レオナルド視点 西を向いたアドルトルの紋章 1

「少しは落ち着いてください、レオナルド様」


 せっかく数日振りにいえへ帰ってきたのだから、とバルトにそれとなく注意を受ける。

 館へは休息のために帰宅したので落ち着けと言われるのも判るのだが、どうにも気持ちがざわめいた。

 こうしている間にも、ティナはどんどん遠くへと連れ去られているのだ。

 休息の必要性も充分に理解できてはいたが、じっとしていること自体が苦痛で、脱いだばかりの外套へと手を伸ばす。

 どうせ寛ぐことができないのなら、館の居間も、砦の執務室も同じことだ。

 やはり今は砦で過ごそう。

 そう思って外套を羽織りかけると、目の前へとバルトの淹れた珈琲が置かれた。


「まずは一杯お飲みになって、気持ちを落ち着けください。なにか新しい情報が入ってくれば、ここへ砦から報せが来ないわけはないのですから」


「それは判っているんだがな……」


 ティナが居ない。

 それだけで館がこんなにも落ち着かない場所になるとは思わなかった。

 ティナが館を留守にすること自体はあったのだが、それだって王都の離宮にいたり、オレリアの家にいたりと、居場所は常に判っていた。

 今のように知らないうちにどこかへと攫われ、居場所が判らないということはなかった。

 目の前で精霊に攫われた時でさえ、半日もしないうちに保護されたという連絡はきていた。

 何日も居場所がつかめないということは、これが初めてだ。


「コクまろの様子を見てくる」


 おとなしく休むことはできそうにないので、館の中の様子を確認することにした。

 黒柴コクまろの世話に薬師を一人拘束するのは忍びない、と館へ引き取り、その世話をミルシェに任せてはいたが、その後の様子を見ていない。

 同じようにセドヴァラ教会で治療を受けたアーロンの様子は何度か見舞い、話しもしているが、黒柴は完全に後回しだったのだ。


 飲み終わったカップをテーブルに置き、バルトに礼を言って居間を出る。

 黒柴は館で飼っていた番犬だが、今は世話がしやすいようにと、使用人の離れにいた。


 裏庭を回って離れに移動する途中、何気なく素朴な鉢が視界にはいる。

 なぜただの鉢に惹かれたのか、と記憶を探れば、それはティナの鉢だった。

 自分の宝物である、と言って王都から持ち帰る荷物を仕分けている時に、ティナが見せてくれた鉢だ。

 秋になったら花を育てると言っていたが、主の不在で鉢には土も何も入れられない状態で庭の片隅に片付けられていた。


 ……次は鉢まで気合を入れて選ぼう、と思っていたんだけどな。


 春華祭に送る鉢植えを探す前に、贈り先であるティナを探し出さなければならない。


 決意も新たに、まずはティナの兄としての役目を果たそう、と使用人の離れを訪れる。

 ティナの兄として、ティナの代わりに番犬の様子を見るのだ。


「あ、レオナルド様。ごめんなさい。お出迎えもいたしませんでした」


 離れの居間の一角に、ミルシェの小さな背中を見つけて近づく。

 足音に気がついたミルシェは立ち上がると、カリーサに教えられていた通りに礼をした。

 その足元には古い毛布が敷かれ、黒柴の黒い毛並みが見える。


「ミルシェはよく働いてくれているよ。一日中犬の世話というのは、疲れるだろう。俺の方こそ、すまないな」


「いいえ、お仕事ですから。それに、クリスティーナ様が大変な時に、私にはコクまろのお世話ぐらいしかできなくて……」


 しゅんっと俯くミルシェの黒髪に手を置く。

 ティナは柔らかい黒髪をしているが、ミルシェの髪は少し腰のある固さだ。

 色だけを見れば俺とティナが兄妹を名乗ることに不自然さはないが、髪質でいえばミルシェの方が俺の髪に近い。

 そのせいか、ミルシェの頭を撫でてもティナと間違えることはなさそうだ。


「コクまろの様子はどうだ?」


 声をかけながら覗き込むと、毛布の上に横たえられた黒柴は土を蹴るように四肢を動かす。

 時折爪が床に当たって引っ掻く音がするのだが、足を踏みしめて立ち上がることはまだできそうにない。


「体が思うように動かないのが不安みたいです。夜はずっとクンクン鳴いています。まだ形のある物は食べられません」


 ドロドロに柔らかくしたものしか食べられないし、それも下手をすると喉に詰まってしまう、とミルシェはここしばらくの奮闘振りを聞かせてくれた。

