクリスティーナの持つ精霊の加護のおかげか、それを臭いと思ったことはない。
馬車の床下は、常に王都で嗅いだ花の香りに満たされた空間になっていた。
「クリスティーナをこれに着替えさせろ」
おまえの物もある、とジャスパーから手渡されたのは粗末な男物の服だ。
クリスティーナの体を清めている間に御者がどこかへと遣いに出されていたが、着替えを買いに行っていたらしい。
手当ての際に髪を男児よりも短く切られているため、男物の服を着せればクリスティーナは男の子に見えるのだろう。
誘拐犯にとっては都合のいいことだ。
着替えが終わると、これまで着ていた服はすべて燃やされてしまった。
クリスティーナがいつも身につけていたカメオも奪われ、火の中へと投げ入れられたのだが、なぜかカメオは無傷で燃え残る。
気づかれぬようにそっとカメオを回収しておこうと思ったのだが、エドガーに見咎められてしまった。
エドガーはカメオを灰の中から拾い出すとそれを確認し、川に向かって投げ捨てる。
あのカメオをクリスティーナの手に戻してやることは、これでできなくなってしまった。
……あれ? そういえば……。
この先の道に検問があるのか、舌の痺れる薬を与えられ、馬車の床下へと再び押し込まれる。
服は粗末な男物に変わってしまったが、クリスティーナには十分な毛布が与えられていた。
クリスティーナの安らかな寝顔に、再び床下の空間が花の香りに包まれる。
この香りを、馬車の外で嗅いだ気がした。
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