 食事と排泄の世話もあるが、日中は早く麻痺が取れるように、と薬師に教わったマッサージをしているそうだ。


「足は動くようになってきたけど、まだ動かすのがやっとみたいです」


「そうか。おまえも大変だろうが、ミルシェに協力してもらって、なんとか回復してくれ」


 そうでなければティナが悲しむ、と横たわる黒柴の頭を撫でる。

 黒柴は顔を向けることもできないようだが、まるで返事をするように耳がピコっと動いた。

 頭から手を退かすと黒柴はクンクンと鼻を鳴らしたので、ティナが顔を見せないことに不安を感じているのだろう。

 仔犬の頃はティナにべったりと甘やかされていたので、番犬として訓練をしたはずなのだが、黒柴の性格は甘えん坊だ。







 黒柴の様子を見たから、というわけではないが、翌日は砦へ戻る前にセドヴァラ教会へと顔を出した。

 麻痺毒の治療のため、セドヴァラ教会の診療台を一つ占拠し続けているアーロンだったが、解毒自体はすでに終わっている。

 薬師を一日中張り付かせておく看護はすでに必要なく、黒柴同様に世話をする者がいれば館へと引き取ることもできるそうだ。


「今はこれが限界です」


 そう言いながら、アーロンは緩慢に腕を動かしてみせる。

 指は僅かに先の方が震えるぐらいで、握ることもできなかった。

 腕を曲げようと力を込めているようで、肘がブルブルと震えている。

 なんとか動いていると言えるのは、肩の関節ぐらいだろう。


 ……麻痺が取れるのが先か、関節が固まるのが先か。


 関節は骨折などの治療のために固定しておくと、固まって動かしづらくなる。

 もちろん、また使うようになれば固まりは解れるが、麻痺が取れる前に関節が固まってしまえば、麻痺からの回復も遅くなるだろう。

 セドヴァラ教会に置いておけば、そのあたりの対策として定期的に関節を解す運動をしてもらえるのだが、アーロンは白銀の騎士だ。

 セドヴァラ教会に閉じ込めておくのは惜しい。

 有事の際に、白銀の騎士の指揮権は黒騎士よりも高い。

 俺は黒騎士とはいえ白銀の騎士でもあるため、アーロンの上に立っているが、アルフのいないグルノール砦を俺が留守にしようと思えば、アーロンに砦を任せることになる。


 ……一応は、体が麻痺している程度で、頭ははっきりしているんだよな。


 この様子ならば、数日の留守ぐらいは任せることができるだろう。


「それでも随分動くようになってきたじゃないか。発見時は、呼吸も怪しかったのだろう?」


 黒柴とは違い、アーロンは口も動く。

 固形物が食べられるだけでも、回復の速度は違う。


「まだ肩が回せる程度です。麻痺が取れる前に体が鈍ってしまいそうで……」


 もどかしい、と軽く目を伏せるアーロンの目の焦点は合っていない。

 たしかに俺の方を見ているのだが、微妙に目が合わないのは、気まずさから目を逸らされているのではなかった。


「目の調子はどうだ?」


「右目は光の位置がわかる程度です。左目も焦点が合わないというのか……距離が掴みづらいです。人の表情なんかも判りません」


 日常生活を送るには不自由がある程度だが、騎士として護衛の任に就くことはできそうにない、とアーロンは言う。

 距離感が掴めないのも困りものだが、人の表情が判らないというのは致命的だ。

 怪しい人物が人込みに潜んでいたとしても、怪しい人物を見つけ出し、警戒することができないのだ。

 これでは護衛など、とても務まらない。


「目はどこまで回復するか判らないそうです」


 のん気にベッドで寝ている場合ではないのだが、とアーロンは申し訳なさそうにしていた。

 左目はともかくとして、右目は絶望的だと報告にはある。


「それなのだが、一つ仕事を頼めるか?」


「もちろんです。ですが、今の私は剣を振るうどころか、盾も持てない身です。ベッドから動けぬ無能にできる仕事など、あるのでしょうか」


「ベッドから動けなくとも、おまえの頭ははっきりしているだろう。おまえに砦を預けたい」


 いっそ動けないアーロンに砦を任せ、動きたい自分が外へ出るというのも良い考えかもしれない。

 そろそろ俺もジッと砦で情報が集まってくるのを待っているよりも、現地に行って自分の足で調べたいと思っていた。


「俺も舟の見つかった場所を見に行きたい。ラガレットへも用事ができた。少しグルノールの街を離れたいのだが、生憎アルフは王都へと遣いに出している。砦を任せられる人間が、他に思い浮かばなかった」


 白銀の騎士であるアーロンならば、砦の黒騎士たちも指示を聞くだろう。

 アーロンが毒に侵されているのはセドヴァラ教会から連れ出されたティナを追いかけての結果だと、砦の誰もが知っていた。

 四肢の動かぬ騎士がなんの役に立つのか、などと侮る者はいない。


「補佐には従卒のアルノルトを付けるが、身の回りの世話をする人間もいるな」


 誰か雇うか、と考え始めたところで、アーロン自身に「黒騎士でいい」と遮られてしまった。

 俺としては細々としたことに気がついてくれる女性を、と思っていたのだが、鍛えているアーロンの体は重い。

 それの世話を女性にさせるのは無理があるだろう、というのがアーロンの主張だ。


 ……ペトロナあたりが、親身になって世話をしてくれると思ったんだがな。


 しかし、たしかにアーロンの世話をペトロナがするには無理があるだろう。

 本人が言うように、筋肉の鎧を纏ったアーロンの体は、ペトロナには重いはずだ。

 補佐にアルノルトがいるとしても、まだ少女でしかないペトロナには荷が勝ちすぎる。







 結局、アーロンの世話には男性の薬師を一人セドヴァラ教会から雇い入れ、馬車を使ってグルノール砦へとアーロンを運び込む。

 椅子に一人で座っていることも今はできないので、アーロンの執務机はそのまま俺の執務室にある仮眠室のベッドだ。

 アーロンにはここで集まってきた情報をまとめ、次の指示を出してもらう。

 一日その仕事ぶりを見てから、これならば少し砦を離れても大丈夫そうだと安心し、街の外へと出ることにした。


 ……舟があった場所を見たいと思ったが、今さらだな。


 舟が発見された当日であれば、犯人たちの乗り降りした足跡が残っていただろうが、さすがに日数じかんが経ちすぎている。

 その後、調査のために黒騎士が何度か訪れているので、そういった意味でも足跡は残っていないはずだ。

 もし今足跡を見つけられたとしても、それは犯人たちの足跡である可能性よりも、黒騎士たちの物である可能性の方が高い。


 舟が見つかったと報告があった周辺の捜索を諦めて、そのまま川を下ってラガレットの街へと移動する。

 ただラガレットの街へと向うだけならば、川での移動が楽で早い。

 他の町や村の様子を見ながらの移動では使えないが、今回のようにラガレットの街にだけ用がある場合には有効な移動手段だ。

 下るだけなら川の流れに任せるだけでいいし、まだ水が冷え切っていない秋ならアバックで川を遡ってグルノールへと戻ることも容易だった。


「お待ちしておりましたわ、レオナルド様」


 ラガレットの桟橋に到着すると、なぜかバシリアに出迎えられる。

 ジェミヤンへと連絡を入れてあったので、誰かしら迎えはあるだろうと思っていたが、娘のバシリアが出てくるとは少し意外だった。

 バシリアはティナの友人で、今も王都にいるとばかり思っていたのだが、いつの間にかラガレットの街へと戻ってきていたらしい。

 もしかしなくとも、王都よりラガレットの街の方がティナに近い、という理由だろう。

 出会いはなかなかないような強烈なものだったようだが、現在の二人の仲は良好だ。

 そう考えてみれば、バシリアが俺の出迎えに来ることはそれほど不思議なことではないのかもしれない。


「……あら? クリスティーナ様はご一緒ではありませんの?」


 俺の背後を覗き込むようにつま先で立ち、後に続く黒騎士以外の連れがいないとみると、バシリアはあからさまに残念そうな顔をする。

 俺の移動にくっついてティナが来るかもしれない、と出迎えてくれたのだろう。


「申し訳ないが、ティナは一緒ではない」


 一緒ではないどころか、もう半月以上行方知れずだ。

 黒騎士が各地へと散って捜索を続けているが、一向に行方が判らない。

 未だに連れ去られた方角すら判っていなかった。


「クリスティーナ様はお兄様にべったりなので、絶対にご一緒しているものと思いましたのに……」


「ガッカリさせてしまったようだが、仕事の案内を頼めるかな?」


 ティナのために協力してほしいのだが、と続けると、判りやすく肩を落としていたバシリアの気分が浮上する。

 なにか悪戯を思いついた時のティナのように瞳を輝かせて、淑女の礼をした。


「お任せくださいませ。父の名代として参りましたので、ちゃんとご案内いたしますわ」


「……そのジェミヤン氏は?」


「画廊から出てきませんの」


 いつも通りですので、お気になさらないでください、と言ってバシリアは体の向きを変えた。

 どうやら、このまま目的地へと案内してくれる気のようだ。


「どこへでも好きに案内して良い、と言われておりますの。今でしたら、お父様がお母様たちに隠している秘蔵の絵画が飾られた間へでもご案内できましてよ」


 うふふ、と微笑むバシリアの顔からは、ティナが一緒ではない、という期待が外れたことへの落胆は完全に消えていた。

 今はティナが時折見せた悪戯っこの笑みを浮かべて、俺の前を歩いている。

 機嫌が直ったな、と思わず正直に溢してしまったところ、バシリアは「お兄様とデートをしたと言えば、クリスティーナ様がヤキモチを妬きそうですもの」と満面の笑みを浮かべて答えた。

 悪戯っこの顔と思ったのは、間違いでもなんでもなかったらしい。


 ……そのティナが行方不明だと聞かせたら、バシリアは悲しむのだろうな。

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